第二十九話
心の中で、祈る。
ごめん。母さん、実里、爺ちゃん。
――俺、今日死ぬかも。
「うわぁぁぁぁー!!」
遠征に出発して、約二時間。
俺たちは今――空から落ちていた。
遡ること、二時間前。
「準備は万端かしら?」
初日以来、凪や御影さん、朝陽くん以外のメンバーに会うことはなく日々が過ぎ、久々に会った澪さんとの会話に、思わず背筋が伸びる。
「おはようございます! 万端です!」
思わず敬礼しそうになった。何だろう、この人の圧は。
俺がそう答えると、満足げに笑みを浮かべた澪さんの視線が、俺の手元へと落ちる。
「それも持って行くの?」
指さされた先を見て、俺はフロートボードを少し持ち上げた。
「あっ、はい。他の荷物は減らして、これの持参はお願いしてました」
不味かったですかね、と眉を下げると、澪さんは軽く首を振る。
「いえ、問題ないわ。自分で扱える移動手段があるなら、持っておいた方がいいでしょう」
その言葉に、ほっと息をつく。
すると後ろから肩を叩かれた。振り返れば、凪がいつもの穏やかな顔で立っている。
「おはよう。いよいよかと思うと緊張するね」
「わかる。そもそもこの船に乗るのが怖い」
そう返すと、いつからそこにいたのか、瑛真くんが呆れたようにため息を吐いた。
「乗る前から怖がってどうする」
その目線は馬鹿にした雰囲気を隠そうともしていない。
思わず顔を顰めつつ、瑛真くんへと負けじと視線を向けた。
「怖いもんは怖いだろ」
「なら降りればいい」
「それは違うじゃん」
思わず言い返すと、凪が困ったように笑う。澪さんはそれを見て、少しだけ面白そうに目を細めていた。
ちょうどその時、船の方から御影さん、朝陽、羽依さんが出てくる。羽依さんは片手に工具を持ったまま、眠たそうな顔で船体を振り返っていた。御影さんは全員が揃っているのを確認すると、静かに口を開く。
「揃っていますね。早速乗り込んでください」
その言葉と同時に、どこからともなく人が集まり始めた。
技術者らしき作業着の人、白衣を着た研究者、スーツ姿のお偉いさんらしい人たち。いつの間にこんなにいたのかと思うほど、格納庫の空気が一気に慌ただしくなる。
さっきまでただ置かれているだけだった船が、急に“これから動くもの”に見えた。
俺はフロートボードを抱え直し、今回のために支給された、足元の反発石入りのブーツを一度見下ろしてから、深く息を吸った。
船へ乗り込み、それぞれの座席でシートベルトを締めると、機体の外側に固定されていたストッパーのような金具が、ひとつずつ取り外されていく。
格納庫の中に、金属の外れる乾いた音が響く。
この船については、出発前にざっと説明を受けていた。
機体の先端は尖っているが、全体はどこか丸みを帯びている。乗り込み口の近くには、鳥類の翼とは違う、飛膜の張った、柔らかそうな羽がついていた。あれで空気を受け流し、姿勢を安定させるらしい。
この船はエンジンで空を飛ぶわけではない。
船体の内側には大量の反発石が組み込まれていて、その力を機械で増幅することで浮かぶのだという。島から離れたあとは、元の島と行き先の島、その両方の大地の力に干渉して、まるで見えない糸に吊られるように空中へ留まる。だから、気流に逆らって突き進むというより、気流に乗りながら浮いて進むのに近いらしい。
方向転換に使うのは、機体の後方にあるプロペラだ。
そこから吹き出す風の向きを変えて、船の向きを調整する。
説明を聞いた時は、正直半分くらいしか理解できなかった。
けれど、今こうして中に座ってみると、ひとつだけはっきりわかる。
「思ってた以上に、狭い……」
思わず零すと、前方の運転席から柔らかい声が返ってきた。
「一番近い島に到着するまで、頑張って」
運転席には、ヘルメットと通信機器のようなものを身につけた羽依さんが座っていた。いつもの眠たげな雰囲気は残っているが、手元の機器へ向ける目は妙に冴えている。
俺は小さく頷いてから、一度目を閉じた。
改めて思う。
この狭い船に、ギリギリの物品だけを積んで、たった六人であいつらはこの島までやって来たのか。
武器を持って。
目的を持って。
戻れる保証もない空を渡って。
そう考えると、背中にじわりと冷たいものが走った。あいつらが何を考えていたのか、俺にはまだわからない。けれど、ただの行き当たりばったりで来たわけじゃないことだけは、この船の中に座ると嫌でも実感できた。
六人でできることなんて、たかが知れている。
それでも、あいつらはやって来た。帰りの燃料すらまともに積まずに、武器と最低限の荷物だけをこの狭い船に詰め込んで、見知らぬ空を越えてきたのだ。
また、あの時の声が頭の中に蘇る。
『私たちが生き残るためだ。ほかに理由などない』
生き残るため。
それだけのために、あいつらは人を傷つけ、戻れないかもしれない場所へ踏み込んだ。いったい何が、そこまで彼らを追い詰めていたのだろう。
そんなことを考えているうちに、機体の奥から低い唸りのような音が大きくなっていった。足元がわずかに震え、頭上では格納庫の天井がゆっくりと開いていく。差し込んできた白い光の向こうに空が見えた瞬間、ふわりと身体にかかる圧が変わった。
機体が浮かび上がったのだ。
胃のあたりが少し持ち上がるような感覚に、思わずシートベルトを握りしめる。そっと目を開けると、隣の窓の向こうには、もう空が広がっていた。
機体は下方へ空気を送り出しながら、ゆっくりと建物の上へ抜けていく。昨日まで見上げていた総首都のビル群が窓の下へ沈んでいき、屋上や細い道が、まるで模型みたいに小さくなっていった。
ある程度の高度まで上がったところで、機体の後方からゴウッと大きな音が鳴る。
次の瞬間、船は車とは比べ物にならない速さで空へと滑り出した。
「うぉっ! 早っ!」
思わず声が漏れる。身体が座席へ押しつけられるような感覚に、思わず目を見開いた。
すると隣から、凪の声が聞こえてくる。
「聞いてはいたけど、体感すると全然違うね!」
その声は少し弾んでいた。怖がっているというより、初めて見る世界に驚いているような響きだった。
外を見ると、総首都の街並みはみるみる遠くなっていった。
車で村からここまで来る時は五時間ほどかかったのに、この船なら総首都から村まで二時間ほどで着くらしい。そう説明されてもあまり実感がなかったが、暫くして窓の下に見慣れた村の景色が広がった瞬間、本当にそれだけの速さで進んできたのだとわかった。
「意外と低い位置を飛ぶんだな」
お陰で学校や、行きつけの商店街がよく見える。
「まぁ、今回はね」
と、澪さんの声が聞こえたが、その意味はよく分からなかった。
ここまで大きな揺れはほとんどなく、運行は思っていたよりもずっと落ち着いていた。
眼下に広がる畑や道を目で追いながら、家があるだろう方向を見る。
実里、泣いてないかな。
母さんはきっと泣かないだろう。いや、俺の見えないところではわからないけど、少なくとも俺の前ではいつも通りだった。爺ちゃんはたぶん、何も言わずに茶でも飲んでいる。
そんなことを考えている間にも、船は村を越え、東の森の上へ差しかかっていた。
「森の先は、こうなっていたのか……」
思わず声が漏れる。
普段は木々に遮られて見えなかった森の奥。その中を一本の川が蛇みたいに曲がりながら流れ、やがて島の縁へ向かっている。水はそこで途切れ、白い筋になって下へ落ちていた。
滝だ。
でも、その落ちていく先は見えない。
島の端を過ぎた瞬間、窓の下にはどこまでも深い青が広がった。地面ではない。底の見えない、ただただ広い空の青だった。
初めて見る景色に、息をするのも忘れそうになる。
その時、運転席から羽依さんの柔らかい声が聞こえた。
「歯を食いしばって」
ん?
そう思った次の瞬間、ふっと胃が持ち上がった。
尻が椅子から離れる。
「うおっ――」
声を出すより先に、機体の下から吹き上がる風が一気に強くなった。船全体が大きく突き上げられ、座席に身体が叩き戻される。シートベルトが肩と腹へ食い込み、窓の外の青がぐるりと傾いた。
さっきまで静かに浮いていた船が、今度は空高く舞い上がっていく。
俺は反射的に肘掛けを掴みながら、心の底から思った。
聞いてない。
いや、たぶん説明はされていた。
でも、こんなの、聞いていたのと実際に体験するのとでは全然違う。
「っ!! うわぁぁぁあ!?」
機体は下から吹き上げる風を羽で受け、さっきまでとは比べ物にならない勢いで急上昇した。
身体が座席に押しつけられ、視界の端で空がすごいスピードで流れていく。
窓の外では、島の縁も、滝の白い筋も、あっという間に遠ざかっていった。機体は太陽へ近づいていくみたいに高度を上げ、そして、ある一点でふっと動きを止めた。
「止まった……」
思わず安堵のため息交じりに呟く。
さっきまで全身にかかっていた圧がゆるみ、張り詰めていた肩から少しだけ力が抜けた。
けれど、その直後。
「まだだよ」
運転席から、羽依さんの声が聞こえた。
いつも通りの、柔らかくて眠たげな声。
なのに、その一言を聞いた瞬間、なぜか背筋がぞっと冷える。
え?
そう思った次の瞬間だった。
「っっ! ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
さっきとは比べ物にならない重さが、身体にのしかかった。
いや、違う。
尻が椅子から完全に浮いている。
シートベルトが意思を持ったかのように浮き上がり、内臓が全部置いていかれるみたいな感覚に、今度は肘掛に縋りつく。
機体はものすごい速度で落ちていく。
落下、というより滑空。
でも俺からすれば、完全に墜落だった。




