第二十話
静まり返った部屋に、爺ちゃんの低い声が再び響いた。
「おそらく、国の中枢の奴にも知っている人間はいるはずだ」
その言葉に、御影さんは静かに頷く。
「そうですね。最初に政治を立ち上げたのは神職の方だったと聞いていますし、可能性は高いでしょう」
淡々と交わされる会話の内容が、あまりにも壮大すぎて頭が痛くなってくる。
神職。政治。国の中枢。
なんかもう、急に世界が広がりすぎじゃない?
俺、疲れたし、もう寝ていいかな……。
そんな現実逃避気味なことを考えていると、爺ちゃんがこちらへ顔を向けた。
「天斗。修行は良いが、もう巣穴には行くな」
「えっ? なんで?」
思わず聞き返す。今日だけでも、かなりパワーセーブできるようになった。
血装だって、まだ腹だけとはいえ少しは使えるようになってきている。
このまま慣れていけば、もっと戦えるようになるはずだ。何より、今後もこの間のような危機があると、今聞いたばかりなのに?
なのに、何で?
しかも爺ちゃんに限って、“危ないからやめろ”なんて理由ではないだろう。
俺が驚いて問い返すと、爺ちゃんはちらりと御影さんへ視線を向けた。
御影さんは、完全に“聞く側”の顔になっていた。
背筋を伸ばし、わずかに目を細めながら爺ちゃんの言葉を待っている。その様子を見た爺ちゃんは、小さく鼻を鳴らしたあと、諦めたように口を開いた。
「国には、虫の研究機関もあるんだろう?」
突然の問いかけに、御影さんはすぐに頷く。
「あります」
「そこでも言われているんじゃないか? 虫の量と病気がつながっているんじゃないかと」
その瞬間、御影さんの表情が変わった。
わずかに目が見開かれ、息を呑む音が静かな部屋に落ちる。
「……そんなことまで、伝承されているのですか?」
驚きを隠せない声音だった。けれど、爺ちゃんは首を横に振る。
「いや。調べていたのは倅――天斗の父親だ」
「父さんが?」
思わず声が出る。
父さんが色々調べものをしていたのは知っていた。でも、それは昔の資料だとか、虫の生態だとか、そういうのが好きなんだろうくらいにしか思っていなかった。
「あぁ」
爺ちゃんは静かに頷くと、湯呑を持ち上げる。その横顔はどこか懐かしむようでもあり、少しだけ苦いものを思い出しているようにも見えた。
そう頷くと、爺ちゃんはゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
朝日が差し込み始めた庭先では、風に揺れた木々の葉がさらさらと音を立てている。
「あいつは、気になったことがあればとことん突き詰める主義でな」
ぽつりと漏らされた声には、呆れと懐かしさが混ざっていた。
「儂の父親に虫を食わされて腹を壊して以来、虫のことを調べるようになった。なんで虫には大きいのと小さいのがいるのか、虫を食って死ぬ人間と死なない人間がいるのか……。その中に、大型の虫の減少時期と流行り病との因果関係に関するものもあったそうだ」
父さんは、そんなことを調べていたのか。
色々な資料を漁っているのは知っていたし、部屋に難しそうな紙が山積みになっているのも見たことがある。でも、正直なところ、俺には何をしているのか全く理解できていなかった。
「まぁ、正直わしには小難しくて何を言っているのかさっぱりだったがな」
爺ちゃんは苦笑混じりにそう言ってから、少し真面目な顔になる。
「大型の虫を減らしすぎても良くない、ということだけは伝わってきたわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に昨夜の光景が浮かんだ。
崩れ落ちる巣穴。斧で叩き潰した巨大蟻。
「えっ、じゃあ俺、昨日の夜……やばいことした?」
ざっと血の気が引く。
すると、御影さんが静かに首を横に振った。その動きを見て、少しだけ心臓が落ち着く。
「一つの巣穴を壊した程度で、大きな影響が出ることはないはずです」
落ち着いた声だった。
「ただ、同時に他の場所でも巣穴の破壊が起きていたり、別の要因が重なっていた場合、何も関係がないとは言い切れません。ですので、避けたほうがいいでしょう」
そう言ってから、御影さんは軽く息を吐く。
「軍でも基本的には、人が生活する範囲に侵入した虫への攻撃は許可されています。ですが、こちらから巣穴を攻撃する行為は禁止されています」
そのせいで軍は行動が遅いとか、役立たずだとか言われるんですけどね……。
御影さんは自嘲気味にそう呟いた。
静かな笑みを浮かべてはいるが、その表情には隠しきれない疲労と哀愁が滲んでいる。人を守るために戦っているのに、守れなかった時だけ責められる。
きっと、そういう立場なのだろう。
けれど、御影さんはすぐに気持ちを切り替えたように顔を上げると、まっすぐ爺ちゃんを見据えた。
「その、天斗君のお父様が残した資料などはありますでしょうか? 国としても、まだ研究段階の分野ですので、もし資料があれば持ち帰らせていただきたいのですが」
「あぁ。わしらが持っていても役には立たん。持っていけ。確か、青いファイルがいくつかあったはずだ」
その言葉に、俺は何か引っかかるものを覚えた。
青いファイル?どこかで見たような……。
「それはどちらに……」
「美穂さんに聞けばわかるはずだが……」
二人がそんな会話をしている横で、俺は必死に記憶を探っていた。
青いファイル。父さんの資料。
どこかに積まれて――。
「あぁ!!」
思わず大きな声を上げた俺に、爺ちゃんと御影さんがびくりと肩を揺らし、驚いたようにこちらを見る。
ようやく思い出せたことで頭の中がすっきりした俺は、二人へ向かって笑顔で告げた。
「今、漬物石として使ってるはず!」
その瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。
静寂。部屋の外から聞こえる鳥の鳴き声だけがやけに響く。
御影さんは目を瞬かせたまま固まり、爺ちゃんは口を半開きにしてこちらを見ている。
やがて、先に復活したのは御影さんだった。
「……どちらにありますか?」
若干引きつった声でそう尋ねられ、俺は立ち上がる。
「こっちです」
そう言って案内したのは、家の裏手にある漬物置き場だった。
薄暗い小屋の中には、ずらりと並んだ漬物甕。ほのかに塩と糠の匂いが漂っている。
そして、その甕の上には――。
三つの青いファイルが、綺麗に重し代わりとして乗せられていた。
「……これです」
俺が指差すと、御影さんは数秒無言になった。
爺ちゃんも後ろから覗き込み、「おぉ……」と何とも言えない声を漏らしている。
よく見れば、ファイルの端は少し湿気で波打ち、ところどころ糠らしき粉まで付いていた。
父さん、たぶん泣くぞこれ。
そんなことを思っていると、御影さんはゆっくりと青いファイルを持ち上げ、中身を軽く確認する。すると真剣な表情になり、小さく息を吐いた。
「……間違いありませんね」
そう呟いてから、御影さんはファイルを大事そうに抱え直す。
「では、お借りします。代わりの漬物石は早々にお持ちいたします」
その言葉に、爺ちゃんが真顔で頷いた。
「うむ。漬物は大事だからな」
「そこなんだ……」
思わずツッコミを漏らすと、御影さんの口元がわずかに緩む。
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ中、御影さんは改めて俺たちへ一礼した。
「貴重なお話と資料、ありがとうございました。こちらでも確認を進めさせていただきます」
そう言い残し、御影さんは朝日が差し込む庭を抜けて帰っていった。




