第十五話
粉砕された岩を前に、俺はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
砕けた石が地面へ散らばり、ひび割れた土の隙間へ川の水がじわりと流れ込んでいる。
さっきまでそこに“大きな岩”があったはずなのに、今はその面影すらない。
やがて、斧を肩へ担いだ爺ちゃんが何事もなかったみたいな顔でこちらへ戻ってくる。
――絶対、今後斧持ってる時の爺ちゃんには逆らわんとこう。
本気でそう思った。
そして、ふと気づく。
「あれ? 今って、もしかして皮膚も硬いん?」
「あぁ。硬くなっている」
そう言って、爺ちゃんは無造作に腕を差し出してくる。
恐る恐る触ってみると、確かに妙な硬さがあった。岩みたいにカチカチというわけじゃない。けれど、人の腕とは思えない感触だ。
そこでふと、先日の光景が頭をよぎる。
「あれ? でも、この間は切られたんだよな」
「あぁ。切られた。通常よりは硬いが、強い力での斬撃には弱い。あの時はこの皮膚だけが裂けた」
「でも、結構血が出てたじゃん」
俺がそう言うと、爺ちゃんはその辺に落ちていた枝を拾い、地面へ文字を書き始めた。
焚火の赤い光に照らされながら、土の上へゆっくり漢字が刻まれていく。
「これは、儂の祖父曰く、血を装飾すると書いて『血装』と言うそうだ」
地面へ書かれた文字を枝先で軽く叩きながら、爺ちゃんは続ける。
「この硬い皮膚も、皮膚の表面へ血を纏わせ、それが硬化してできている。あの時はそれを削ぎ落とされた。だから、その部分が溶けて血が零れたんだろう」
「これ、血で出来てんの!?」
思わず自分の腕を見る。
いや怖っ。
マジで生々しすぎん!?その能力。
俺が若干引き気味に聞き返すと、爺ちゃんは平然と頷いた。
「あぁ。あの時、お前も途中から無意識に血装していた。急に使ったせいで貧血になったんだろう」
「えっ!? 俺そんなんしてないけど!」
俺が即座に否定すると、爺ちゃんは静かに首を横へ振った。
「明らかに途中から力が上がっていた。恐らく、怪我をした腕から血が垂れたんだろう。無意識のうちにあの力を使っていたはずだ」
その言葉に、思わず黙り込む。
頭の中へ、あの時の感覚が蘇った。
そういえば、身体が妙に軽かった。でも、それとは逆に、斧がやけに重く感じた気がする。
何よりも····蹴っただけで相手が吹き飛んだ。
そして――その後、俺は人を殺した。
胸の奥が重く沈む。
焚火の音だけが静かに響く中、俺は絞り出すみたいに言葉を零した。
「じゃあ何で、あの時、その力を使わなかったんだよ」
俺がそう聞くと、爺ちゃんはしばらく黙り込む。
焚火が、ぱちりと小さく爆ぜる。
火の粉がふわりと舞い上がり、夜の闇へ消えていった。
「……お前が近くにいたからだ」
「え?」
思わず聞き返す。
爺ちゃんは粉砕された岩へ視線を向けたまま、静かに続けた。
「儂はこれまで虫とは戦ってきた。だが、人間相手にこの力を使ったことはほとんどない。ましてや、誰かが近くにいる状態で使うことは無かった。使うときはいつも一人。もし、力加減を誤れば、周囲ごと吹き飛ぶ」
そう言って、爺ちゃんは地面へ転がる岩の破片を顎で示す。
確かに、あの威力を近距離で使われていたらどうなっていたかわからない。
敵だけじゃない。
俺も、軍の人たちも巻き込まれていたかもしれない。
「まして、お前がおった」
その一言に、息を呑む。
爺ちゃんはずっと、俺を守ろうとしていたのか。そう、この時初めて気づいた。
呆然と爺ちゃんを見ていると、
次の瞬間。
爺ちゃんがこちらへ向き直り、深く頭を下げた。
「儂の判断が悪かった。結果、お前に嫌な役をさせてしまった。すまなかった」
真摯に頭を下げる姿に、俺は目を見開く。
焚火の光に照らされた爺ちゃんの横顔は、いつもよりずっと老けて見えた。
――爺ちゃんって、謝れるんだ。
そんな盛大に検討違いなことを考えてしまう。
だって、爺ちゃんは昔から「悪かった」より先に拳が飛んでくるタイプだった。
その爺ちゃんが、こんなふうに頭を下げるなんて思ってもみなかったのだ。
周囲は静まり返り、森の木々が風に揺れる音だけが聞こえている。
川の流れる音と、焚火の弾ける音。
その静けさの中で、俺はゆっくりと息を吐いた。
「もう、いいよ。正直、今回のことは一生忘れないし、たぶん夢にも見る気がしてる」
そう言いながら、自分の手を見つめる。
この手で人を殺した。
その感触は、たぶん一生消えない。
爺ちゃんは顔を上げ、そんな俺を静かに見ていた。
「でも、あそこにいた時点で、きっと、もう戻れないんだ」
言葉を吐き出しながら、自分でも、その事実を認めていく。
「俺はもう、他の島に人がいることを知っちゃったし、爺ちゃんが言うように、これが終わりじゃなくて始まりの可能性の方が高い。今回は避けられたとしても、次も大丈夫とは限らない」
握った手へ自然と力が入る。
頭に浮かぶのは、母さんと実里の顔だった。
創太や耕作の顔も浮かぶ。
いつもの家。畑。学校。
当たり前みたいにあった日常。
それを失うのは嫌だった。
ぎゅっと拳を握りしめる。まるで、一人も取りこぼさないと言い聞かせるみたいに。
「……俺も、守れるようになりたい」
そう呟くと、一度強く目を閉じる。
胸の奥に残る恐怖を押し込めるみたいに息を吐き、それから改めて爺ちゃんの目を見つめ返した。
「俺、強くなりたい。そしたら守れるかもでしょ? 実里や母さん。だから、教えてよ。」
言葉にした瞬間、不思議と少しだけ腹が決まった気がした。
怖くないわけじゃない。むしろ、もっと怖くなった。
また誰かが傷つくかもしれない。
また自分が人を殺すかもしれない。
それでも、何もできず失う方がもっと嫌だった。
爺ちゃんはそんな俺をじっと見つめていたが、やがて一度視線を落とし、小さく息を吐く。
それから、力強く頷いた。
「あぁ」
短い返事だった。
けれど、その声には妙な重みがあった。
二人の間を夜風が吹き抜ける。
川の水面が揺れ、森の木々がざわざわと音を立てた。
しばらく静かな時間が流れ――
「じゃあ、血装しろ」
「へ?」
一気に空気がぶち壊された。
「時間が惜しい。強くなりたいなら、さっさと血装しろ」
真顔で言い切る爺ちゃんに、俺は思わず乾いた目を向ける。
この人、情緒とかないん?
せっかく今ちょっと良い雰囲気だったじゃん。
そう思うものの、言ったところで変わらないのはわかっている。俺は諦めたようにため息をついた。
えーと……血装って何だっけ。
頭の中でさっきの説明を引っ張り出しながら、俺は足元へ置かれていた斧へ手を伸ばす。けれど、その瞬間、ぴくりと指先が震えた。
斧を見ると、どうしてもあの時の光景が脳裏へ浮かぶ。
赤い血。倒れる人影。自分の荒い呼吸。
喉の奥がひゅっと狭くなる。
怖い。····当たり前だ。
つい数日前まで普通の高校生だった人間が、いきなり平然と武器を握れるようになるわけがない。
でも――家族を失う方が、もっと怖かった。
俺は小さく息を吐き、震える手で斧の柄を握る。ずしりとした重みが掌へ伝わってきた。
それから、次は……確か指を切るんだっけ。
そう考えながら、左手にはめられた指輪を見る。
爺ちゃんから渡された、薄っぺらい無骨な指輪。その内側にある溝を恐る恐る撫でると、カチリ、と小さな音が鳴り、小さな刃が飛び出してくる。
「うわっ……」
いや怖っ。
何これ。
指先とはいえ、自分で自分を切るとか普通に怖すぎるんだけど。
「うひー……」
「変な声を出すな」
呆れたような爺ちゃんの声が飛んでくるが、俺はそれを聞こえないふりをして、顔を背けながら薄目で自分の指を見る。
えーと……確かこう、指パッチンみたいな感じで擦るんだったか?
そう思い出しながら指先を動かすも、怖さで手元が狂い、指が空振りした。
もう一回。
空振り。
三回目。
やっぱり無理だろ!怖いものは怖い。
「早くしろ!」
焦れたような爺ちゃんの怒鳴り声が飛んでくる。
その声に反射的にびくっと肩を揺らしながら、俺は意を決して指を擦り付けた。
「いっ!」
指先に走った鋭い痛みに、思わず変な声が漏れた。
傷なんて、ほんの少しだ。紙で切ったくらいの小さな傷。なのに、そこだけ熱を持ったみたいにじんじん疼いて、心臓の音に合わせて痛みが跳ねる。
こんな小さい傷なのに、何でこんなに痛いんだよ。
涙目になりながら親指の先を見ると、ぷくりと赤い血が浮かび上がっていた。
引き返したい。
ちょっとだけ、そう思った。
でも、爺ちゃんは黙って俺を見ている。俺もここまで来て「やっぱ無理」とは言いたくなかった。
奥歯を噛みしめ、震える親指を斧の刃へ擦り付ける。
血が、刃に触れた。その瞬間だった。
赤い線が斧へとはしる。
塗りつけたはずの血が、ただの汚れじゃなく、細い光になって斧の刃をなぞっていく。
ネオンみたいな赤い光が刃の縁をすべり、鈍かった鉄の輪郭を一瞬で研ぎ澄ませた。
低い唸りが、手の中から響く。
斧の中にある反発鉱石が、血に反応するみたいに震えている。
ぶわりと足元の草が揺れ、俺の服の裾が浮いた。髪も、風なんてないのにふわっと持ち上がる。
「うぉっ……」
身体が軽い。
重力が薄くなったみたいだった。
さっきまで地面に縫いつけられていた足が、少し浮いてしまいそうなくらい軽い。呼吸がやけに鮮明で、夜の空気が肺の奥までするりと入ってくる。暗がりの輪郭も、草の揺れる音も、いつもよりはっきりわかった。
けれど、その一方で。
手の中の斧だけが、異様なほど重かった。
俺の血を吸った斧は、まるで地面そのものを引っ張っているみたいにずしりと沈み込んでくる。
柄を握る両手に重みが食い込み、腕の奥の筋肉が勝手に強張った。
赤黒い圧のようなものが、斧から腕へ這い上がる。
手首、肘、肩、背中。
ぞわりと全身を撫でられたみたいな感覚に、背筋が震えた。
怖い。でも、それだけじゃない。
妙に、手に馴染む。
初めて握ったはずなのに、ずっと前から知っていた重さみたいだった。
「血装」
爺ちゃんの低い声が落ちる。
その言葉と同時に、赤黒い光はすっと斧へと戻った。刃の輪郭だけが赤く滲み、夜の中で薄く光っている。
「その辺の岩へ向かって振り下ろしてみろ。力は込めるなよ」
「了解……」
若干びびりながら返事をして、俺は爺ちゃんから少し距離を取った。
目の前には、川の端に転がっていた大きめの岩がある。
あんなの、普通なら斧で叩いたところで刃が欠けるだけだ。割れるわけがない。
そう思うのに、今の斧なら、いける気がした。
俺は唾を飲み込み、ゆっくりと斧を振り上げた。
目の前には、人の腰ほどある岩。
(軽く、軽くでいいんだよな)
そう自分へ言い聞かせながら、俺は斧を振り上げ、そのまま岩へ向かって振り下ろした。
ドゴォンッ!!!!腹へ響く轟音と共に、岩が砕け散った。
爺ちゃんの時ほどではないけれど、それでも十分すぎる威力だった。
砕けた岩の破片が周囲へ飛び散り、地面も小さくひび割れている。
夜の森へ轟音が響き渡り、木々がざわりと揺れた。
「…………」
言葉を失ったまま、俺はゆっくり爺ちゃんの方を見る。
すると爺ちゃんは腕を組み、当然だと言わんばかりに頷き返してきた。
「すっげ……」
思わずそんな声が漏れる。
軽く振っただけで岩を砕くとか意味わからん。
――いや待て。
そこでふと気づく。
これ、今って皮膚も硬くなってるってことか?
そう思い、自分の腕をぺたぺた触ってみる···が、
ふに。
返ってきた感触は、いつもの自分の肌だった。
「ん?」
場所が悪いのかと思い、今度は肩を触るが、変わらない。
腹も触る。うん、普通。
頬。普通に柔らかい。
「……あれ?」
何回触っても、別に硬くなってる感じがしない。
俺が困惑しながら顔を上げると、いつの間にか爺ちゃんは焚火の周囲を片付け始めていた。
火の始末をし、水筒をまとめ、帰る準備を始めている。
「爺ちゃんどうなってんの!? っていうか、何で片付けてんの?」
そう叫ぶも、爺ちゃんは手をとめることなく、言葉を返す。
「お前はここで、岩やら木を相手にパワーコントロールの練習をしておけ」
「はっ!?一人で!?」
「その力のまま虫を駆除したら、虫が飛び散って後片付けが余計大変になる」
爺ちゃんが嫌そうに眉を寄せながら言う。たぶん経験談なんだろう。
絶対昔やらかしてる。
「パワーコントロールをしつつ、皮を一枚被る感覚を磨け。そうしたら皮膚が硬くなり、多少の攻撃なら受けても何ともなくなる」
いや、簡単に言うけどさ。皮を一枚被る感覚って何!?
意味わからんのだけど!?
俺は完全に置いていかれた顔で固まるが、そんな俺を放置し、爺ちゃんは踵を返した。
そのまま歩き出しかけて、ふと思い出したように付け加える。
「あぁ。今は日中特に軍の連中が多い。今後は夜に自主練しろ。畑は軍が復旧のために人を寄越しておるから心配するな」
そう言うと、爺ちゃんは本当に当たり前みたいに森の奥へ歩いていく。
月明かりに照らされた背中が、どんどん遠ざかっていった。
「いや、俺の心配しろよ……」
ぽつりと零した呟きは、そのまま暗い森へ吸い込まれていった。




