第十四話
「ぶぇぇっくしゅんっ!!」
盛大なくしゃみが、夜の森へ響き渡る。
ぱちぱちと焚火の爆ぜる音に混じって、その声がエコーみたいに木々の間へ吸い込まれていった。
川へ放り込まれたせいで全身びしょ濡れだ。
焚火の熱で多少は乾いてきたものの、服はまだ湿っていて気持ち悪い。
「ほれ、飲め」
爺ちゃんが差し出してきたのは、湯気の立つお茶だった。
ありがたく受け取り口をつける。
温かい。
じわっと身体の内側へ熱が広がっていく。
さっきまで頭の奥を引っ掻き回していたザワザワとした気配も少し遠くなっていた。
爺ちゃんの言っていた“幕”とやらが張れたのか。
それとも単純に耳へ水が入っただけなのかは、正直、自分でもよくわからない。
「なぁ、もっと他の方法なかったの? せめて風呂とかプールとかさ」
鼻をすすりながら抗議すると、爺ちゃんはふんっと鼻を鳴らした。
「儂もこうやって覚えこまされたんだ。ほかの方法など知らん」
なるほど。
いかれてるのは、爺ちゃんの爺ちゃんからだったか。
俺がじとっとした目を向けると、爺ちゃんは気にした様子もなく焚火へ枝を放り込んだ。
火の粉がふわりと夜空へ舞い上がる。
「自分が嫌だったことは、人にもしちゃいけませんって小学校で習わなかったのかよ」
「儂の時は小学校なんぞ行っとらん」
ぼやくように言うと、爺ちゃんはあっさりと言い返してくる。
「あー……」
そういえば、爺ちゃんの子供時代って病気の大流行で島全体がかなり大変だったんだっけ。
働ける人間は総出で畑に出て、食料を確保するだけでも精一杯、みたいな生活をしていたとか前に聞いたことがある。
今みたいに“学校へ通うのが当たり前”って時代じゃなかったのかもしれない。
俺は何とも言えない顔をしながら、お茶をもう一口飲んだ。
温かい液体が喉を通り、ようやく身体の震えが落ち着いていく。
ふぅ、と自然に息が漏れた。
焚火の熱がじんわり濡れた服を乾かしていく。
そんな中、ふと疑問が浮かぶ。
「あれ? もしかして父さんの時も川に放り込んだの?」
「いや、空也の時は……」
爺ちゃんが少し遠い目をした。
「川には放り込んだが……“幕とはどんな性質なのか”“厚さは?”“位置はどこだ”とうるさくてな。面倒になって途中で引きずり上げた」
「あぁー……」
想像できすぎる。
めちゃくちゃ言いそう。
「まぁ、それはいい。耳が落ち着いたなら話を続けるぞ」
爺ちゃんはそう言いながら、焚火へ枝を放り込む。ぱちぱちと火が爆ぜ、火の粉が夜空へと散った。
「えー……もう帰って寝たいんだけど」
正直な気持ちだった。頭は疲れてるし、身体は冷えてるし、情報量が多すぎて限界だ。
けれど、そんな俺へ向けて爺ちゃんは低い声で言った。
「何をのんきなことを言っとる。お前は先日の出来事で、全て終わったかのように思っとるかもしれんが、逆だ。アレは始まりだ」
その言葉に、思わず顔を上げる。
爺ちゃんは真っ直ぐ焚火を見つめたまま続けた。
「他の島の人間が、わざわざ乗り物を作ってまでこの島へ来た。アイツらの乗っていた船も武器も、明確にこの島のものではなかった。つまり、この空の先には別の連中がおる。次、いつまた来るかわからんのだぞ」
頭を強く殴られたみたいだった。
俺は、もう終わったんだと思っていた。
形はどうあれ、あの場は切り抜けた。危機は去ったんだと、どこかで勝手に思い込んでいた。
けれど、もしまたあいつらの仲間が来たら?
今回は6人だったけど、もっと大勢で来たら?
軍の人たちですら、たった六人に翻弄されていたのに。
頭の中へ、あの男の声が蘇る。
『私たちが生き残るためだ。ほかに理由などない』
低く、静かな声だった。
怒りも憎しみもない。ただ、生きるために戦っている目だった。
あの目を思い出すと、胸の奥がずしりと重くなる。
それを誤魔化すように、無言でお茶を飲み干し、ゆっくりと爺ちゃんを見据えた。
俺は、このまま普通の日常へ戻れると思っていた。
学校へ行って、創太と馬鹿話して。
家では、実里に振り回されて、また畑仕事を手伝って。
そんな毎日へ戻れると、どこかで信じていた。
でも現実は違う。
戦い慣れているはずの軍ですら、あの六人に押されていた。もし次、もっと大勢で来たら。もし今度こそ、家まで辿り着かれたら。
その想像をした瞬間、胸の奥が冷たくなる。
俺は、自分の大切な人に傷ついてほしくなかった。
その俺の気持ちが伝わったのか、爺ちゃんは小さく頷いてから、こちらへ手を出せと告げた。
俺がおとなしく右手を差し出すと、爺ちゃんは眉をひそめる。
「違う。利き手とは反対の手だ」
そう言うなり、今度は俺の左手を鷲掴みにした。
「うおっ」
ごつごつした大きな手が強引に指を開かせる。
そして、中指の第二関節辺りへ薄っぺらい輪をはめ込んだ。
指輪だった。銀色とも灰色ともつかない鈍い色をしているそれは、装飾らしい装飾もなく、妙に無骨だ。
けれど、それには見覚えがあった。
結婚指輪すらいつの間にか失くしていた爺ちゃんが、唯一ずっと肌身離さずつけていたものと同じだった。
「えっ?」
思わず変な声が漏れる。危うく「キモっ」と言いそうになった瞬間、ギロリと睨まれ慌てて口を閉じた。
いやいやいや。
実の祖父に手を取られて指輪はめられるとか普通に嫌なんだけど!?
そんな俺の全力の訴えを視線から感じ取ったはずなのに、爺ちゃんは完全に無視して手を離した。
「さっき、虫を食べて身体能力などが向上すると言っただろう」
「うん」
「虫を食べて以来、お前の身体能力は徐々に上がっとる。力もな。だが、それはあくまで通常の人間の範囲を少し超える程度だ」
「えっ、じゃあ……」
あの巨大な虫の群れと戦ったりするには弱すぎないか?その疑問が顔へ出ていたのだろう。
爺ちゃんは静かに頷いた。
「ただ、ある条件下では、人の域を超える身体能力や、さっき言った肌の硬化が使える。そして、それに必要なのがこれだ」
そう言って、爺ちゃんは俺の指にはめた指輪と、地面へ置かれた斧を指差した。
焚火の火が揺れ、鈍い金属の表面を赤く照らす。
「えっ? 何? これで変身するとか?」
半分茶化すつもりで聞いたけれど、爺ちゃんは、ふざける様子もなく神妙に頷く。
「ある意味ではな」
「え? マジで?」
思わず自分の左手を見る。
いやいや、さすがにそれはないだろ。
否定して欲しかったのに、爺ちゃんはそのまま説明を続けた。
「この指輪には内側へ隠し刃が仕込まれている。この溝をなぞると、小さな刃が出るようになっていてな。そして、こうして親指を軽く切る」
そう言いながら、爺ちゃんはまるで指を鳴らすみたいな動きをした。
次の瞬間。
親指の先に、ぷくりと赤い血が浮かび上がった。
「うわっ」
いつ切ったのか、全然わからなかった。
爺ちゃんはその血を気にも留めず、無造作に斧を持ち上げる。そして、刃の腹へ親指を押し当てるようにして、赤い血をすっと塗りつけた。
次の瞬間、血が光った。
刃に乗った赤が、まるで細い線になったみたいに斧の上を走る。暗い赤の光が刃の縁をなぞり、じわりと広がったかと思うと、ふわり、と爺ちゃんの服の裾が浮く。
白い髪も、風なんてないのに僅かに浮かび上がる。
斧から赤黒い圧のようなものがにじみ出て、爺ちゃんの腕を伝い、肩へ、背中へ、走る。
けれど、それは本当に一瞬だった。
赤黒い光はすぐに斧へ戻り、刃の輪郭へ吸い込まれていく。さっきまで少し鈍く見えていた刃先が、光の線で研がれたみたいに鋭くなった。
音が遠き、俺の喉がゴクリと鳴る。
「血装」
爺ちゃんは何事もなかったみたいに言って、斧を軽く持ち直した。
俺は思わず眉をひそめる。
「こんな血なまぐさい変身あり!? ってか、一瞬光りはしたけど、特に見かけは変わっていませんけど!?」
見た目は、さっきとほとんど同じだった。
ただ、斧の刃だけが、さっきよりも妙にくっきり見える。
それが余計に、不気味だった。
俺が胡散臭そうな目を向けていると、爺ちゃんは何も言わず立ち上がり、そのまま少し離れた岩場まで歩いていく。
月明かりに照らされた、大きな岩だ。
爺ちゃんはその前へ立つと、手にした斧をゆっくり振りかぶる。
その動きは、畑仕事で鍬を振る時と大差ないように見えた。
本当に、軽く。
次の瞬間だった。
どごぉんっ!!!!
腹の底まで揺れるような轟音が森へ炸裂する。
「うわっ!?」
爆風みたいな衝撃が押し寄せ、飛んできた小石に思わず目を閉じた。
ぱらぱらと土が降り注ぐ。
川の水面が大きく揺れ、周囲の木々がざわめいた。
数秒遅れて、驚いた鳥たちが一斉に飛び立つ羽音が響く。
恐る恐る目を開けるも、そこにあったはずの岩は、粉々に砕け散っていた。
大きな破片が周囲へ転がり、地面には蜘蛛の巣みたいなひびが走っている。
焚火の火が揺れ、その光が舞い上がった砂埃を赤く照らしていた。
爺ちゃんは、まるで何でもないことをしたみたいな顔で斧を肩へ担いでいる。
さっきまで畑仕事用の道具にしか見えなかったそれが、今はまるで別物のようだった。
「……まじか」
俺の口からは、気づけば、そんな声が漏れていた。




