第二十七話 月のかけら
翌朝、ニルに叩き起こされた。
「レイ、卵っ!!」
「えっ!?」
寝ぼけた頭に、一気に血が回る。
卵を見ると、殻に細かなヒビが入っていた。
「う、生まれる!?」
「ウズラ、赤ちゃん!!」
ニルが叫ぶと、大鷹の夫婦がふらつきながら飛んでくる。
マシロさんは、お湯や布をかき集めては、そわそわと同じ場所を行ったり来たりしていた。
「なぁ、本当に見てるだけで大丈夫なのか?」
「しっかりして、お父さんなのよ」
「マシロも震えてるじゃないか」
「当たり前よっ!」
群れのみんなで固唾をのんで、卵の様子を見守る。
殻の天井が落ちると、軽い音が鳴った。
それを境に、卵は微動だにしなくなる。
産声を迎えるように覗き込むと、中は空っぽだった。
「なんで……っ」
ニルは、卵を抱いて青空を仰ぐ。
白い雲の切れ間から、天使の梯子が見えた。
アヅキさんは、静かに目を伏せる。
「俺たちが、世話を怠ったから……」
「……やめろ!……言うなっ!」
「野晒しの卵を見るたびに、焦りや恐怖が薄れていった。昨夜もそうだった。いまさら一日くらいで変わらないだろうと、甘えて逃げてしまった……」
「……やめてっ!……言わないでっ!」
「ありがとう……だが、もういい」
「…………ッ」
大鷹の夫婦が自責に潰れても、ニルは歯を食いしばり、卵を見つめ続けていた。
戦慄く耳に、マシロさんが帽子を被せる。
「———未来は、選べる。でも、整理が必要」
「もしも、悪い未来が出たら……?」
「占いは、今を視るもの。諦めるための言葉とは、まったく違う。未来があると決めるのは、いつだって、ニル……あなたよ」
マシロさんは、力の在り方を説いた。
魔法は、祝福ではない。自ら望まなければ、決して光は起こらない。
それでも、僕は隣に座り、ニルと同じ景色を望む。
彼女は、ひび割れた殻がさらに崩れ落ちるのを恐れて、震えることさえできていない。
「レイ……」
頼るように、か細い熱が触れてくる。
その手を、僕は掴んで離さなかった。
濡れそぼった瞳が、緋色に揺れる。
「お願い、手伝って」
タロットカードを混ぜ始めると、弾けるように不安が大きくなった。
けれど、諦めきれない思いも膨れていく。
マシロさんが一枚目を引いた。
ニルが二枚目を選ぶ。
僕は、微かに熱を帯びた木札に気付いて、迷わずそれを引いた。
「いくよ」
狼の魔女は、悪夢に噛み付くようにカードを開く。
過去は、塔の逆位置。
落雷に砕かれた巣で、ひとり身動きできずにいる狼が見えた。
現在は、月の逆位置。
自分の影に牙を突き立てたまま、涙を落とす狼が描かれていた。
そして未来は、愚者の正位置。
孤独も空腹も知らず、ただ自由の風に吹かれる幼い狼の姿が、僕らの願いに呼応する。
「———苦しくても、ふたりは離れなかった。お月様がなくなって、影がいっぺんに消えた。なのに、軽くなった体には、まだ不安が残ってる。目には見えないけど、確かにある。場所はわかるのに、どうしても触れられない。まるで、誰かに決めつけられて、縛られてるみたいに……」
ニルの手が、静かに震え出した。
力が抜けたように、カードが落ちる。細る瞳には、涙の粒が浮かんでいた。
僕には、言葉の意味はわからない。
けれど、不思議と不安はなかった。
番の手を握り、風の音に耳を傾ける。
狼は獣の勘を頼るように、木札に鼻を近づけた。
「…………ぁ」
ニルは、驚きで目を丸くする。
強張った表情が、むっとしながらも、息に触れてふっと和らいだ。
「わたし、諦めないよ」
隣で見てろと言いたげに、ふわりと背中を触れられる。
ニルは、食事も昼寝も我慢して、朝から晩まで卵を見守り続けた。
夜の帳が下りると、肌を刺すような視線は消えて、森には命の明かりだけが灯る。
緋色の双眸が、眠たげに揺れた。
揃ってあくびをすると、すっと目蓋が落ちる。
その瞬間、目の覚めるような力強い産声が上がった。
込み上げる喜びを確かめるように、番と目を合わせる。
まん丸の瞳から、ふるりと緋色がほどけた。
「ニル、生まれたよ!」
「うん……うんっ!!」
ニルが、満面の笑みで抱きついてくる。
跳ねる体と踊る尻尾が、全身で幸せを咆えていた。
群れの赤子の誕生を、我がことのように喜ぶ彼女が、ひどく愛おしい。
「生まれてきてくれて……ありがとう。よく頑張ったな、えらいぞ」
涙で腫れた瞳の奥に、微かに瑠璃の光が揺れていた。
狼の腕の中で、小さく玻璃が瞬く。
大鷹の夫婦を呼ぶと、ぐちゃぐちゃの表情で飛んできた。
しかし、少し目を離した隙に、雛の姿が消えてしまう。
「だるまさんだ!」
みんなで視線を逸らし、ニルの掛け声に合わせて一斉に振り向いた。
すると、可愛い雛がひょっこり顔を出す。
「ほら、出てきた!」
「この子の祝福、なのか……?」
「恥ずかしがり屋さんなんだね」
「……きゅ、きゅ」
「…………っ!」
赤子の鳴き声を聞いて、母が駆けつけてくる。
ニルがそっと返すと、ウズラさんの表情がにわかにほころんだ。
「ウズラが、笑った……」
アヅキさんは、感極まったように声を上げて、静かに涙を溢す。
「……ありがとう。お前たちに頼んで、よかった……っ!」
我が子を自慢して回るウズラさんを見つめながら、彼は幸せそうに微笑んだ。
「ニル、お手柄だね」
「えへへ」
ニルは、くすぐったそうに尻尾を揺らす。
光に縛られながらも、刹那の闇に生まれた幽現の命は、家族に挟まれて元気に鳴いている。
けれど、暗い泉に沈むガラス玉のように、目を離せば消えてしまいそうで怖かった。
「……この子の名前は?」
急かすように聞くと、夫婦が雛を抱いて膝の上に乗ってくる。
「どんな名前が似合うと思う?」
「僕らに聞くんですか?」
「二人に決めてほしいんだ」
アヅキさんは、星だけが瞬く空を見上げて、ふっと笑った。
僕らは、頭を捻りながら、小さくうんうんと唸る。
妙案が浮かばずに迷っていると、気付けば金色の尻尾を目で追っていた。
「ティル、なんでどう?」
「うん、いいと思うぞ」
「……本当にわかってる?」
「名前に意味をつけるのは、自分って意味だろ?」
「何でわかるの!?」
「番だから」
大きな尻尾を抱えて自慢げに笑うニルに、照れて体がかっと熱くなる。
咄嗟に俯くと、アヅキさんたちと目が合った。
「影から生まれる御伽話。視るもの次第で、光にも闇にもなり得る。天使や妖精ではない。野生を生きる自由な尻尾———ティル。いいな。俺たちも気に入った」
「褒めても何もでませんよ?」
「言葉は、レイに任せるのが一番ね」
「同感だ」
信頼の眼差しが恥ずかしくて、手のひらで顔を覆う。
すると、ニルがそっと立ち上がった。
「……ニル」
朝のキスがまだだったことを思い出して、求めるように呼ぶ。
しかし、ニルは顔を赤くして口元を隠し、そのまま逃げてしまった。
よく見ると、贈った首輪が見当たらない。
「……嫌われた」
絶望して項垂れると、アヅキさんが肩をすくめた。
「甘酸っぱいのは、今だけだ。しっかり味わうといい」
「なるほど、果物で仲直りですね!」
「どうしてそうなる」
「口移しで一緒に食べたら……えへ、えへへ」
「……鈍感な狼だな、おい」
「喜んでくれるかな。笑ってくれるといいな」
僕は鼻を頼りに、星明かりの下でベリーを探しに出ようとする。
しかし、雛が膝の上から降りてくれず、動くに動けなかった。
眠る時間になってようやく解放されたものの、ニルはマシロさんに取られてしまう。
「……別に、寂しくないもん。マシロさんに譲っただけだもん」
ひとりで潜った寝床は、広くてとても快適だった。
けれど、昨夜よりも暑く感じられて、やけに寝苦しい。
「……ニル」
僕は、明日は早く起きようと誓いながら、ゆっくりと睡魔に身を委ねた。




