第二十六話 呼応の彼方
魔導具の修理をしていると、ニルが尻尾を抱いて近づいてきた。
「……レイ、寝よ?」
たたんだ後ろ髪に石鹸の匂いをためて、睡魔にふらつきながら僕の気配をねだってくる。
しかし、木組みの卓には、抱え込んだ発注書が、まだ山のように積み残されていた。
「まだやる事あるから、先に寝てていいよ」
呼吸を浅くして、動悸を押し付ける。
けれど、狼の鼻は、もう騙せない。
「……最近、ずっと寝てない。休まないと、倒れちゃうよ」
「これくらい、普通だよ。みんなやってる」
簡単な書類のはずなのに、視線が紙の上を滑る。
僕が光を喚ぶと、ニルは目元を擦りながら、隣に腰を下ろした。
「マシロさんと寝てていいのに」
「……や」
痺れた膝の片方に、余った尻尾がふわりとかかる。
「……レイ、楽しいか?」
「楽しくはないかな」
「じゃあ、苦しい?」
「全然」
「……なら、やめろ。他のことで返せばいい」
「刻印以外、何も出来ないから……」
「……自信、あるんだろ?」
撫でるような声に、心と体が引き剥がされる。
けれど、どちらとも温かくて、羞恥で手が動かない。
「爪が折れたり、牙が欠けても、生きていける。でも、食べるのをやめたり、寝るのをおろそかにしたら、倒れちゃうんだよ」
「でも、もっと頑張らないと……」
「なら、手を止めるな。わたしが、寝るまででいい。ちょっとだけ頑張れ。自分の力を、もう一回試してみろ。……お前の倒したい敵がどこにいるのか、探すみたいに」
「倒したい敵……」
震える手が、惨めに刻印刀を掴んで離さない。
「本当のお前を見せて」
ニルの寝ぼけた声が、産毛を掠めるように、じわりと心に火をつける。
否定の熱に喉を焼かれながら、苛めるように手を動かした。
どれもこれも、おもちゃのような魔導具ばかりで、馬鹿にされた気分になる。
それでも、たびたび手は止まり、文法の理解と言葉の配置に時間が溶けていく。
いかに自分がいい加減な刻印を書いてきたのか、思い知らされる。
足掻けば足掻くほどに、心は苦しくなる、未来は暗澹として、進むべき先もわからない。
けれど、息継ぎをしたように、体はやけに軽かった。
無能を証明する横で、出来ないことが見えてくる。無意識に染みついた悪癖に気がついた。
直す方法なんて、少しもわからない。
それでも、形がある敵なら、弱点を探せる。逃げることもできる。
気づけば刻印刀は、小さな獲物ばかりを確実に捉えていた。
「ニルは、かっこいいね」
どうせ、叶わない。言葉にして預けていたら、きっと終わっていた。
けれど、ニルはむにゃむにゃと夢を食んで、飲み込めるようにしてくれた。
苦いばかりの夢が、とろりと腑に落ちる。
「よし。もうひと踏んばりっ」
自分の弱さを責めたまま、見つけた尻尾を逃さないように追いかける。
折れた爪で、欠けた牙で、それでも倒せる”外敵”を探す。
獲物は小さいものから、少しずつ大きなものへ変えた。
一頭ずつ、確実に仕留める。仕留め損ねたら、もう一度小さな獲物に立ち戻る。
全部、全部、ひとりの狼から教わった、狩りの基本だった。
未熟な僕を、見留めてくれる人がいる。
けれど、守られるばかりでは、あまりに格好悪い。
「もっと、もっと…………っ」
ニルの寝息に焦らされて、僕は限界を試すように魔導具を直し続けた。
不意に、意識を叩かれる。
痛む頬が、なぜだか空を向いていた。
「寝るまででいいって言った」
「……ごめんなさい」
金橙の髪が、責めるように落ちてくる。寝癖の隙間からは、朝日がふんわりと差し込んでいた。
「いつまでやってた」
「す、すぐ寝たよ?」
慌てて、稼いだ金貨を隠す。
けれど、ニルは背中を見せて、耳もそっぽを向いていた。
「顔洗ってこい。だらしないぞ」
「うん……」
垂れた涎を拭っても、振り向いてもらえない。
肩を落として川に向かうと、悪戯な風が肌を掠めた。
「レイ」
「…………っ!?」
不意打ちで、唇を奪われる。
「ご褒美だ」
僕が狼狽するのを見て、ニルは照れくさそうに笑った。
前に突き出した首輪が、右へ左へ、遊びに誘うように揺れる。
「今日は、どれだけやる?二枚か?三枚か?」
ニルは答えを待たずに、金色の尻尾をさらっていった。
風が触れにくるほど自由なその背中に、またひとつ、心を奪われる。
「僕も、狼になりたいな」
肩にのしかかっていた重荷が、彼女がそばにいるだけで、いっぱいの幸福に変わっていく。
夢を追いかけて、群れのみんなと狩りを楽しんだ。
魔導具の修理にも、より一層打ち込む。
「ニル、たくさん稼いだ!」
金貨を握りしめて駆け寄ると、欲しがる僕を見透かしたように、ふとニルの表情が曇った。
「頑張りすぎ。なんか、や」
「そんなぁ……」
「たくさんやっても、一回だけだぞ」
「撫でてくれたら、もっと頑張れるかも……?」
「それくらいなら、いつでもしてやる」
「そういうのは、いらない……」
「天邪鬼」
ニルは呆れたように言うと、背を向けて去ってしまった。
代わるように、アヅキさんが頭に飛び乗ってくる。
「ニルも頑固だが、お前も大概だな」
「僕は、弱いだけですよ」
「お前を見ていると、力の使い方を考えさせられる」
「アヅキさんは、すごいと思います。小さい体で熊を倒したり、みんなで狩りをする時だって、的確な指示をくれました」
「だが、それだけだ」
横髪を鉤爪で掻かれ、腕を持ち上げる。
飛び乗る体が、その大きさに対して、やけに軽く感じられた。
「レイ。俺は、戦う以外に何ができるだろうか」
「アヅキさんは、これからお父さんになってくんですよ。何もできなくて当然です。むしろ、初めからなんでもできたら怖いですよ」
「せめて、煙草だけはと思ったんだがな……。祝福を使わなくても、代償は払い続けなければならないようだ」
広げた翼から、濃密な紫煙の香りが漂ってくる。
「そう言えば、ニルがウズラさんと葉巻を作ってましたよ」
「毒じゃないだろうな……」
「見た目はアレでしたが、薬草って言ってましたし。大丈夫ですよ」
「他人事みたいに言うな」
「無理やり食べさせられましたよ。泥の味がしました……」
「お互い苦労するな」
「逃げればいいんでしょうけどね。僕も、アヅキさんも」
「……あれは、冥界まで追いかけてくるぞ」
「だから、戦えるんです。そもそも、逃げるなんて選びたくありませんから……。戦う理由を自分で決められるって、すごく幸せなことです」
「戦う、か……。意味のないことだ。生まれ持った力が全てを決める世界で、何を悩むことがある」
大鷹の瞳は、幻想を穿つ。
それでいて、夢を語ることはなかった。
「お前が戦うのは、ニルの笑顔のためか?」
「そうですね。ニルの一番になれなくても、群れの中で幸せが循環するなら、ハーレムも素敵かなって思います」
「弱いくせに、支配欲もないのか。本当の負け犬だな」
「…………っ」
「……すまない、失言だった」
「気にしないでください。どっちも、本当のことですから」
太陽の下で笑うと、影が際立つようで嫌だった。
涼を求めるように、木陰に逃げ込む。
しかし、夏の日差しは、どこまでも鋭く追いかけてくる。
僕は、前髪の影に潜った。
「……大丈夫か?」
アヅキさんが、追いかけてきてくれる。
「今日は、一段と陽射しが強いな」
細い簾をすくい上げるように、僕に大きな翼影を落としてくれた。
「初めから甘えておけば、戦わずに済んだんでしょうか……」
「レイの音は覚えた。すぐに追い越すさ」
「アヅキさんは、タバコの匂いで鼻が曲がりそうですけど、余韻は優しいですね」
「失礼だな」
「えっと……卵が先か、鶏が先かって感じ?」
「悩んでる俺に、それを言うのか」
「せっかくの群れなんですから、気楽にしてていいんですよ。寝てても、誰かが守ってくれます。みんなで卵も温めてますから。強い狼も、立派なお父さんも……なろう、なろう、あすなろう、です」
「ニートは単純でいいな」
「うぐっ……」
「褒め言葉、だ」
アヅキさんはふっと笑い、タールの張った茶色い翼を力強く羽ばたかせた。
空気を捕まえた体が、ずっしりと腕に食い込む。
「直に食事だ。それまで、少しでも稼げよ」
大鷹は、憂いを溶かすように夏空を飛び回る。
「動かないと……」
焦土に足を踏み入れると、命の価値を問われているようで、無性に落ち着いた。
耳鳴りを聴きながら歩いていると、カランとベルが鳴る。
「……ご、はん……よん……でる……」
気づくと、窪地には暗闇がどろりと溜まっていた。
夕食を済ませて、修理作業を終えると、すぐに眠気が襲ってくる。
寝床を用意して、目蓋を閉じる。
暗闇の中で、瞳が焼けるように熱かった。
それでも、近づく足音に耳を澄ませると、不安は次第に悦びへと変わっていく。
しかし、寝たふりをして迎えたニルは、声を押し殺して泣いていた。
「……レイ」
青褪めた肌で、そっと卵を託される。
「…………赤ちゃん、冷たいの……動かないの……っ」
星明かりさえも恐れるように、ニルは毛布に閉じこもり、静かに啜り泣く。
「二人であっためよう」
「やっぱり、ダメだったんだ……っ」
ニルは凍えたように、がくがくと震えていた。
堪らず、抱きしめたくなる。
けれど、想いと熱は、丸ごと卵に預ける。
「ニル」
狼の耳が、寄るべなく顔を出す。
「ずっと、ずっとね。言おうか迷ってた」
「……なに?」
「その首輪、ニルのために作ったんだよ」
「知ってる。だから、お前には、絶対服従だって……」
「ううん。違うよ」
「……何が違うの?」
僕は、願いの形を確かめながら、覚悟を声にする。
「ニルは、僕の奴隷じゃないよ」
泣き腫らした瞳が、勢いよくよじ登ってくる。縋るように、絡みついてきた。
僕は、想いを静かに解く。
「この魔導具はね、血中の琥珀を魔力に変えられるんだ」
「え……ぁ゛…………」
ニルは悪夢にうなされるように、鈍く喘いだ。
戦慄く爪が、背中を甘く引っ掻いてくる。
その鋭さは次第に増していき、乱れた指先が責め立てるように服を裂き、怯えた子供のように骨身にしがみ付いてきた。
卵をそっと返すと、緋色の瞳が切なげに細り、揺れる光が胸を強く締め付ける。
「ごめんね。治るとしても、ニルがおばあちゃんになる頃だから、言い出せなくて……。でもね、悪くなることは絶対にない……はず!全部、アヅキさんが天樹の根を見つけてきてくれたおかげだよ」
「……ずるい……ずるいっ!」
ニルは涙をこぼしながら、必死に杭を抜こうとする。
けれど、魂へと溶け落ちたそれは、いまや激しく鼓動を鳴らしていた。
「奴隷の、輪っかだと思ってたのに……っ!だから、わたしは……っ!……なのに、お前は……いつも、わたしを……っ!」
「僕じゃなくて、アヅキさんだよ」
「うるさい……っ!いじわる…………っ!!」
「……ウズラさんがね、言ってたんだ。僕の血は琥珀に強いって。きっと旅を続けてたら、治してくれるお医者様がどこかで見つかる……かもしれない。……だから、それまでは枯れないように、いっぱい食べて、運動するから!……だから、僕の血で……我慢してほしい」
「……いらないっ!もう……いっぱいだ……っ!入らない……っ!」
首輪を胸に押し付けて、ニルは潰れた声で喘ぐ。
僕は付かず離れず、身じろぎひとつで触れ合う距離に息を潜める。
「あしたは、いいことあるよ。一緒に楽しこと、いっぱいしよう」
どちらともなく、体が触れる。
惹かれ合うように寄り添い、卵を抱いて温もりを分け合った。
心の膨らみに、ニルの想いが密かに重なる。心臓でも、脳でもない。血がほのかな熱を帯びて、生きたいと叫ぶ。
その衝動を覆い隠すように、金色の尻尾がふるりと揺れていた。
まもなく、穏やかな寝息が聞こえてくる。
僕は、この子の涙の匂いを、きっと忘れない。




