第二十四話 グレイプニル
「二人とも、もうお昼よ」
マシロさんの呆れた声が聞こえる。
「あと五分だけ……」
温もりを求めて毛布に潜ると、額がこつんと触れて、小さく息が漏れた。
薄闇の中で、緋色の瞳がとろんと揺れる。
目覚めの挨拶が喉まで出かけているのに、どうにも声にならない。
いやいや体を起こすと、ニルも一緒になって這い出てきた。
彼女は眠たげな顔のまま、ぐっと背中を反らして伸びをする。乱れた髪の中で先焦げた耳が、ぴんと立っては、くたっと倒れた。その小さな仕草が可愛くて、つい目を奪われる。
「着替えたら、ご飯よ」
催促する声に、僕らは同時にあくびを吐いた。
寝床を出ようとすると、襟を小さく噛まれて引き留められる。
陽だまりの匂い鼻を埋めると、柔らかな耳がふっと頬を掠めた。
「ご飯、冷めちゃうよ」
絡む手足をそっと外すと、尻尾が不満げに褥を叩く。
寝癖を直してあげて、お互いに着替えを済ませると、肉の香りがふわりと漂ってきた。
食事の席につくと、お皿にはカリカリに焼かれたベーコンが盛られていて、思わず笑みが溢れた。
けれど、ウズラさんが栄養剤を乗せて回るから、気分が台無しである。
「二人とも、もう体は平気?」
残飯にしか手をつけないマシロさんが、手持ち無沙汰になったのか、質問を投げてきた。
僕らは、全身を使って快復を示してみせる。
「包帯も取れましたし、ウズラさん様々ですね」
「お薬、おいしくない……」
「でも、おかげで傷跡もほとんど残りませんでした」
「そうは見えないわ」
「これは、ニルに齧られたり、ソラに引っ掻かれたりなので……。ほら、ニルの肌はすべすべですよ」
「気安く触るな」
「ニルも、元気そうね」
「うん!マシロのご飯のおかげ!」
ニルは、こねるように頬を擦りつけた。
過剰な愛情表現を見ていると、胸の奥が微かにざわついた。
「私に妬かないで」
「……してません」
「私はレイに妬くわ」
「妬かなくても、マシロはわたしのものだよ」
「……マシロさん、顔赤い」
「気のしぇいよ」
甘く食むような奴隷扱いに、白い髪が羞恥に染まる。
しかし、ニルの口元には、泡立つ涎が光っていた。
熱に浮かされたような目は、水溜まりで泳ぐ小魚を愛でるように、夢うつつに揺れている。ほんのりと漏れる息が、空の牙を慰めているように見えた。
「ニル」
「……ん、なんだ?」
溢れる欲望を隠しても、穢色の瞳が獲物を追いかける。
獣の鼻先に右腕を差し出すと、熱い吐息が肌を焼いた。
ニルは千切れそうなほど尻尾を振って、血肉を溶かすように啜り飲む。
「はあぁ…………っ」
うっとりと蕩ける狼は、二の腕を抱き寄せると、薄い皮膚に包まれた柔肉を食んだ。
暗い緋色が、下からあざとくねだってくる。
「ニルを撫でられなくなっちゃう」
「……それは、いや」
「お昼、ちょっと足りなかったね」
放心するニルを連れて、狩りに出かける。
落果に耐えた森の縁からは、広大な焦土が見えた。
炭の香りと、漂う熱気に、呼吸が止まる。
ニルに手を握られて、ようやく自分が震えていることに気がついた。
生を噛み締めながら、今日を生きる糧を探す。
獲物を求めて彷徨っていると、アヅキさんが仕留めた熊を丸ごと一頭譲ってくれた。
「小さい体に、よくもあれだけ詰め込むものだ」
「どうして、こんなことに……」
「お前が、斯くあれと願ったからだろう」
アヅキさんは、他人事のように言う。
けれど、ニルの食欲は、本当に世界を食い尽くしかねない勢いだから、笑うに笑えない。
悪魔の薬酒を飲ませてからと言うもの、彼女の食欲は底が抜けてしまったようだった。
食べ物がなければ、木でも岩でも、”何でも”拾って食べてしまう。濃厚な魔力の匂いを感じれば、たちまち理性が吹き飛び、毒さえ無意識に口元へ運んでしまうほどだ。
彼女の食事は、自然と許可制になった。
「レイ。これ、食べていい?」
「……ほどほどにね」
「わかってるよ」
ニルは、嬉しそうに木の枝を食べる。
しかし、口を通った瞬間、金橙の髪が炎に焼かれたようにくすんだ。
「あ゛ぁ……ッ!」
「ニル!?」
ニルは頭の痛みを爪で押しつけて、泣きじゃくりながら僕にしがみついてくる。
「……ごめん。僕のせいだ…………」
こぼれた枝は、微かに天光を帯びていた。
ニルの髪が、異常に魔力を蓄えている。
「……わたし、どうしたらいいのかな?」
「帰って、占いの練習しようか」
その日、全員で食事を抜いた。
それも、夢幻の空腹に苦しむか、幻肢の痛みに苦しむかの差でしかない。
ニルは魔力を消化する力はあっても、消費する術を持っていなかった。
初めて生き血を与えた日、太陽が沈むように、髪が夜色に染まったのを思い出す。
あの日の地獄のような叫びが、脳裏に焼きついて離れない。
血は魔力の塊だ。安易に飲ませるべきではない。それは、痛いほど理解している。
それでも、ほんの僅かな血を、何度も喉を鳴らしながら切なそうに飲む姿が、どうしても見ていられなかった。
僕は、密かに覚悟を決める。
「マシロさん、アヅキさん、ウズラさん。何も聞かずに手伝ってくれませんか」
必死に頭を下げると、みんなは快く引き受けてくれた。
「これでいい?」
マシロさんが、髪で紐を編んでくれる。
「教会にしれたら、斬首は免れないな」
「…………」
「そう言うお前も、乗り気じゃないか」
アヅキさんは天樹の根を持ち帰り、ウズラさんは唾を分けてくれた。
「ナー」
「ソラ、もう少しドタバタ歩けない?」
「レイ。抜き取りが終わった。役に立つといいが……」
「銀さん、本当にありがとうございます!」
「これで、ひとつ貸しだな」
ソラには足音をもらい、銀さんには頼み込んで筋を譲ってもらう。
それでも足りない素材は、キンジュが揃えてくれた。
僕は、素材を組み合わせて作った月の皮帯に、言葉にならない想いを彫っていく。
半月を経て、”特別な輪っか”〈グレイプニル〉は完成した。
陽が落ちると、月のない夜が訪れる。
暗闇の中で、金色の風が靡いていた。
「ニルさん、受け取ってくれますか?」
「はいっ……!」
ニルは笑顔を浮かべようとして、涙が先に溢れると、声を上げて泣き出してしまう。
震える背中に手を添えて、そっと肩まで抱き留める。繋がりたい衝動を押し付けて、跳ねる毛を繕うように鼻先で撫でた。
「っ……ふ、ぁ…………」
陽だまりの匂いに意識をあずけていると、ふっと唇が押し上げられる。
ほんの一瞬の触れ合いなのに、これまでの接吻がすべて霞むほど、胸が満たされていく。
「……群れのど真ん中で求愛をするとは、神経が図太いな」
アヅキさんの茶々ですら、ニルに耳たぶを食まれるようではゆかった。
「じっとしてて」
「うん……」
首輪を贈る手が肌に触れて、融け落ちそうになる。
慌てて、肩に乗せるように、そっと逃した。
彼女は身じろぎひとつせず、上目遣いで待っている。
自分のものにしたような感覚に、いい知れない興奮が背筋を走った。
しかし、高揚を咎めるように、アヅキさんが頭に飛び乗ってくる。
「他人に禁忌を犯させた説明は、してもらえるんだろうな」
「……首輪のために、私の髪を使ったの?」
マシロさんたちに詰められて、僕は泣く泣く首輪に魔力を流した。
「これは、魔剣グレイプニル。体から余剰魔力を吸い上げて、この宝石に貯めます。一度起動すれば、あとはニル自身の魔力で半永久的に動くんですよ」
「……わたし、もう我慢しなくていいの?」
「たまに魔力の放出が必要だけど、溜まり切るまでは食べ放題かな」
「レイ、好きっ……!!」
ニルは、どさくさに紛れて血を飲み始める。
「しかし、材料を注ぎ込んだ割には、機能が少ないな」
「狼を拘束するための魔導具ですからね。魔力の制御は、副次的なものです」
「と言うと?」
「何かの拍子に力が暴走しても、命令すれば強制的に止められるってことです」
「つまり、隷属の首輪か」
「破廉恥ね」
「全然違いますからっ!僕たちならいつでも外せますし、命令するにも等価の代償が必要です」
「レイは、女の子を飼うのが趣味だったのね」
「それは、マシロさんの趣味でしょ!」
「趣味じゃない。人生よ」
「重いよ!?あと、かっこよく言わないで!」
「だが、求愛した側から首輪を嵌めたのは事実だ」
「指輪は別に作るからいいんです!……材料に太陽使いたいので、今すぐは無理ですけど」
「……月の次は、太陽か。どうしてだ。ニートの言うことなのに、全く笑えない」
月の消えた星空を仰いで、アヅキさんは寂しげに嘆いた。
「……レイ、あれなに?」
ニルの蕩けた声が、首を食む。
「杭ね」
「綺麗……。虹みたいだ」
「グレイプニルを制御する魔導具だよ」
素材の提供者に対応するように、七曜の杭を配分する。
「これを持ってる人の命令には、ニルは逆らえない。所有には、本人の許諾が絶対条件。もちろん、命令には代償は必要だよ。扱えるのも、素材を提供した人だけ」
「でも、レイは材料を集めてないわ」
マシロさんの言葉を聞いて、ニルが爪を立ててしがみついてくる。
「……また逃げるのか」
「ち、違うよ!」
「じゃあ、早く出せ」
僕は隠し持っていた要杭を渡す。
「月みたいだ」
「獣を縛る、絶対の杭。月の種で作ったよ」
「……信じない」
突然、ニルに蹴り倒されて、無理やり杭を奪われた。
馬乗りになった彼女は、両腕を星空に掲げ、心臓一点を狙って杭を振り下ろしてくる。
「……ッ!?」
体が地面から跳ね上がる。咄嗟に庇った胸に、杭の先端が深く食い込んでいた。
「どうして、こんなこと……!?」
「絶対なんて、嘘だ」
「……ッ!?」
ニルは両手を槌のように握り、杭の頭を全力で叩きつけてくる。
「ニル、死んじゃうよ!」
「これも月なんだろ?なら、溶かせばいい」
「何に嫉妬してるのっ!」
「ほら、もうすぐ心臓に届くぞ」
「これじゃあ祝福と変わらない……っ!!ニルを縛りたくない!!」
溶けかけた杭が抜けなくて、涙が溢れて止まらない。
すると、ニルは不安が弾けるように、大声で泣きじゃくり始めた。
「わたしだって、レイを縛りたいわけじゃない……!わたしのわがままで、お前をひとりぼっちにさせたくないっ!」
「だったら……!」
「もう、何もなかった頃のレイじゃない!世界にひとりで歯向かった、立派なオスなの!……誰にも取られたくないの!レイは、わたしのなのっ!」
気高い狼が、子供のように泣きついてくる。
「……僕は、もう狼にはなれない。星になるつもりもないんだ」
「知ってるよ」
穏やかな声に、心臓が掴まれたようだった。
「お前は、弱い。ずっと、弱いままだ。だから、もっと惚れた」
「僕は……っ」
「言わなくいい。ちゃんと、わかる。……お前だけの匂い。わたしの、大好きな匂いだ」
「……っ……あ…………」
ニルの言葉に、強張った心が、ゆっくりと溶けていく。押し込めてきた涙が、許しを得たように、止めどなく溢れ出す。
ずっと求め続けてきた言葉に、ただひたすら泣いた。
「鼓動が鳴るたびに、わたしを感じろ。ここが、お前の帰る場所だって、覚えて」
ニルの指が頬に触れて、逃げられないほど近くで囁かれる。
杭はすべて溶け堕ちて、魂とひとつに癒合した。
「堪え性がないな」
ニルは欲望を見透かしたように、上気した顔で笑った。ぶんぶんと腰を振って、悶える姿に、身も心もどろどろに溶かされる。
「浮気しても、帰ってくるんだぞ」
「絶対しない」
「嘘だ」
「もうニルって決めたから」
「やだ。戦って勝ちたい」
「頑固だね」
「お前が言うな」
「……怖い未来が見えたの?」
「もう見えなくなっちゃった。だけど、縄張りの中のことなら、なんとなくわかるようになったよ」
「祝福の性質が変わったのかな?」
「うんとね、何かに守られてる感じ」
ニルはおもむろに立ち上がると、短いスカートをくるりと回してみせてくれた。
けれど、鼻先を掠める布地の奥は、見えそうでいて決して見えない。
無意識に覗き込もうとすると、ちょうど尻尾に頬を弾くように当たった。
「……祝福は使わないって約束は?」
「えっち」
文句の言う気のない声は、揶揄うようでありながら、妙に心地良い。
「番だからって、なんでもは許さないから」
「病気のこと、気にしてるなら平気だよ?」
「……ううん。でも、あれから見られるの恥ずかしくなったの……」
今まで獣のようだったニルが、弱点を守ろうとスカートの裾を頼りなさげに握る。その姿があまりに可愛くて、理性が少しずつ溶けていく。
「どうしてお前が照れるんだ」
ニルは嬉しそうに膝に飛び乗り、そのまま抱きついてきた。
「自分で血が飲み放題にするなんて、いけないんだ」
「飲みきったら、次はないんだからね」
「わかってる。オスは、いかさず寝かさずだ」
「……なんの話?」
「わかってるくせに」
ニルの指先が肩に触れて、胸元を滑るように下りていく。腹筋の上を悪戯に彷徨い、さらにその先へと潜る。
期待で胸が膨らみ、自然と腰を抱き寄せていた。
しかし、カランとベルが鳴り、夢の温もりは音とともに消え失せる。
影を覗くと、キンジュが顔を出していた。
僕らは揃って、深いため息をつく。
「「いいとこだったのに……」」
「だから、人前で盛るな。時と場所を考えろ」
「私は隣で応援するわ!」
「マシロは、空気を読め……」
「声を出したら、二人の邪魔よ」
「その感性があって、どうして覗き見る発想になるんだ!」
アヅキさんは我慢の限界を超えたのか、ウズラさんからタバコを受け取るなり、説教を始める。
マシロさんが唸る様子を愉しんでいると、再びカランとベルが鳴った。
「これ、僕に?」
キンジュはこくりと頷いて、封蝋の押された羊皮紙を差し出してくる。黒い蝋には、カラスの印が押されていた。
「手紙くらいなら、普通の紙を使えばいいのに」
封を切って、丸まった羊皮紙を広げた途端、嫌な汗が背中を伝った。
「せ、請求書……」
慌てて内容を追うと、見覚えのある素材の名前が並んでいた。
「……キンジュ、くれたんじゃなかったの?」
縋るように影を覗くも、彼女の姿はどこにもない。
僕の焦りように、みんなが集まってくる。
「なんて書いてあるの?」
「……女の髭。ドワーフ族の誇りであり、優れた魔力伝導体。条件付きで……金貨三十枚!?」
「人魚の歌声と言うのもあるな」
「超希少につき、条件付きで、金貨五十枚……。まさか、こんなにするなんて……」
見たこともない数字に頭を抱えていると、内容に続きがあるのが見えてしまう。
「……追記。店舗と希少素材の焼失により……金貨1650枚…………」
「おいおい……」
アヅキさんの嘴から、タバコが滑り落ちた。
「請求総額、金貨1730枚……払えなければ、一生ロウさんの奴隷…………」
血の気が引いた。心臓が潰れそうになる。
ニルに慰めを求めるも、耳はぴんと立ち、尻尾は地面を叩いて暴れていた。
「馬鹿っ!今すぐ払ってこい!」
「こんな額、僕じゃ一生かけても払えないよ!」
「なら、ここでお別れだ」
「そんなぁ!ニルがいないと、もう普通に呼吸もできないんだよ?」
「ふんっ」
ニルにそっぽを向かれて、心が折れる。
「森をひとつ吹き飛ばしたんだ。自業自得だろう」
「ニルの命と比べたら、安すぎるくらいよ」
「……よく考えてみたら、なんでただの移動販売のお店が金貨1650枚もするの?もしかして、ぼったくられてるんじゃ……!」
光明が見えたと思った瞬間、絶望のベルが鳴る。
「……めい……よ……き……そん……」
別の羊皮紙が、膝を押しつぶした。
「ラムネさん、どこぉ!お金貸してぇ!」
恥も外聞もなく、必死に救いを求める。
「国家予算だぞ。ニートに貸す奴があるか」
嘆息をつくアヅキさんの横には、朽ちかけの東國刀が見えた。
「……それ、希少なんですよね。勇者たちも探してましたし」
「おい、やめろ!それに触るな!」
「もう、これしかないんです……!」
ニルとの繋がり欲しさに、迷わず刀に手をつける。
腕を虫が這い上がる感覚が走り、咄嗟に手を引いた。
しかし、刀は跡形もなく砕け散り、突如として巨大な百足が姿を現す。
「な、なんですか、これ!?」
「わたしには、なにも見えないよ?」
「ほら、ここ!虫!虫がっ!」
「……頭おかしくなったのか?」
「みたいね」
「……馬鹿だと思っていたが、よもやここまでとは」
「服をぉお!?着てるの、にぃ……っ!感覚がぁ……!」
百足を引き剥がそうとする手が、虚空を切る。
必死に身を捩る僕をよそに、マシロさんたちは呑気に手拍子を始めた。
「無駄だ。桜花に実体はない」
「なんで、僕にしか見えないんですか!」
「お前が魔剣に見えて、鞍替えしたんだろう。常時命を吸われるが、人を辞めた剣技が使えるようになる。よかったな、魔力の使い道ができて」
「言ってないで、助けてぇ!」
「天に祈れ。聞き入れられる道理はないが、物好きがいるかもしれない」
「いやぁ!気持ち悪いぃ!!」
桜花は、全身を無意味に這い回り、纏わりついてくる。
恐怖に喉が裂けるほど叫び続けた。声が枯れると、今度はカサカサと体を擦る音が、じわじわと精神を削ってくる。
「死にたい……」
ニルに無視され続けた僕は、ついに絶望の底に落ちて、自ら意識を手放した。




