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第十九話 希望

「お誕生日おめでとう!」

 巣がもぬけの殻で困惑していると、ニルが物陰から飛び出してきた。

 いきなり押し倒されて、匂いを嗅がれ、いつも通り頬を叩かれる。

 少し遅れて、マシロさんたちも姿を現した。

「レイ。お誕生日おめでとう」

 思わず、涙が溢れた。想いを受け取るので精一杯で、ありがとうの一言も返せない。

 マシロさんが、穏やかに微笑む。

「二人とも、何か食べたいものはある?」

「わたし、お肉がいい!」

「レイも、食べたい?」

「マシロさんの料理なら、なんでも大歓迎です」

「じゃあ、決まりね」

 手持ちの食材をひっくり返して、調理をしながら、隙を見てつまみ食いをする。

 料理はひとつとして並ばず、肉は焼けた側から口の中へと消えていった。

 気づくと、ソラとキンジュも食事に混ざっていた。

「おいしい?」

 二匹は餌を食べるのに夢中で、マシロさんの声も聞こえていない。

 食い意地を張ったキンジュが人の姿を見せると、賑やかだった場が凍りついた。

 けれど、不思議とニルが怒ることはなかった。

「……ニル?」

 具合を心配すると、黙って背を向けられた。

「ねぇ、こっち向いて」

 求めるように囁くと、照れた耳が逃げ回る。

「……少し、歩こうか。風に当たりに行こう」

 ニルは小さく身構えると、たっぷり悩んだ後で、こくりと頷いた。

 乾いた瞳に、微かに星が映る頃。自然と交わる手のひらに、どちらともなく指を絡めた。

 木々は闇夜に浸り、夏草が花香を覆っている。

 獣の道は、他に人はいない。

「月が見えないね」

「新月だからな」

「どうして見えないんだろうね」

「きっと、疲れて寝てるんだよ」

「光ってなくても、見えたらいいのに」

「真っ暗な月なんて、誰も欲しがらないよ……」

「森は暗くても、歩けるよ」

「じゃあ、あっても意味ないね」

「ひとりじゃ怖い森も、月があれば安心できるのに」

「それなら、星があるだろ。ほら、あんなにたくさん」

「あれは、ずっと光ってるから」

「その方が綺麗だ」

「星は道標にはなっても、月ほど明るくは照らしてくれないよ」

「……へりくつだ」

 風の気配を探して、僕らは歩き続ける。

 しばらくして、木々を逆さに照らす波紋を見つけた。

「こっち」

 淡い光を潜りると、開けた場所に出る。

 そこには、天樹の根伸長〈こんしんちょう〉によって形成された地溝湖〈ちこうこ〉が、見渡す限りに広がっていた。

 巨大な水鏡を見たニルは、おもむろに足を止めた。

「……風にあたるだけじゃなかったのか」

 夜空を飲み込むほどの大口を開けた湖面を前に、彼女は視線を泳がせる。

「森を走ってたら、偶然見つけたんだ。ずっと、ニルに見せたかった」

 恥じらう影を連れて、湖岸の浅瀬を渡る。

「ずっとね、夢を探してたんだ。自分にしかできないこととか、誰もやらないこととか、そんな特別な居場所を探してた」

「……わたしも、いっぱい走ったよ。でもね、頑張っても届かないものもあるって、わかったんだ」

「夢なんて、星の数ほどある。だから、届かないなんてことはない。ただ気に食わなかっただけなんだよ。僕もニルも、きっと欲張り過ぎたんだ」

「馬鹿だな、わたしたち」

「でも、お陰でニルと逢えたよ。それ以外のものは、ほとんど無くしちゃったけど。それでも、生きてていいって、許してもらえた。一番欲しいものを、見つけたよ」

「マシロも、キンジュも、祝ってくれてた」

「それもこれも、ニルが誕生日をくれたからだ。世界中を探しても、こんな幸せは落ちてない。天使だって、贈ってくれないよ」

「たかが、誕生日だ。大袈裟だよ」

「こういう言い方をすると、傷つけちゃうかも知れないけどさ。僕はニルが星じゃなくても、月でなくてもいいんだ。たまに笑ってくれたら、それで幸せなんだよ」

 ずっと、かけがえのない夢を探し求めてきた。

 けれど、今は想いに名前をつけて、必死に理由を並べている。情動を言葉で飾り、時間をかけて育てることに、限りない夢を見ていた。

 だから、もう遅い。

「言葉は、祝福に似てる。想いを込めて声に出せば、魔法になって、叶ってしまう。……だから、何も願わない。僕がニルを想って、ニルが僕を感じたら、それがすべてだ」

 銀色に揺蕩う星をすくって、そっと風に乗せる。

「……おかしいよ」

 濡れた頬を置いて、ニルは天の光を仰ぎ見た。

「ニル」

 夜空を遮るように、両手で強く抱きしめる。

「……レイ?」

 揺れる瞳が、にわかに色めく。

 ゆったりと揺れる尻尾は、時の流れを拒むようだった。

 けれど、もう止まれない。

「手加減しないから」

「…………んっ!?」

 移ろう湖面が凪ぐより先に、息づく森に耳を澄ませるその前に、高鳴る鼓動を胸元に押し付けて、僕は君に口付けた。

 柔らかな唇を、貪り喰らう。溢れる蜜を余さず吸い上げて、膨らむ欲望を喉の奥へと垂れ流す。

 媚毒に蕩ける狼の瞳が、心を掴んで離さなかった。

 寂しげな耳に血潮を送り、強張る尻尾に指を這わせて、瞳の底へと潜るように想いを馳せる。

「……っ、ちゅ……んっ。あっ……んぁ……」

 驚きが過ぎ去ると、怒りに燃え出して、悦びに負けて、ニルは次第に溶けていく。

 ひとりで楽になろうと息を継いだ唇を、ねだるように啄む。

 彼女は唾液で照る顔で、悲鳴を上げようとした。

 けれど、上から塞いで仕舞えば、震える声も呼吸の糧だ。

 頬を内から梳くと、鋭い牙に舌を掻かれて、じわりと鉄の味が広がった。

「……っ!?……ん、ん!!」

 ニルが焦ったように身を捩る。

 けれど、逃がすわけもない。

 滲んだ血は、唾液と混じり、じっくりと味蕾を逆撫でる。

「…………っんく」

 獣の喉が鳴り、腕の中で体が大きく跳ねた。

 瞳が欲に染まり、淫らに爛れる。

「……馬鹿っ!」

 ニルは怒り、突き飛ばされた。

「こんなの、卑怯だ!」

「ちゃんと、正面から襲った」

「わたしが、どれだけ悩んだと思ってるんだ!怖くって、我慢してたのに……!こんなの覚えちゃったら……戻れないよ!」

「戻る必要なんてないよ。これからは、毎日しよう」

「だって、嫌われちゃうかも知れない……!」

「どんな味でも、残さず食べるよ」

「腐ってて、臭くて嫌いになるかも!」

「その頃には、もう胃の中かもね」

「骨だけになったら?捨てるよ、絶対!」

「鞄に詰めて歩こうかな」

「擦れて砕けちゃうかも!」

「その前に、噛み砕いて飲んじゃうよ」

「人間なのに、おかしいよ!それじゃあ、まるで本物の狼みたいだ!」

「……狼は嫌い?」

「そんな顔するな!わたしだって……わたしだって、本当は……!」

 闇に怯える狼を、優しく受け止める。

「僕は、祝福が使えない。力も弱いし、お金も持ってない。だけど、ニルが欲しいって気持ちだけは、誰にも負けないよ」

「でも、でも……!」

「ゆっくりでいいよ。全部、最後まで聴くから」

 湖に踞ったニルは、ガラスの小瓶を握りしめていた。

「……月とか、星とかね、そんなんじゃないの。わたしは、もう一回だって光れないんだ……」

「じゃあ、一緒に光を食べようか」

「そんなこと、できるわけないだろ!」

「でも、楽しそうじゃない?」

 震える手を握り、踊りに誘うように、ニルを引き上げる。

 僕は風の吹くままに、気の赴くままに駆け出した。

「ねぇ、ニル!二人でさ、月を壊して、太陽を食べようよ!空に浮かんでる星も、偽物の光も。気に入らないもの、全部、全部!世界が陰も形もなくなるまで!」

「そんなの、もう悪魔だよ!」

「うん!悪魔になろう!僕と一緒に!!」

 湖面に落ちる人影が、銀の星々を飲み込んで、激しく飛沫を上げる。

 分霊剣が現れ、天を衝き、宙を舞って、地を穿つ。。

「ニル!!番になろう!!」

「……レイ!!」

 ニルは想いが弾けたように涙を溢しながら、僕に勢いよく抱きついた。

 泣き噦りながらも、負けじと押してくる姿が愛おしい。

「僕も、狼になりたい。黒龍みたいに、魂を分けて愛を誓いたい。だけど、僕は人間だ。だから、飽きられる最後まで、生き続けるよ。ニルに望まれて生まれて、ニルとたくさん悪さをして、最後はニルに食べられる。そうしたらさ、ほら。この世界、全部がニルのものに見えてこない?」

 ニルは涙と涎でぐちゃぐちゃの顔で、幸せそうに笑った。

 次の瞬間、欲に塗れた頬が、鮮やかな朱に染まる。

「レイ。嫌い〈好き〉!」

 狼は返り血を浴びて、満面の笑みを浮かべた。

 気づくと、僕の腹部は、爪で引き裂かれていた。

「……に……ニ、ル…………?」

 世界が深紅に染まっていく。

 夜空を見上げると、不可視の暗月が、赤熱に蝕まれていた。

「がはっ……ごほっ…………!?」

「綺麗だね、レイ。柔らかそうで、温ったかくて、とってもおいしそう……!」

 月光を浴びた狼は、瞳が血色に焼けている。

「……どう、して…………?」

「むかついたからだよ」

 責めるように、首を絞められた。

「なんで、わたしだけ苦しい思いをしなきゃいけないんだ。何をしてても、イライラするんだよ。急に心臓が痛くなったり、やらなきゃいけないことに手がつかなかったり、大好きなお肉を食べても、全然満たされない」

「……それ……は…………!」

「ずっと、怖いものなんてなかった!わたしは森の中で、一番強かった!なのに……お前と出逢ってから、毎日不安で心が潰れそうになる……。忘れたいって思ってるのに、前の自分がどうだったのか、思い出せない。……これって、全部お前のせいだろ?」

「……そん、な……こと……」

「わたし、知ってるぞ。こう言う気持ちを、嫌い〈好き〉って言うんだろ?だって、お前が苦しんでるのを見ると、すごく楽しいもん!お前もそうなんだろ?だって、すごくいい匂いがするもん。食べたら絶対においしいよ!」

 ニルは恍惚とした表情で、幸せそうに涎を滴らせる。

 首を絞める手を退かそうとすると、両腕を掴まれて、地面に押し付けられた。

 逃げ出そうとして、必死にもがく。

 けれど、鍛えた四肢が、全く動かない。

 一言でも発すれば、喉も噛み千切られそうだった。

 それでも、血を吐きながら、全力で咆える。

「……ニルっ!……月の光に負けないでっ!」

「……っ!?う、うるさい……!黙れ……!」

「…………ニルっ!!」

 命を喰われるのなら、正気の君がいい。

 月の魔力に当てられて血迷う獣に、僕は祈るように頭突きをする。

「……お願い!……目を……覚まして!」

 四肢の拘束が緩んだ隙に、ニルの体を突き放す。

 しかし、今度は悲鳴を上げて、ぼろぼろと泣き出した。

「魔人で、ごめんなさい!汚くて、ごめんなさい!意地悪して、ごめんなさい!嘘ついて、ごめんなさい!生きてて、ごめんなさい!」

 ニルはガタガタと震えながら、縋るようにガラスの小瓶に手を伸ばした。

「やめろ!!」

 咄嗟に、叫んでいた。

 背筋に悪寒が走った。物凄く嫌な予感がした。

 しかし、ニルは栓を抜くと、目の色を変えて飛びかかってきた。

「飲んで!お願い、飲んで!!」

 顎をこじ開けられて、口の中に瓶を捩じ込まれる。

 たった一粒の光が、瓶の底から転がり落ちてくる。

 薬のラベルには、古代語で”希望”の文字が記されていた。

「お願いだから、飲んでよ……!!」

 悲痛な声に、覚悟を決めて、脱力する。

 舌に優しい苦味が広がった。

「……ニル、好きだよ」

 終わりを悟り、秘めた言葉を絞り出した。

 ニルは、心臓が裏返ったように発狂した。

「やだ!やだやだ!!やだやだやだやだ!!」

 青ざめた顔で瓶を投げ捨てると、喉の奥まで指を入れて、必死に薬を掻き出そうとする。

「やだ、お願い!!やめて、死なないで!!!!」」

 熱い涙が頬を叩いていた。

 粘膜をずたずたに引き裂かれて、溢れ出した血肉に溺れて、激しく咳き込む。

 痛覚が消え去る頃になって、微かな光が宙を舞った。

「レイ!レイ!!」

「…………い……う……」

 安堵に崩れる体を、優しく抱きとめる。

「ごめんなさい!ごめんなさい!!」

「……あい……お……うう……」

 背中を抉る爪を、深く受け入れる。

 頬を濡らす血を拭い、震える唇を撫でる。

 匂い立つ鮮血の紅が、狂おしいほどに映えていた。

「……いえ……い……。……ああ……いい、お…………」

 濡れた声で、枯れた声で、愛を吐き尽くす。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁァァ———ッ!!!!」

 黒く濁った湖を見て、ニルは絶叫すると、泣きながら闇の中へと姿を消してしまった。

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