第二十話 不倶戴天の光輝
朦朧とする意識の中で、憎悪の炎だけが消えずに燃えていた。
息の仕方が、わからない。体の動かし方も、思い出せない。
それでも、煮えたぎるような怒りが足を突き動かした。
縄張りに戻ると、敵の姿があった。
「ウズラ!ニルに何をした!あの薬は何だ!」
医者を騙る鷹の喉笛をつかみ、空の牙で吼え立てる。
「……ニルから、何を奪った!答えろ!!」
ニルは、苦しくても笑顔を浮かべる、強い子だ。悲しくても涙を堪えてしまう、意地っ張りな子だ。
それが、まるで心が死んでしまったように、生きることを恥じていた。
「……ニルを、返してください!」
夢を見失って、膝から崩れ落ちる。
首を絞める手を緩めても、ウズラは喘ぎ声ひとつあげなかった。
カルテを奪い取り、答えを求めた。
「…………………………………………」
鼓動が止まった。
世界が、暗転した。
「……………………っ」
光明を記す白地が、潰れていた。
異常部位を示す身体図が、人の形をしていない。腹部が爆ぜたように、インクが滲んで波打っている。
夥しい数の所見は、お互いに絡み合って、意図さえ読み取れない。
親指を上げると、診断結果が見えた。
絶望の名は、琥珀病だった。
「…………嘘だ」
理解を拒む脳が、血流に叩かれた。
末期の琥珀病は、ニルの夢にこそ巣食っていた。
絶望の淵に、希望の字が読める。
「レイ……」
真っ白な声が、神経を逆撫でた。
「……知ってたんですか」
「ニルは、本気だったよ」
「そんなこと、今更疑ってない!そんなことを、聞きたいんじゃない!」
胸ぐらを掴み、苛立ちをぶつける。
「どうして言ってくれなかったんですか!」
「……言える訳ない!!好きなあなたに、子供が産めないなんて!!」
マシロさんが、激昂する。
「ニルは、必死に隠してた!触られることも、見られることも、すごく怖がってた!また捨てられるんじゃないかって、ずっと怯えてたのよ!」
「だから、身を引くって!?死ぬのが、唯一の希望?ふざけないでください!」
「あなたが言わないで!」
彼女は、憤りを浮かべながらも、死にかけの僕を抱きしめる。
しかし、優しいのは、ほんの一瞬だった。
「———やっと、逢えた」
不意に、慈愛の声が、きょうきを帯びた。
「———やっと、触れられる」
突如として、真白の髪が、しっこくに染まる。
「レイ」
くろい少女は、あどけない表情で微笑んだ。
「大丈夫」
闇とも虹ともつかない瞳が、僕を捕えて離さない。
「私は、レイの味方だよ」
露出した黒曜の髪が、死肉を優しく抉る。
「があ゛あ゛あ゛ぁぁぁ…………ッ!?」
三千の寵愛が、生苦を呼び戻す。
「その夢は、レイのもの。ひとつも棄てる必要なんてないんだよ」
冷え切った体が、柔肌に抱かれて、ぐずぐずに蕩けていく。
「……くろ……くろ……」
「……うん。ここにいるよ」
僕の求める声が、そのまま少女の名前になった。
「たくさん頑張ったね。疲れたね。少し横になろう」
「あ゛ぁ…………ッ!」
「大丈夫。痛くない、痛くない」
しとしとと、ひと所に言葉が降ってくる。
けれど、痛みは増すばかりで、血も止まらない。
しかし、不思議と心は穏やかだった。
「……ニルを探しに行かないと」
身体を起こそうとすると、黒い髪にとめられた。
「手を繋いでも、抱きしめても、きっと届かない」
「じゃあ、どうすればいい……?」
「悪夢を晴らしてあげよう。ニルに新しい夢を見せてあげよう」
クロは可愛らしく、狼の鳴き真似をする。
けれど、続く言葉は、狂気の沙汰だった。
「——勇者を食べに行こう」
揺らぎのない瞳は、雲上の光を捉えていた。
心に思っても、決して言葉にできなかった闇が、無間に横たわる。
「……祝福を使えば、助けられるかもしれない」
「病気を治したら、命の恩人だね。すごく喜ぶと思う」
「……嫌だな」
「大丈夫。泣き止んだら、帰ってくるよ。そうしたら、またいつも通りの生活に戻れる」
「……そんなの、嫌だよ」
「祝福を使ったら、幸せになれる。無能のままでいたら、何も考えずに済む。それでも、昏い道を選ぶんだね」
「変わりたいんだ……。ニルが脇目も振らずに追いかけてくる光になりたい」
「……私も、白くなりたい」
「なれるよ、きっと」
「……こんなに、真っ黒なんだよ?」
「僕と一緒に、光になろう」
「……いいの?」
「クロがいてくれたら、頑張れる気がするんだ」
「……レイは、優しいね」
無意識に諦めていた夢が、確かな目標に変わる。
ずっと、ずっと。夢を探していた。
がむしゃらに走る中で、刻印を生み出すことに自分の価値を見出した。
しかし、僕は認められず、家を追い出されて、縁を切られた。
それからは、草を食べて、影を見つめて、陽が落ちたら眠る。その繰り返しだった。
生きるのが辛くて、死ぬのが怖くて、ただ息をしていた。それすら、笑われて、責められて、声が出なくなった。
他人に生を強制されて、望まぬ明日を言葉にさせられた。自分の魔法に、逃げ道を塞がれた。心と身体を引き裂かれて、千切れてしまいそうで、立ち止まる以外に自分を守れなかった。
これ以上、失いたくない。
それでも、息をしなければ、命の価値さえ手放すことになってしまう。
罪悪感だけが、ひたすら積み上がっていった。
もう何も、生きることすら、認められない。
そんな僕に、ニルは生まれ直してほしいと望んでくれた。
だから、変わるなら、今しかない。
「このまま、呑み込みこもう。すべて抱えて、諦めずに、壊れよう」
「一緒に、光になろう」
「そのために、勇者を斃そう」
心をひとつに、立ち上がる。
しかし、身体の方が拒絶する。
「……歩けそう?」
「怖い……」
「私につかまって」
「いいの……?」
「一緒に歩こう。一歩の、半分ずつ。それを、二人で分けて」
僕らは、おぼつかない足で光を探しに旅に出た。
深閑とした森には、血の匂いが漂っている。。
それでも、クロと二人なら、迷わない。
今夜は、千載一遇の好機。
夜明けを告げる光は、どちらかひとつだけだ。




