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第十四話 焦陽と柘榴

 ニルが、いない。

 彼女の姿だけが、巣のどこにも見当たらない。

「……ニルは、どこですか? 」

 聞いても、誰も答えない。

 明らかに様子がおかしい。

 昨晩から、一睡もしていない。そう思えるほど、みんなの表情は、豪雨に横から殴られたようだった。

「マシロさん」

「…………っ」

 呼ばれた彼女は、口を固く閉ざす。

 けれど、縋るような目が、森の奥深くを指していた。

 僕は、鼻を頼りに、ニルを探した。

 水浴びをした河原。

 朝日を望んだ大木。

 特訓で使った、熊より大きな岩。

 記憶のひとつひとつから、彼女の匂いがした。

 一日中、森を駆け回った。

 あわいの刻。鏡のような湖面の縁に、求めた姿を見つけた。

 喜びに、体が震えた。

 思わず叫びたくなる。

 しかし、触れれば霞と消えてしまいそうな影が、言葉を詰まらせた。

 背中が、風に押された。

 隣に腰を下ろすと、ニルは急所を守るように、胸と腹を抱いて踞る。

 それは、まるで生きていることを恥じているかのようだった。

 溢れる想いの代わりに、そっと肩をぶつける。

 彼女は顔を背けて、伸びた首筋を晒した。

 躊躇わず、咬み痕をつける。

 獲物は小さく震えると、観念したように、自由を手放した。

 ニルの手を引いて、来た道を帰る。

 体を引き摺るような足取りに、幾度も野宿を強いられた。

 しかし、森の獣たちは、遠くから見てくるだけで、全く襲ってこない。

 僕は、敵とも餌とも映らない命を抱いて眠る。

 腹の虫が聞こえれば、獲物を狩り、食事を与えた。

 服も脱がずに川へ入った時は、肝を冷やした。

 風邪をひいて熱を出すと、癇癪を起こして、爪と牙を立てられた。

 それでも、月の光も届かない暗夜になると、彼女は僕にしがみついて離れなかった。

 しかし、それも巣に帰るまでのことだった。

「おかえりなさい、ニル」

「……ただいま」

 ニルはマシロさんを盾にして、僕を避けるようになった。

 彼女は自己を顧みず、朝から晩まで働いた。

 無駄な殺生が増えた。服を汚して帰ってきたり、怪我をしても放置して、毎日欠かさなかった毛繕いも忘れるようになった。

 ニルから、魂が抜けてしまったようだった。

 もう、太陽のような彼女は、面影もない。

 けれど、僕は、君の陰を抱く。

「髪、跳ねてる」

 生来の癖っ毛は、櫛を通したところで、大して変わらない。

 それでも、ニルに触れる理由が欲しくて、櫛を横に置いて、撫でるように指を通す。

「……下手くそ」

 罵倒の声にも、鼓膜が震える。

 ニルは、まだ隣で生きている。

 時の流れとともに、短い言葉なら交わせるようになった。

「———占い」

 マシロさんの言葉に、ニルの耳がぴくりと反応した。

「占いに興味あるの?」

 ニルは、こくりと頷いた。

 僕が道具を作るために、森で材料を探し集めていると、アヅキさんが頭に乗ってくる。

「女なんて、他にいくらでもいるだろうに」

「あれは、何のつもりですか」

「ニルの祝福は、未来を視る力らしいな」

「……悪い未来が見えたんですか? 」

「お前に助けられた時、未来が変わったとも言っていた」

「いい加減、質問に答えてくださいよっ!! 」

「悪夢をどう終わらせるのかは、本人の気持ち次第だ」

「……ニルが祝福を使えば、元に戻るんですね? 」

「今の精神状態では、未来を視る気にもならないだろう。彼女に必要なのは、今を生きる魔法だ」

「そう言うことなら、早く言ってください」

 僕は、材料を抱えて、足早に巣へ戻った。

 アヅキさんの提案で、占いの道具は、タロットカードを作ることになった。

「すべてを作る必要はない。大アルカナだけで十分だ」

「僕、絵柄なんてわかりませんよ? 」

「物語を描くのは、お前ではない。そこは、マシロとウズラに雛形を任せている」

「でも、祝福を魔法として制御する魔導具なんて、どうやって作れば……」

「言葉を尽くせ。それが、お前の”魔法”だろう」

「僕が、ニルに伝えたい言葉……」

 削り出した木片に、想いの丈を彫る。

「ニル、よろこんでくれるかな」

 綴る言葉は、唯一の意匠となり、無二の刻印として、笑顔を祈る魔法になった。

 魔法の基盤が出来上がると、ウズラさんが絵の下書きを始める。

「線が丁寧ですね。カルテの字も綺麗でしたし……」

 僕は何気なく、ウズラさんのカルテを手に取る。

 しかし、中を見るより先に、アヅキさんに取り上げられてしまう。

「個人情報だ。不謹慎だぞ」

「すみません……」

「お前も手を動かせ。絵で刻印が潰れてるとも限らない」

「刻印は平気でしたよ。でも、琥珀の絵柄が多くて、何だか不吉です……」

「呪術とは、そう言うものだ。お前の刻印も、黒魔術に片足を突っ込んでいるだろう。バレていないとでも思ってるのか? 」

「……気のせいですよ」

「なら、どうして鉄の匂いがする」

「彫刻刀が金属だからですかね? 」

「指を切った勢いで、自分の血を使っただろう。最大級の禁忌だろうが」

「なんだか、もったいなくて……」

 説教を食らっている間に、ウズラさんは下書きを終えていた。

「ニル」

「うん。やってみる……」

 僕の刻印と、ニルの祝福の力で、愚者を狼に例えた物語が、絵柄として焼きついていく。

 しかし、完成した大アルカナを見て、ニルは肩を落とした。

「思ってたのと違う……」

「……全部、木の色ね」

 マシロさんは寂しそうに、放られた木片に触れる。

 すると、にわかに地脈の魔力が溢れ出し、絵柄の内に溜まり、いろとりどりの輝石として結晶化した。

「わぁ、綺麗……! 」

 ニルは目を輝かせて、矯めつ眇めつカードを眺める。

「ステンドグラスみたいですね」

「ウズラ曰く、すべて本物の宝石だそうだ」

「まさか、この金装飾も、銀の縁取りも!? 」

「本物だ」

「マシロ、ありがとう!! 」

 ニルは、マシロさんに抱きついて頬擦りをする。

「マシロさんの祝福って、こんなこともできたんですね」

「わたし、何もしてない……」

「……え? 」

 マシロさんは、困惑したように自身の手のひらを見つめていた。

「……頼むから、暴走はやめてくれよ」

「大丈夫。私は、無能の奴隷だもの」

「こんな無能があってたまるか! 」

 アヅキさんは、ひとり頭を抱える。

 その横で、ニルは楽しそうに尻尾を振っていた。

 木製の大アルカナが完成すると、すぐに支度があると言われて、巣を追い出されてしまった。

「どうして、僕だけ……」

 手帳に書き物をしながら待っていると、アヅキさんが飛んでくる。

「まだ目を開くなよ」

 僕は導かれるままに、敷物の上に座る。

「いいわ」

 マシロさんの声に、瞼を開く。

 すると、狼の魔女と目が合った。

「きれい…………」

 すべてを忘れて、ひたすら見蕩れる。

 大きな魔女帽子から、先焦げた耳がちょこんと顔を出していた。つばには白いレースがあしらわれていて、弧を描くように垂れた宝飾が光を屈折させて、虹色に輝いている。

 しかし、ニルの前には、到底敵わない。

「……あんまり見るな」

 照れる顔には、薄く口紅が乗っていた。

 ローブの中で、尻尾が切なそうに暴れている。

 帽子の飾りが擦れると、凛と澄んだ音色が響いた。

 天幕に光を遮られた空間は、狂おしいほどの神秘で満ちていた。

「……変じゃない? 」

「うん」

「……それだけ?」

「化粧はいらなかったかな……」

 僕が鼻を摘むと、ニルも袖で顔を拭く。

「お前らなぁ……」

「二人らしいわ」

 マシロさんたちは、呆れたように笑う。

 それにつられるように、僕たちもくすりと笑った。

「ありがとう。もう大丈夫だ」

 ニルの昏い瞳に、微かに光が戻った。

 未来を視る目は、まだ細くて、弱々しい。

 けれど、俯くことなく前を向く姿は、僕が憧れた狼そのものだった。

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