枷
リムリス聖教国 某所――
「アリシアよ、おるか?」
重苦しく幾重にも鉄板が重なった扉を開け、部屋の主人を訪ねる一人の男性。
部屋へ一歩入ると、足の裏からヌチャっとした気持ちの悪い感触が伝わってくる。
そこには紙屑やブチまけられた様々な色のインクが床一面に広がっている。
「あぁん?何勝手に入ってきてんだこの豚が。殺してやろうか?」
紙屑やインク以外にも、書物や衣服が散らかった一室に、その少女は居た。
「相変わらず口が汚いな。お前には聖女である自覚が無いのか?」
彼女の名前はアリシア。リムリス聖教国の最大の権力を握る一人であり、聖女と呼ばれている。
「教皇であるてめぇが豚だからな。聖女は売女以下のクソ女だよ」
その聖女であるアリシアの下へやって来たのは、リムリス聖教国の最高権力の象徴とも言われる教皇ビランゼ・ノーム。
そして南方諸国を束ねる連合国の盟主でもある。
「話はまだ聴いてないだろ?リフ大森林遠征部隊が全滅した。聖女代行のヘンリエッタは行方不明。ヌアザ・ナレグは死亡した。他の連合国軍の兵達も全軍行方不明だ」
ガタッと何かが落ちる大きな音。
ビクッとビランゼは肩を震わし、音の出所を探すと、アリシアの前にあったキャンバスが地面に倒れている。
「エッテは……死んだのか?」
聖女とは思えぬドスの効いた声。
声の主はもちろんアリシアで、彼女の豹変ぶりにも慣れているビランゼは冷や汗を垂らしながらも冷静に返す。
「我が神聖部隊は駐屯地の守りを任されていた。森には入っておらん。だが駐屯地の周囲数十kmを探しても人っ子一人見つからん。死体は見つかってはいないが、死んだと思った方がお前の為かとも思ってな」
ビランゼが言い終わると沈黙が部屋を支配する。
だがその沈黙もカタッとアリシアが筆を置き破られる。
「……そうか。で?てめぇは何しに来やがった?わざわざエッテが死んだことを伝えに来たわけじゃねぇんだろ?クソ豚は自分の欲望のためにしか動かねぇからな」
射抜くような視線でビランゼを睨むアリシア。
アリシアの殺意が篭ったその視線にビランゼは一瞬たじろぐが、なんとかすぐに立ち直る。
「400回目の実験も失敗に終わった。亜人共のストックも尽きかけている。またお前の力を借りたい」
ヒュンとビランゼの顔の横に何かが通り過ぎた音がした。
ビランゼは恐る恐る振り向くと、筆が壁に刺さっている。
「ひ、ひぃ!!」
ビランゼは尻餅をつくように倒れ、アリシアに向けられた殺意に怯える。
「ゴミが。何のためにラテール滅ぼしたと思ってんだ?あぁ?どっかの豚がマス掻きながら餌を貪ってるいるうちに誰が苦労したと思ってんだ?てめぇなんか居てもいなくても聖国は回るんだよ。何もかも失敗しやがって。本当に豚箱に入れてやろうか?」
怯えるビランゼに畳み掛けるようにドスの効いた声で迫るアリシア。
その瞳は黒く濁っており、まるで聖女と呼べる存在には見えない。
「いいか?次はアタシがやる。生贄どもを用意しておけ。てめぇらの邪神とやらは使えねぇみたいだからな?女神様とやらにアタシが直接お願いしてやるよ」
ドスの効いた低い声から一転、高く小さな子供のような声でビランゼに囁くアリシア。
ビランゼは恐怖に慄き粗相をしてしまうが、目の前にある狂気に満ちた顔から目を離すことができず、自身の失態に気付けない。
「きゃは!てめぇはエッテをやった奴を探せ。地獄の果てまででも追いかけて殺し尽くしてやる。いいか?てめぇの命を賭けろ。てめぇが死んでも探し出せ。絶対だ。もし見つからなかったら分かってるよなぁ?あぁ?」
一言一言で声のトーンが変わり、まさに狂気の再現者のようなアリシア。
あまりの恐怖にビランゼは頷くことしかできず、豚のように膨れた顔には涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっている。
「それになぁ?お前らが"連合"まで作ってこそこそやってるアレさぁ、今時古いんだよ。しかも一度も成功してないしなぁ。どうだ?アタシがアレンジしてやろうか?いっそ腐りきったこの国も滅ぼしてみるか?それも楽しそうだろ?きゃは!」
目の前で幼子のように笑うアリシア。
ビランゼは這うようにして距離を取る。
「ど、どこまで狂ってるんだ…。私はただ本当の……」
ドンッとそれまでに無かった大きな音がビランゼのすぐ横で響く。
そこにはアリシアが足を踏み鳴らし、転がるビランゼの隣に立っていた。
「てめぇから言い出した事じゃねぇか……。今更降りるなんてこと、言わねぇよなぁ?」
恫喝にも似たそれに、ビランゼはただ頷くことしかできなかった。
リムリス聖教国は二人の最高権力者がいる。
しかしこの光景だけを見れば、聖国と呼ばれる国の支配者はただ一人。
狂った聖女が支配する、狂った世界。
枷の外れた狂った聖女はもう止まらない。
「それになぁ?お前たちはアタシを閉じ込めて好き勝手やってるみたいだが、アタシはお前たちが何をしているか全て知っているんだぞ?エッテをアタシに黙って連れ出したお前たちを許さなくてもいいよなぁ?んん?」
いつ間にかビランゼの耳元に顔を寄せ、老女のようなしわがれた声で囁くアリシア。
ビランゼの震えていた体が硬直する。
「これ以上アタシの義妹達に手を出してみろ?お前たち全員死ぬより辛い目に合わせてやるよ」
小さな小さな囁くような声。
アリシアはその小さな手に魔力を込めると、動かないビランゼの額に指先で触れる。
何かの模様が一瞬浮かび上がり、すっと消えていった。
「腐ったゴミどもを集めろよ。これからはお前に変わってアタシが歴史を作る番だ」
アリシアが動かないビランゼに命令をする。
するとビランゼは立ち上がり、アリシアに頭を下げる。
「……仰せのままに」
そこには虚ろな目をしたビランゼが立っていた。
「分かったなら早く行け。お前にはエッテを探してもらわなければならない。少しは働いてその肉を削ぎ落としな」
アリシアは満足そうに頷き、自身の操り人形と化したビランゼを部屋から追い出す。
その足元がおぼつかないビランゼの背中を見送り、重苦しい扉を閉めると一つ大きなため息を吐く。
「エッテ……」
誰もいない部屋に響く声。
一言だけその名を呼び、アリシアは小さく詠唱を唱えその場から消えていった。
誰もいなくなったその部屋に残されたのは、ヘンリエッタが描かれた無数の紙の束だけだった。




