鈴の音
その日の夜、駐屯地を守っていた兵達は皆一様に空を見上げた。
一見曇ったように見える夜空は、よく見ると雲ではない何かが蠢いているかの様に見えてくる。
それは駐屯地全体を覆い尽くすかのように広がり、じわじわと精神的な嫌悪感を醸し出す。
あまりの異様な光景に、駐屯地の総司令官のヌアザへ報告へ走ろうとする兵士達。
だが一歩も足は動かず、彼らの体はその場から離れることができなかった。
「おい、何だこれ…体が動かないぞ」
周りの兵達も同様にその場から一歩も動くことが出来ず、次第に体がどんどん鉛の様に重くなっていく。
「明らかに異常事態だ…おい誰か、動け、ないの、か…」
言葉を発することも次第に難しくなり、地面に吸い込まれる様にバタバタと倒れていく。
駐屯地を守る約25万もの兵士達が、全員地面に縫い付けられるまでそう時間は掛からなかった。
チリン―
聞いたことのない軽い鐘のような音が駐屯地に響く。
この誰もが身動きを取ることを許されず、ひれ伏すかの様に地面に額を擦りつけている中で。
チリン―
その鐘の音のようなものは、完全に沈黙してしまった駐屯地の中を移動している様に感じられた。
カラン、コロン―
足音だろうか、またも聞いたことのない独特の音が一定の間隔でゆっくり大きくなり、近付いてくるのがわかった。
カラン、コロン―
チリン―
名も知らぬ若い兵士の側で音は止む。
その周りで倒れている者は、着ている鎧を通り越し、肌にひしひしと正体不明の圧力を感じ本能的な恐怖心が芽生え始める。
それの一番近くにいる若い兵士は失禁してしまったのか、鼻に付く異臭が辺りに充満し始める。
「汝等の頭目は何処え?」
若い女の声だった。
虫も鳴かぬ静か過ぎるこの場で、よく透き通る美しい声。顔は見えずともその声の主が絶世の美女だと自然と分かった。
しかし問い掛けられた若い兵士は返事を返せず、ただ俯せのままピクリとも動くことはない。
「ほら、喋れるようにしたえ。疾く話せ虫ケラ」
唐突に声音が変わる。
先程までの美しい澄み切った声とは打って変わり、それは澱みきった泥の様にドス黒く、聞く者には本能的に聞いてはいけない声と思わせるものに変化していた。
若い兵士はそれでも答えることはできなかった。
彼の心臓は既に、恐怖心と極度の緊張から鼓動することをやめてしまったいた。
「もういいえ」
今度は落胆したような女性の声がしたと同時に、プチっと何かが弾ける音がした。周りの兵士達は何が起こったか分からず、ただその音と周りに漂い出した血の臭いで、何が起こったのかを察した。
「"聖女"とか言う塵の代理がいるらしいえ?知ってる虫はいるかえ?」
女性の問い掛けは更に続いた。
辺り一面の気温が急激に下がり始め、言葉にならぬ圧力が周辺の倒れている兵士達を襲う。
しかし誰も声が出せず、死んではいないが先程の若い兵士と同様に、抑えきれぬ恐怖心からただ沈黙を貫いていた。
「使えぬ虫ケラえ…もうええ。死ね」
プチプチプチっと弾ける音がこだまする。
それらの鳴り止まぬ音を背に、チリンと言う鈴の音を立て女性は去って行った。
聖女代行のヘンリエッタは、自身に宛てがわれた天幕の中で本国へ送る報告書を認めていたところで身動きが取れなくなり、敷かれている白い絨毯の上に倒れこんでいた。
「…これは、魔法?」
だが代行とは言え彼女も聖女候補の一人。魔法攻撃に対する耐性や精神耐性は一般人より遥かに高く、言葉を発することはできていた。
天幕の外からは先程までざわめいていた兵達の声や物音もしなくなり、何かが起こった事は直ぐに分かった。
初めは異変に気付き、外に出ようと立ち上がろうとしたのだが、急速に体が重くなり思う様に動かなくなっていくのが分かった。
結局起き上がる事はできずそのまま絨毯の上で身動きが取れなくなり、固まってしまっていた。
チリンー
天幕の外で綺麗な音が聞こえる。
それは本国にいたときに聴いたベルの音を高音にしたような響きで、どこか懐かしく思えるものだった。
どこか懐かしく安心できるその音は、自分の天幕の外から鳴っている。
そして足音だろうか?カラン、コロンとまた聴いたことのない音。
ベルの響きと共にそれが次第に近付いてくるのが分かる。
ベルのような音からは安心感が生まれているはずなのに、何とも言い難い恐怖心が芽生え、本能が激しく警鐘を鳴らす。
カラン、コロン、カランー
そしてその音は自分の居る天幕のすぐ目の前で鳴り止んだ。
それだけで足音を発している主が自分を探し当てたのだと直感で分かった。小さかった恐怖心が堰を切ったように溢れ初め、体がカタカタと震えてくる。
《灯火》に薄っすらと照らされ、天幕に映る影は人の形をしているようだ。その影は天幕の入り口で立ち止まると動かなくなり、佇んでいる様子だ。
ヘンリエッタはそれを見つめている時間が永遠のように長く感じ、静かな空間で自分の早くなっていく鼓動の音がやけに大きく聞こえた。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
実際1分も経っていない筈なのに、ヘンリエッタは気の遠くなるような時間が経過したように感じていた。
そしてついに、パサッと天幕の布が開かれる音が聞こえた。
チリンー
その音が天幕内で鳴る。
その音を聴くと、恐怖心が次第に薄れ重くなり動かなくなっていた体が軽くなっていくような気がした。
だがそれは錯覚だった。
「みぃ〜つけたァ」
女性の声だった。これまで出会った女性たちのなかでも一番綺麗な声だと思う。
だがその声に乗せられた感情はドス黒く、嘲笑うかのような感情が込められていた。
そして憔悴しきっていた心はその声に耐え切る事ができなかった。
「あ…あぁ…」
自分の股間から暖かい液体が流れていくのが分かり、白い絨毯を黄色く染め上げていき、すぐに鼻をつくツンとした臭いが天幕の中で漂い始めた。
「ひひひひ、漏らしたかえ?脅かしてごめんえ」
チリンー
再び発せられた声には、先ほどの精神を削るような嫌悪感は綺麗に無くなっていた。
ゆっくりと女性はこちらへ歩いてくる。女性の姿が灯火で薄暗く照らされ、その容姿が明らかになっていく。
その姿は同性から見ても、大陸では珍しい黒髪黒目の絶世の美女だった。着ている物は見たことがない生地で縫われていて、似たような形状の服を帝国のマリウスが着ていたことを思い出す。大きく開かれた胸元も相まって妖艶で美しく、優雅に歩いてくる様に失禁したことも忘れ見惚れてしまう。
「怖がらなくてもいいえ?汝は殺さぬ」
女性はヘンリエッタの汗で張り付いた前髪を、怯える小さな赤子を母があやすように優しく撫で言葉を紡ぐ。
「その代わり、汝には悪いが野暮用には付き合ってもらうえ。ひひ、すぐに終わらすから大人しくウチ側に居るとええ」
ヘンリエッタは抵抗することも無く、女性に抱きかかえられ連れて行かれる。
「さて、神を騙る虫ケラは何処かえ?ん?……あぁ、そこかえ」
ヘンリエッタは自分を抱える黒髪の美女が誰を探しているのかすぐに分かった。
発言や状況的にも明らかにこの女性は味方ではないと言うのは理解しているのに、その女性が探している相手の場所を何故か、微かに動く指で指してしまっていた。
「汝は…お前さんは良い子だえ。待遇を少し考え直しておくえ」
女性は自分を見下ろしそう言って優しく微笑むと、カラン、コロンと女性が歩くたびに聞こえる独特の足音を響かせながら一つだけ雰囲気の違う天幕に近付いていく。
抱えられたままその天幕の前に辿り着く。
すると何の前兆も無く、その天幕が吹き飛んだ。
そしてそこには駐屯地防衛総司令官、司教総代理でもあるヌアザ・ナレグが、全裸の姿のままで奴隷の女性を組み敷き身動きが取れず固まっていた。
「訂正するえ。虫ケラを率いるのは虫ケラではなく醜い豚だったえ。家畜の方がまだ小綺麗だえ」
言葉が言い終わるのと同時に、またしても何の前触れもなくヌアザ・ナレグの体が歪み始め、すぐにプチっと潰れるような小さな音と共に破裂していた。
辺りにヌアザ・ナレグだったものが散乱し、小さな赤い水溜まりが出来上がっていた。
ヌアザのすぐ近くにいた奴隷の女達は悲鳴を発する事も出来ず、ヌアザの血を至近距離で大量に浴び、気絶してしまっている。
「人間の女え?本当は殺さないといけないんやけども………まあウチにも良心はあるえ」
気絶した奴隷の女達を眺め呟く黒髪の美女。
すると音もなく地面から現れた影の中に、女たちは溶けていくかのように吸い込まれ消えた行った。
「後は虫ケラ共を駆除したら帰るえ。お前さんにはもう少し付き合ってもらうえ?」
ヘンリエッタはその言葉を聞く前に、奴隷の女達と同様、ヌアザが破裂した場面で既に気を失っていた。




