聖女代行
《灯火》によって薄暗く照らされる天幕の中。
一人の少女が膝をつき、祈りを捧げるように両手を組んでいる。
時刻は深夜。
後数時間後には連合軍の第一陣がリフ大森林へ侵攻する予定となっている。
「…果たしてわたくしに務まるのでしょうか」
少女は白いベールに覆われた隙間から、聖母マリア像のような、小さな欠けた女性の像を目の前に呟く。
少女の名はヘンリエッタ。聖教国教皇と同等の権力を持ち、民衆や教徒、年齢層、国内外からも圧倒的な支持率と人気を持つ特別な力を持った存在、"聖女"の代行者である。
「また多くの血が流れます。…神よ」
ヘンリエッタは聖女代行として聖教国の信徒遠征十字軍を率いて連合軍に合流している。
率いていると言っても彼女に指揮権は無く、実際に総指揮を執るのは軍事部司教総代理のヌアザ・ナレグと言う金と権力に塗れた豚のような男だ。大層な肩書きと共に今回の大遠征に赴いたこの男は大軍を率いた事など一度もない。精々国内の異教徒狩りを指揮したことがあるくらいだ。現在の大司教の腰巾着のような男でおべつかを使う才能はあるが、軍事に才があるとは思えない。
そして今回リフ大森林侵攻部隊として連れて来た信徒の騎士達は、そのほとんどが5年前の無茶苦茶なこじ付けから始まった、ラテール共和国侵攻戦で戦っていた母国の英雄達。
聖教国内では皆英雄的な扱いをされているが、実質的な戦闘など行ったことのない格好だけの素人集団であることをヘンリエッタは知っている。
いや、そもそも聖教国にまともな戦闘をした事のある軍人は数える程しかいない。
「今の教皇は欲に塗れ過ぎています。共和国を貪った後も神聖な大森林を侵そうとするなど…」
普段絶対に言ってはならない事をポロっと溢してしまうヘンリエッタ。
聖女の予備である彼女はいつでも替えの利く存在で、不用意な発言が周囲に漏れるとこの世から消え去ることになる。
幸い誰にも聴かれた様子も無い。日中常に慣れない行軍を続けていた彼女は、瞼の重さに気付くと備え付けられた豪華なベッドへ身を投げた。
戦争や戦闘に関してずぶの素人である彼女でも、今回の遠征は無茶とも言えるリフ大森林制圧の内容に行き先の見えない不安を覚える。聖教国では"聖戦"と銘打たれたラテール共和国侵攻戦のように立ち回りだけでどうにかなるとは思えない。
…ですがわたくしには口を出す権限はありません。せめて将兵の無事を祈るくらいしか…。
もはや聖教国は後戻りできない所まで来てしまっている。ラテール共和国を滅ぼしたあの時から既に賽は投げられている。
ここまで来てしまったからには聖女代行である自分も一連托生である。
聖教国を発ってからぐるぐるとループしていた思考は、ヘンリエッタが短い眠りについたことによりそこで停止した。
「出陣である!!」
リフ大森林への侵攻の合図は、ヘデルベルク王国軍大森林方面軍総司令官のベルム将軍の合図により始まった。
第一陣として侵入する中央諸国軍と共和国滅亡後に連合に参加した中小国の将兵が不安を拭えない様子で森へ列を成して向かっていく。
「せめて弾除けになって貰わんとな」
ザルディアス帝国大森林制圧軍の副将軍として参加しているマリウス・ライゼルは、人目を憚らず言葉を発する。
聞こえていた周りの帝国軍将兵は薄く笑うだけで騒ぐ者はいない。
皆内心ではマリウスと同じ事を考えているからだ。
「やつらが第一拠点を森を20km進んだ位置で構築する。それが確認でき次第我々も突入するぞ」
アスバ将軍が馬上で頬を赤く染めながら隣のマリウスへ作戦を伝える。
魔導士部隊が土魔法によって進路を確保し進んでいく。そして20km先に"遠話の水晶"の第一中継地点となる拠点を魔導士と工兵が構築し、さらに森の奥へと進んでいく計画とマリウスは事前に聞かされている。
「…爺が、朝から酒とはいいご身分だ。いざという時に役に立たなかったら俺は真っ先にてめぇを切るからな」
「やれるもんならやってみるがいい。それで私が死ねば貴様が指揮を取ればいい」
はっはっは!とマリウスの上官に対する無礼すら笑い飛ばすほど上機嫌なアスバ将軍。帝国軍のこの一部だけ他の軍には無い余裕が見て取れる。
「アスバ将軍」
不意に声を掛けられアスバ将軍の笑いが止まる。
アスバ将軍とマリウスが振り向いた先には、白馬に乗った聖教国の司祭総代理、ヌアザ・ナレグが聖女代行のヘンリエッタと共にやって来ていた。
「おや、聖教国のですな?帝国の陣中に何用で?」
挨拶をしに来たことは明白であるのにアスバ将軍は態とニヤニヤとからかうようにヌアザに問いかける。
ヌアザは一瞬怒りの表情を見せるが直ぐに取り繕い、気持ちの悪い笑みをアスバ将軍に向ける。
「いやいや、用などと言うほどでもありませんがね?再び連合の一員として共に戦う帝国にはこうして挨拶をしておこうと思いまし」
「おい、あんた。"聖女"はどうした?」
唐突にヌアザの言葉を遮ったのはアスバ将軍の副将、マリウスだった。
「せ、聖女様ですか?聖女様なら」
ヌアザが顔を顰めマリウスに答えようとするが。
「てめぇに聞いてねえよ。豚は黙ってろ。殺すぞ?」
初対面の若造に聖教国なら無礼打ちをしても構わないほどの言葉を投げつけられたヌアザは顔を真っ赤にする。
だがそんな様子も無視するかのようにマリウスは続けた。
「お前は誰だ?何故この場に聖女がいない。ラテールの時は聖戦だー!なんて言ってタダ飯を食らってたあの威勢がいいだけの売女はどこだ」
「っ!」
その言葉はヌアザと共に訪れていたヘンリエッタに投げかけられていた。
ヘンリエッタは苦虫を噛み潰したかのように顔を歪めるが、白いベールが隠しているためにその表情はマリウスには見えない。
「聖女様…アリシア様は、火急の用件が入り…」
「森の制圧より大事な用?なるほどな。てめぇらは捨て石か」
「き、貴様っ!!無礼が過ぎるぞ!本国から正式に帝国には抗議を」
マリウスの狼藉に堪え切れなくなったヌアザが叫び出す。
だがそれは予備動作も無くヌアザの首元へ突きつけられた剣によって再び遮られた。
「黙れと言ったよな?豚は言葉も分かんねぇのか?あぁ?」
「ひ、ひぃぃ!!」
その場にいる者は言葉を発する事も出来ずに眼の前で起こった凶行を見ていることしかできなかった。
本来ならばヌアザを守護する立場の衛兵ですら、凶行が起こった後でも動けなかった。
「お、お待ち下さい」
誰一人言葉を発する事のできない場で、声を上げたのは聖女代行のヘンリエッタだった。
「此度のリフ大森林への遠征はわたくし、ヘンリエッタがアイリス様の代弁者として随行しております。帝国の"紫焔"マリウス殿ですよね?お噂は予々…」
「ほぉ…。ただの予備かと思えば中々じゃねぇか。どこぞの売女よりは役に立ちそうだ」
マリウスはヌアザに突き付けた剣を引き、ヘンリエッタに近付いていく。
「ヘンリエッタと言ったな?お前は何ができるんだ?」
「えっ?」
マリウスの唐突な質問にヘンリエッタは答えに窮する。
「だからてめぇは態々帝国より遠い説法の国から来たんだろ?代弁者とかなんかとか言ってたが、何を代弁するんだ?森の中でお前に何ができるんだ?」
ヘンリエッタはマリウスの質問に答える事ができない。ヌアザと同様に大層な肩書きを貰いこうして遠征に付いてきたが結局は聖教国の演出に過ぎず、お飾りである事には変わりない。
だからマリウスに返せる言葉が見つからなかった。
「ふん。まあいい。そこな腰抜け共とお前は違うことは分かった。精々死なないように立ち回るといい。聖教国のお家芸だろ?」
マリウスは言うだけ言うとアスバ将軍の元へ戻っていった。
「うちのがすみませんなぁ、ヌアザ司祭総代理。聖女代行様も無礼をお許し下さい。ただの若造の悪ふざけですからなぁ。寛大な心で持ってお許し下されば幸いです」
「よくもまぁ抜け抜けとっ!!悪ふざけで済むものか!この野蛮な帝国の犬め!この事は本国へ伝え正式に帝国へ抗議させて貰うからな!!」
喚くヌアザを横目に、マリウスは森の中へ侵入を続ける第一陣を眺める。
その様子は、前人未踏の地へ踏み入れる事に不安を抱く者や、欲に溺れ皮算用で胸を膨らませる者など様々であった。
ここに南方諸国の歴史上、初のリフ大森林制圧作戦が開始された。




