終章
朝起きたら、しとしとと雨が降っていた。
決して豪雨ではないが小雨でもない。多分一分でも外にいればびっしょりになるだろうし、空は雨さえ降れば雨量関係なく鉛色に姿を変えてしまう。鉛色という色はどんよりと重たく、人を憂鬱な気分にさせる色だ。だから俺が思うに、人に不安を植え付けるのが一番得意なのはきっと雨だ。俺もほんの半年前までは、空を見て酷く憂鬱な気分になっていた。
だけどそれは、本当は人が自分自身の過去を否定した時に初めて植えつけられるのだ。
人間ってのは、読むのが億劫な一冊の本に似ている。
皆一人一人に一冊ずつ与えられる唯一の本で、どんな形をしているのか、どんな背表紙を持っているのか、またどんな物語かあるのか――それは解らない。ただ解るのは、みんな読み方は同じだという事だ。
最初の一頁は、皆が慎重に捲る。そして二頁目は一頁より軽く捲る。更に三頁目からはもっと早く捲り、四頁目からは飛ばし読みを始める。そしてそのまま二十頁辺りまでぱらぱらと進むと、ふと手が止まる。不安になるのだ。
物語の内容に奇妙な憂鬱を覚え、本当にこの読み方で良かったのかと躊躇う。
そうして漸く本のタイトルを見、そこで――
しでかした事の重大さに、人は戦慄する。
――タイトル、『人生』。
人はその本を一度だけ読むことが出来るが、二度読むことはできない。たった一度だけしか本を開くチャンスがない。
きっと人は、気付いたからには飛ばし読みの恐ろしさを知り、一頁一頁大切に読み進めるようになるだろう。そしてこれまでの飛ばし読みを心底に悔いるはずだ。その悔いる事が必要なことで、それまでの二十頁があるからこそ、人は続きの大切さを知る。
だとすれば。それまでの飛ばし読みだって捨てたもんじゃない。確かに何て無駄をと思うかもしれないが、その無駄がなければ今の自分は無い。過去というのは自分を形作った物に他ならず、それを否定すると言うことは今大切に思う自分自身をすら否定することと同じだ。赦すことは出来なくても、受け入れることは必要なのだ。
俺は雨が嫌いだった。そしてそれには原因があり、それを全て受け入れた。
人を傷つけた自分を赦すことは出来ない。だがその自分を受け入れることは出来る。
だからそれで、いいと思う。
俺は今、雨がそんなに嫌いではない。大雨が降ると仕事は増えるし外には出にくいし、それに家の中もじめじめして良いことなんか全くない。だが、俺は一つ気がついた。
雨ってのは結構綺麗なのだ。一つ一つがぽつぽつと物に当たる様、透明な容器に弾いて光る様、窓に当たる滴が繋がり、お互いを引き合いながら下へ下へと流れていく様。――どれも一瞬目を奪うほどに力を持つ。
それを前に憂鬱になるのは、あまりに勿体ないだろう。
俺はそれを教えてくれた先生に、とても感謝している。先生が居なければ気付かなかった事だ。
――ただ、実は今、俺は一つ先生に不満がある。
先生は頼りになるし話も聞いてくれるし、少し変だがとても優しい。だが。
先生は俺の思考の中に入り過ぎるのだ。何をしていてもいきなりひょこりと出てくる。
それが妙に慌ててしまうので、出来れば止めて欲しい。
勿論、どうしてもとは言わないけれども。
まぁとりあえず。
次に会った時、苦情でも言ってみようと思っている。
思ひつつぬればや人の見えつらん
―――夢と知りせば覚めざらましを
<了>




