第四章「夏の夜はドキドキ肝試し!」
二日目は、海を離れて少しだけ丘の上へ。
バーベキューにキャンプファイヤー、そして最後は定番(?)の肝試しです。
楽しい一日……のはずだったのですが、直人にとっては少しだけ、自分自身の変化と向き合う一日にもなります。
それでは第四章、よろしくお願いします。
翌朝。
目を覚ました僕が最初に思ったことは、足が重い、だった。
「うぅ……」
布団の中で両足を伸ばすと、太もものあたりがじんわりと痛む。
昨日は朝から海で泳いで、ビーチバレーをして、スイカ割りをして。
知らない男の人に声をかけられて、そのあと慎太郎と夜中まで話していた。
思い返してみると、臨海学校の一日目にしては、あまりにもいろいろありすぎた気がする。
「直人、起きてる?」
隣の布団から彩香の声がした。
「起きてるけど……身体が動かない」
「昨日、あれだけ騒いでたらね」
彩香はすでに布団から出て、鏡の前で髪を整えていた。
旅館の浴衣ではなく、今日は白いTシャツに淡い色のスカート姿だった。
他の女子たちは、もう朝食を食べに行ったのか。
「彩香は平気なの?」
「私は直人みたいに、朝からずっと全力で走り回ったりしてないから」
「そんなに走り回ってないよ」
「更衣室を出るなり猛スピードで海へ飛び込んでいった人が言っても説得力ないわよ」
僕は布団の上に起き上がり、枕元に置いてあったスマートフォンを手に取った。
時刻は七時を少し過ぎたところ。
窓の外はすでに明るく、薄いカーテンの向こうから夏の日差しが差し込んでいた。
「そういえば、直人」
まだぼんやりしている僕を見て、彩香がニヤリと笑った。
「……なに?」
「昨日、寝言言ってたわよ」
「えっ?」
一気に目が覚める。
「うそ」
「本当」
「なんて?」
「『それは僕のお肉だー!』って」
「言ってない!」
「二回くらい言ってた」
「絶対うそ!」
「残念、本当です」
彩香は楽しそうに笑う。
「誰と戦ってたのよ」
「知らないよ!」
「そんなにお肉が好き?」
「好きだけど!」
「認めるんだ」
「……あ」
しまった。
彩香は肩を震わせながら笑っている。
「朝から笑わせないで」
「僕じゃなくて彩香が言い出したんでしょ!」
◇
朝食を食べ終えたあと、僕たちは旅館の広間へ集められた。
前に立った先生が、今日の予定が書かれた紙を広げる。
「午前中は自由時間だ。ただし、海へ入るのは禁止。昨日みたいに勝手に遠くまで行くなよ」
先生の視線が、なぜか僕のところで止まった。
「どうして僕を見るんですか?」
「自分の胸に聞いてみろ、中村」
周りから笑い声が上がる。
僕だって、別に好きで遠くまで行ったわけではない。
「昼前になったら、バスで丘の上の施設へ移動する」
「丘の上の施設?」
「何かあるね、すっごい大きな宿泊施設」
「そこで昼食は班ごとのバーベキュー。そのあと夕方からキャンプファイアー、夜は肝試しだぞ」
「おおっ!」
男子の方から歓声が上がった。
僕も思わず身体を乗り出す。
「バーベキュー!」
「そこに一番反応するのね」
隣に座っていた彩香が言った。
「だってお肉だよ?」
「昨日の夢でも食べてたらしいものね」
「それは内緒にしておいてよ!」
僕が抗議すると、彩香は肩をすくめて、また少し笑った。
先生の説明が終わると、広間のあちこちで生徒たちが立ち上がる。
午前中の自由時間は、旅館の周辺で過ごしていいらしい。
「今日はどうするの?」
彩香に聞かれ、女子たちは少し考えた。
「とりあえず外に出たい」
「あんた、また走り回る気?」
「今日は走らないよ。たぶん」
「最後の一言が信用できないのよ」
僕たちは荷物を部屋に置き、必要なものだけを持って旅館の外へ出た。
◇
昨日ほどではないけれど、朝から強い日差しが降り注いでいた。
旅館の前から少し歩くと、潮の匂いを含んだ風が吹いてくる。
海岸へ続く道には、僕たちと同じように自由時間を過ごす生徒たちの姿があった。
水着姿ではないので、昨日とは雰囲気がまるで違う。
「海に入れないと、ちょっと物足りないね」
「昨日あれだけ泳いだのに?」
「眺めるだけなんて、もったいない気がして」
僕は道の先に見える青い海へ向かって歩いていく。
砂浜まで降りることはできたけれど、先生に海へ入るなと言われているので、波打ち際から少し離れたところを歩く。
昨日僕たちがビーチバレーをしていたあたりには、朝早くから遊びに来た家族連れがいた。
遠くではサーフボードを抱えた人たちが海へ入っていく。
「昨日よりだいぶ静かね」
彩香が海を見ながら言った。
「朝だからかな」
「昨日は直人がずっと騒いでいたからじゃない?」
「彩香、僕のせいみたいに言わないでよ」
「半分くらいは直人のせいだと思うけど」
後ろから声がして振り返ると、慎太郎が歩いてきた。
黒いTシャツにハーフパンツという、いかにも夏らしい格好だ。
「慎太郎」
「おはよう」
「おはようございます」
隣には雫ちゃんが並んで歩いていた、今日も淡い色のブラウスにスカート姿だ。
「雫ちゃんも一緒だったんだ、おはよう」
「あぁ、来るときそこで会ってさ」
「そういえば慎太郎、朝ごはんのとき、いなかったよね?」
「男子の方にいたよ」
「気づかなかった」
「お前、朝から肉がどうとか騒いでたじゃん」
「聞こえてたの?」
「広間中に聞こえてた」
慎太郎が笑う。
僕は少しだけ恥ずかしくなり、海の方へ顔を向けた。
昨夜、慎太郎と話したことを思い出す。
僕が男の子だった頃のこと。
女の子になってからのこと。
全部つながっているのに、周りにはその途中が見えていないように感じること。
慎太郎は、分からないと言った。
それでも、直人は直人だと思っている、とも言ってくれた。
昨夜はあんなに真剣な話をしたのに、朝になれば慎太郎はいつもと変わらない。
僕も、いつも通り話すことができる。
それが少しだけ安心した。
「そういえば、今日は肝試しだって」
僕が言うと、慎太郎は海を見たまま答える。
「聞いた」
「慎太郎、怖い?」
「別に」
「僕も全然怖くないよ」
彩香が僕を見る。
「そう言う人ほど、いざ始まると大騒ぎするのよね」
「幽霊なんているわけないじゃん」
「昨日まで男の子だった人が女の子になってるのに?」
「それとこれとは別だよ!」
「説得力ないな」
慎太郎まで笑った。
雫ちゃんは僕たちの会話を聞きながら、少し不安そうに言う。
「私、暗いところは苦手かもしれません……」
「大丈夫だよ。先生たちが脅かしてるだけだから」
「直人が一番驚きそうだけどね」
「だから怖くないって!」
僕たちは海岸沿いをしばらく歩き、近くの売店へ入った。
店先には浮き輪やビーチサンダルが並び、奥の冷蔵ケースには飲み物やアイスが入っている。
「アイス食べようよ」
「これからバーベキューなのに?」
「まだ時間あるし」
「朝ごはんも食べたばかりでしょ」
「甘いものは別だよ」
彩香に呆れられながら、僕は青いソーダ味のアイスを買った。
慎太郎は何も買わず、雫ちゃんは少し迷った末にバニラの小さなカップアイスを選んだ。
店の前の日陰に並んで座る。
「雫ちゃん、午後のバーベキュー楽しみ?」
僕が聞くと、雫ちゃんはスプーンを持ったままうなずいた。
「はい。みんなでやるのは初めてなので」
「僕も学校でやるのは初めてかも」
「直人は絶対、肉しか焼かないでしょ」
彩香が言う。
「そんなことないよ」
「じゃあ野菜も食べる?」
「野菜を食べるかどうかと、焼くかどうかは別の話じゃない?」
「もう答えが出てるじゃない」
慎太郎と雫ちゃんが笑う。
海から吹いてきた風が、少しだけ火照った頬を冷やした。
昨日はいろいろあったけれど、こうしていると本当に普通の臨海学校だった。
友達と海を見て、アイスを食べて、どうでもいい話をする。
女の子になったことも、昨日、泣いてしまったことも、今だけは少し遠く感じる。
◇
昼前になると、僕たちは旅館へ戻り、荷物を持ってバスへ乗った。
行き先は、海岸から少し離れた丘の上にある大きな研修施設らしい。
僕は窓際の席へ座り、その隣に彩香、通路を挟んだ向こう側に慎太郎と雫ちゃんが座った。
バスが出発すると、さっきまで歩いていた海岸が少しずつ遠ざかっていく。
住宅地を抜け、坂道へ入る。
「結構上るね」
僕は窓の外を見ながら言った。
道の両側には緑が増え、時折、遠くに海が見えた。
バスがカーブを曲がるたび、さっきまで見えなかった景色が一気に広がる。
「うわぁ!」
思わず窓に顔を近づける。
丘の下に町が広がり、その向こうには青い海が見えた。
昨日まであんなに近くにあった海が、今はずっと遠くにある。
「昨日いた海って、あんなに広かったんだ」
「そりゃ海だからね」
彩香は呆れながらも、同じように窓の外を見ていた。
通路の向こうでは、雫ちゃんがスマートフォンを構えて景色を撮っている。
「ちゃんと撮れた?」
僕が聞くと、雫ちゃんは画面を確認してから答えた。
「少しだけ、バスの窓が映っちゃいました」
「それも旅行っぽくていいんじゃない?」
慎太郎が言う。
やがて坂道の先に、大きな建物が見えてきた。
広い敷地。
緑の芝生。
その奥には、これから使うらしいバーベキュー場も見える。
バスの中が急に騒がしくなった。
「着いた!」
僕が立ち上がろうとすると、彩香に腕を引かれる。
「まだバス動いてるから!」
「ご、ごめん」
「本当に子供みたいね」
バスが駐車場へ入り、ゆっくりと止まる。
扉が開いた瞬間、強い日差しと、丘の上を吹き抜ける風が車内へ入ってきた。
僕は荷物を持って外へ降りる。
目の前には、青い空と緑の芝生。
そして少し離れたところには、すでにバーベキューの準備が始まっていた。
「よーし!」
僕は腕まくりをする。
「今日はいっぱい焼くぞ!」
「野菜もね」
すぐ後ろから彩香の声がした。
「……考えておくよ」
「今決めなさい!」
みんなの笑い声が、丘の上に広がった。
施設の職員さんから説明を受けたあと、班ごとにバーベキュー広場へ移動した。
屋根付きの大きな炊事場の隣には、何列ものバーベキューコンロが並んでいる。
先生たちが食材を配り始めると、あちこちから歓声が上がった。
「お肉だぁー!」
僕は思わず身を乗り出す。
牛肉、豚肉、鶏肉、ソーセージ。
その横には、玉ねぎ、ピーマン、とうもろこし、しいたけ、かぼちゃ……。
「……野菜もいっぱいだね」
「今、ちょっとテンション下がったでしょ」
彩香が笑う。
「いや、そんなことないよ」
「顔に書いてあるわ」
班のみんなで手分けして準備を始める。
炭に火を起こす人。
紙皿を配る人。
野菜を並べる人。
僕は迷わずコンロの前へ立った。
「焼く係やる!」
「はいはい」
彩香が苦笑しながらトングを渡してくる。
炭に火が回り始めると、僕は待ちきれず肉を網いっぱいに並べ始めた。
「おおっ!」
ジュウッという音とともに香ばしい匂いが立ち上る。
「最高……」
僕が幸せそうな顔で眺めていると、彩香が後ろから覗き込んだ。
「……直人」
「なに?」
「野菜は?」
「あとで」
「さっきからずっと『あとで』って言ってる」
「まずは肉だよ!」
「バーベキューは肉だけじゃないの」
僕は少し考えてから、離れたコンロを指差した。
「ほらっ!」
「?」
「長谷川くんだって肉ばっかり焼いてるよ!」
突然名前を呼ばれた長谷川涼が、びくっと肩を震わせて振り返った。
「えっ? 俺?」
「ねっ!」
確かに長谷川くんの網にも、肉ばかり並んでいる。
彩香はそちらを見てから、ため息をついた。
「長谷川くんも、ちゃんと野菜も焼きなさいね」
「えぇ……。」
「えぇ、じゃありません」
長谷川くんは頭をかきながら、
「じゃあピーマン置くか……」
と、しぶしぶ野菜を網へ乗せ始めた。
僕は思わず笑ってしまう。
「ほら、長谷川くんも嫌そうじゃん」
「直人」
長谷川くんが僕を見る。
「なに?」
「お前、人を盾にするな」
「だって仲間だと思って」
「勝手に仲間にするなよ」
そのやり取りを聞いていた男子たちが笑い出した。
以前なら、長谷川くんはこういう輪の中へ入ることさえなかった。
話しかけられても、どこか怯えたような表情をして、すぐ離れてしまっていた。
でも今は違う。
普通に冗談を返して、みんなと笑っている。
誰もそのことを口にはしない。
だけど、その変化が少し嬉しかった。
「おい、長谷川」
隣のコンロから慎太郎が声をかける。
「肉、焦げてるぞ……」
「うわっ、マジか!」
慌てて肉をひっくり返す長谷川くん。
その様子を見て僕は笑う。
「人のこと言えないじゃん」
「直人には言われたくねぇ」
「僕はまだ焦がしてないよ」
そう言った瞬間だった。
ジュウウウウッ!
「あ。」
僕の網の肉から勢いよく煙が上がる。
「……焦げてる」
彩香が冷静に言った。
「わぁぁぁ!」
慌てて肉を裏返す。
「真っ黒!」
「直人」
「はい」
「人のこと笑ってる場合じゃなかったわね」
「すみません……」
班のみんなが笑い出した。
◇
「はい、焼けた!」
ようやく最初の肉が焼き上がる。
僕は一番に皿へ取り、
「いただきます!」
と勢いよく口へ入れた。
「熱っ!」
「だから言っただろ」
慎太郎が呆れたように笑う。
「でも、おいしい!」
「ほら、ちゃんと噛んで食べなさい」
彩香が紙コップのお茶を差し出してくれた。
「ありがとう!」
お茶を飲みながら、次の肉を焼こうとすると、
彩香が僕のトングを止めた。
「今度はこれ」
そう言って渡されたのは、玉ねぎ。
「えぇ……」
「えぇ、じゃない」
「お肉が……」
「野菜」
「……はい」
しぶしぶ玉ねぎを並べる。
その様子を見て、雫ちゃんが小さく笑った。
「中村さんって、本当にお肉好きなんですね」
「もちろん!」
「そんなに?」
「たぶん毎日でも食べられる」
「毎日は身体に悪そう」
慎太郎が言う。
「そうかなぁ」
「だから昨日の夢でも肉食べてたんじゃない?」
彩香が言うと、
「えっ、なんの話?」
気になったのか慎太郎が聞く。
「それ、もう忘れてよ!」
「無理」
彩香が即答する。
そのやり取りを聞いていた長谷川くんも吹き出した。
「直人、寝言で肉って言ってたのか?」
「言ってない!」
「藤原さんが証言してたぞ」
「うぅ……。」
みんなが笑う。
なんだか悔しい。
◇
食事が一段落すると、先生が声をかけた。
「食べ終わった班から片付け始めろー!」
「はーい。」
僕たちは紙皿をまとめ、コンロの周りを掃除する。
長谷川くんも自然にゴミ袋を持ち、
「こっち燃えるゴミな」
と男子へ声をかけていた。
慎太郎も、
「炭、まだ熱いぞ。」
と注意している。
誰かが指示を出さなくても、それぞれ動いている。
その様子を見ながら、僕はふと思う。
「なんかさ」
「?」
彩香が振り向く。
「こういうのっていいよね」
「急にどうしたの?」
「学校の教室で話してるときと、こういうところで話すのはみんな違う感じがする」
慎太郎もうなずく。
「まあな」
長谷川くんも、
「確かに」
と小さく笑った。
以前だったら、こんなふうに自然に会話へ入ることもなかった。
でも今は、みんなが気兼ね無く話せている。
それは確かに臨海学校だからかもしれない。
◇
夕方。
日が傾き始める頃、芝生広場の中央に組まれた薪へ火が灯された。
最初は小さな炎だった。
それが少しずつ大きくなり、パチパチと薪が音を立て始める。
「きれい……。」
雫ちゃんが炎を見つめながらつぶやく。
空も少しずつオレンジ色へ染まっていく。
僕たちは火を囲むように座った。
最初は先生の進行でレクリエーションが行われ、みんなで笑いながらゲームを楽しむ。
やがて自由時間になると、それぞれ近くの友達同士で輪を作り始めた。
僕たち四人も自然と同じ場所へ集まる。
火の粉が夜空へ舞い上がっていく。
「こういうの、青春って感じするね」
僕が言うと、
「直人が言うと急に安っぽく聞こえる」
彩香が笑った。
「ひどい」
慎太郎も苦笑する。
しばらく他愛ない話をしていると、近くの女子グループから声が聞こえた。
「ねぇ、中村さんって好きな人いるの?」
突然の質問だった。
僕は少し考える。
好きな人。
好きな……
「リナ=インバースかな」
一瞬、周りが静かになった。
そして次の瞬間。
「違う違う!」
「それ好きなキャラ!」
「恋愛の話!」
一斉に笑いが起きた。
「えっ?」
僕は本気で首をかしげる。
「そういう意味だったの?」
彩香は頭を抱えた。
「昨日あれだけ恋愛の話したでしょうが……」
「そうだけど」
「なんでそこからリナ=インバースになるのよ」
僕は真面目に考えながら答える。
「だって好きな人って言われたから」
「人じゃない!」
また笑いが起こる。
すると、隣から小さな声がした。
「……私も好きです」
僕は振り向く。
「え?」
雫ちゃんだった。
「リナ=インバース」
「本当に?」
思わず身を乗り出す。
「雫ちゃんもスレイヤーズ知ってるの?」
「はい」
照れくさそうに微笑む。
「小さい頃、お兄ちゃんが持っていた小説を読んで……」
「そうなんだ!」
僕は思わず立ち上がりそうになる。
「周りに知ってる人いなかったんだよ!」
彩香は苦笑した。
「あっという間に二人の世界ね」
「だって!」
「はいはい」
慎太郎も少し笑っていた。
僕は雫ちゃんへ身を乗り出す。
「他には? 何が好き?」
「えっと……ロードス島戦記とか、オーフェンとか……」
「えぇっ!」
また声が大きくなる。
「全部好き!」
「本当!?」
「うん!」
まさか雫ちゃんと、こんな話ができるとは思わなかった。
普段は静かで、おとなしい印象しかなかったのに。
「じゃあ休みの日って、そういう本読んでるの?」
僕が聞くと、雫ちゃんは少し考えてから答えた。
「読んだりもしますけど……」
「けど?」
「設定を考えたりしています」
「設定?」
「漫画とかゲームに出てきそうなキャラクターとか……」
僕は目を丸くする。
「キャラクター作るの?」
「はい。」
「絵も描くの?」
「ちゃんとした漫画じゃないですけど……設定画みたいなのを」
僕はさらに驚いた。
「すごいじゃん!」
「そんなことないですよ」
「見てみたい!」
雫ちゃんは困ったように笑う。
「今はノート持ってきてないので……。」
僕は辺りを見回した。
芝生の端には、土がむき出しになっている場所がある。
近くに細い枝が落ちていた。
「あ、これ」
僕は枝を拾う。
「雫ちゃん」
「はい?」
「ここに描いてみてよ!」
地面を指差す。
「えっ?」
「ちょっとだけ!」
「でも……。」
「お願い!」
雫ちゃんは顔を真っ赤にして首を横に振る。
「恥ずかしいです……」
「お願い!」
「中村さん……」
彩香が笑いながら言う。
「直人、押しが強い」
「だって気になるんだもん」
「見てみたいけど」
慎太郎も苦笑している。
しばらく困っていた雫ちゃんだったが、
「……少しだけですよ」
小さくそう言って、枝を受け取った。
僕たちは自然と地面を囲むようにしゃがむ。
雫ちゃんは一度深呼吸すると、静かに地面へ線を描き始めた。
さらさら、と枝が土を削る音だけが聞こえる。
最初は丸。
そこへ髪が描かれ、
首、
肩、
服。
ほんの数十秒。
それだけなのに、地面には一人の女の子が現れていた。
「……」
僕は思わず言葉を失う。
長い髪。
少し大きめのマント。
腰には剣。
シンプルな線だけなのに、ちゃんとキャラクターになっている。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
雫ちゃんは照れくさそうに笑う。
「本当に落書きですから」
「いやいや!」
僕は首を横に振る。
「慎太郎!」
少し離れたところで男子と話していた慎太郎へ向かって手を振る。
「ちょっと来て!」
「ん?」
慎太郎が近づいてくる。
「どうした?」
「これ!」
地面を指差す。
「雫ちゃんが描いたんだよ!」
慎太郎はしゃがみ込み、地面を見る。
「……」
数秒間、何も言わなかった。
「うまいな」
その一言だった。
雫ちゃんは驚いたように顔を上げる。
「え?」
「結城さんって、こういうの描くんだ」
「たまにですけど……」
「同じクラスなのに知らなかった」
慎太郎は本当に意外そうだった。
「こういうキャラクター考えるの好きなの?」
「はい。」
「話とかも考える?」
「少しだけ……」
慎太郎は笑う。
「すごいな」
その笑顔を見て、雫ちゃんも少し安心したようだった。
彩香は腕を組みながら、
「へぇ」
と言う。
「直人と慎太郎が二人ともそんなに褒めるなんて珍しい」
「だって本当にうまいんだよ」
「うん」
慎太郎も素直にうなずく。
「文……」
僕は思わず口を開きかける。
でも途中で止めた。
まだ早い。
なんとなく、そう思った。
雫ちゃんも今は楽しそうに話している。
焦らなくてもいい。
今日はこのままで。
キャンプファイヤーの炎が、ゆっくりと小さくなり始めていた。
◇
やがて先生が前へ出る。
「それじゃあ、次は今日最後のイベントをやるぞ」
周りがざわつく。
「肝試しを始める」
「おぉー!」
男子たちが歓声を上げる。
「施設の裏手に林がある。そこを二人一組で歩いてもらう」
先生は地図を広げる。
「途中にチェックポイントがあるから、札を一枚持って戻ってくること」
「道から外れない」
「走らない」
「懐中電灯は一組一本」
「分かったな?」
「はーい!」
先生は最後に箱を持ち上げる。
「ペアはくじ引きだ。」
教室中……いや、広場中が一気に盛り上がる。
「誰とだろ」
「絶対男子同士は嫌だ!」
「あはは!」
先生が順番に紙を配っていく。
僕も一枚受け取る。
「何番?」
彩香が聞く。
「七番」
「私は三番ね」
慎太郎も紙を見る。
「七番」
「え?」
僕は慎太郎を見る。
「同じ?」
「みたいだな。」
「やった!」
思わず声が出る。
周りから、
「また一緒かよ!」
「仲いいな!」
と笑われる。
「ち、違うよ!」
僕は慌てて手を振る。
「くじだから!」
慎太郎も苦笑する。
「まあ、仕方ないな」
彩香が笑う。
「直人、さっきまで怖くないって言ってたものね」
「もちろん!」
僕は胸を張る。
「幽霊なんているわけないし」
「その台詞、あとで覚えておきましょう」
「なんで?」
「どうせ十分後には悲鳴上げてるでしょ」
「上げないよ!」
雫ちゃんも別の女子と同じ番号になったようで、少し安心した表情を浮かべていた。
長谷川くんも男子生徒と同じ番号になり、
「よろしく」
と自然に話している。
その姿を見て、僕は少しだけ微笑んだ。
先生が時計を見る。
「それじゃあ、一組ずつ五分間隔で出発しろよ」
先頭のペアが懐中電灯を受け取り、林の入口へ向かって歩き始めた。
辺りはすっかり暗くなっている。
昼間あれほど賑やかだった芝生も、今はキャンプファイヤーの残り火が赤く光っているだけだった。
僕は林の入口を見つめる。
黒い木々が重なり、その奥は何も見えない。
昼間なら何とも思わない景色なのに。
夜になるだけで、こんなにも違って見えるものなんだ。
「次、七番」
先生の声が聞こえた。
僕は懐中電灯を受け取り、慎太郎と顔を見合わせる。
「行こうか」
「うん」
僕はまだ、このときは本気で思っていた。
肝試しなんて、全然怖くないって。
僕と慎太郎は、懐中電灯を一本だけ受け取り、林の入口へ立った。
先生が笑いながら言う。
「途中で引き返すなよー」
「引き返しません!」
僕は元気よく返事をする。
彩香が後ろから言った。
「十分後に同じこと言えるかしら?」
「言えるよ!」
「覚えとくわ」
先生が合図を出す。
「それじゃあ、スタート!」
僕は懐中電灯を前へ向け、林の中へ足を踏み入れた。
◇
最初のうちは、まだ平気だった。
木々の間から施設の灯りが見えている。
砂利道もしっかりしているし、虫の鳴き声も昼間と変わらない。
「思ったより普通だね」
僕が言うと、
「そうだな」
慎太郎もうなずいた。
「これなら全然怖くないよ」
「さっきも聞いた」
「本当だって」
僕は笑いながら懐中電灯を左右へ振る。
木の幹。
草むら。
小さな石。
何もいない。
「ほら」
「まあ、まだ入口だからな」
「慎太郎、意外と慎重だね」
「こういうのは油断したやつから驚くんだ」
「なるほど」
僕は納得して歩き続けた。
さっきまで話していた雫ちゃんのことを思い出す。
「雫ちゃん、びっくりしたね」
「ああ」
「同じクラスだったのに、あんなに絵がうまいなんて」
「知らなかったな」
「文研に入ってくれたら面白そうだね」
慎太郎は少し笑う。
「本人が興味あるならな」
「そうだね」
そんな話をしているうちに、いつの間にか施設の灯りが見えなくなっていた。
◇
林の奥へ入る。
木々が頭の上まで覆い、星明かりもほとんど届かない。
懐中電灯が照らす範囲だけが白く浮かび上がる。
その先は真っ暗だった。
風が吹く。
サワサワと葉が揺れる音がする。
ガサッ。
すぐ横の茂みが動いた。
「ひっ!」
思わず肩が跳ねる。
慎太郎が振り返った。
「どうした?」
「い、今なんか動いた」
懐中電灯を向ける。
そこには何もない。
「猫じゃないか?」
「そうかな」
「たぶん」
僕は少し笑ってごまかす。
「びっくりしただけ」
「そうか」
また歩き始める。
でも、さっきより少しだけ歩く速度が遅くなっていた。
自分でも気づかないくらい、ほんの少しだけ。
◇
さらに奥へ進む。
今度は風も止んだ。
虫の声だけが響いている。
静かすぎる。
「……」
僕は自然と懐中電灯を握る手に力が入る。
慎太郎が前を歩いている。
その背中だけが妙に頼もしく見えた。
そのとき。
パキッ。
どこかで枝が折れる音がした。
「っ!」
また身体が反応する。
「直人?」
「……」
「どうした?」
「今の聞いた?」
「枝だろ」
「でも」
「誰か先の組じゃないか?」
「そうかな……」
そう言われると、そうなのかもしれない。
でも。
昼間なら絶対に気にも留めなかった音が、今は妙に大きく聞こえる。
なんだろう。
この感じ。
胸の奥が少しだけ落ち着かない。
◇
慎太郎は歩きながら、ちらりと僕を見る。
昨日までなら。
いや、男だった頃の僕なら。
こういう場所では逆だったかもしれない。
物音がすれば、
「見てくる!」
と慎太郎より先に走り出していた。
怖がるどころか、面白がっていた。
なのに今は違う。
何度も周りを見回している。
強がってはいる。
でも、本当に少しだけ怖いって思い始めていた。
頭では分かっている。
僕は女の子になった。
見た目も声も変わった。
でも、中身は同じはず。
怖いと感じる反応まで変わるなんて。
そんなことは考えたこともなかった。
◇
林はさらに暗くなる。
懐中電灯を消したら、本当に何も見えなくなりそうだった。
僕は思わず立ち止まる。
「……慎太郎」
「ん?」
「お願い、ちょっと待って」
慎太郎が振り返る。
僕は前を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「どうした?」
「なんか……」
言葉が続かない。
怖い。
そう言うほどではない。
でも。
胸の奥がざわざわする。
慎太郎は少しだけ声を柔らかくした。
「ゆっくり行こうか」
「……うん」
その一言だけで少し安心する。
また歩き始める。
その直後だった。
ガサガサガサッ!
すぐ横の茂みから、大きな音がした。
「きゃっ!」
自分でも驚くくらい自然に声が出た。
反射的に身体が動く。
気が付けば、僕は慎太郎の制服の袖をぎゅっと掴んでいた。
◇
慎太郎は少しだけ目を見開いた。
袖を握る、小さな手。
ただ怖くて、無意識に掴んでしまっただけ。
慎太郎は何も言わなかった。
袖を振り払うこともしない。
ただ歩幅だけ少し小さくした。
「大丈夫?」
短くそう言う。
「……うん」
うなずく。
その返事も、少しだけ弱々しかった。
◇
やがて前方に小さな立て札が見えた。
「ほらチェックポイントだ」
慎太郎が言う。
「あ、本当だ」
僕は少し安心して近づく。
立て札へ手を伸ばした、その瞬間だった。
「わぁぁっ!」
物陰から白いシーツをかぶった人影が飛び出してきた。
「きゃあああっ!」
頭が真っ白になる。
身体が勝手に後ろへ飛び退く。
そのまま足の力が抜けた。
慎太郎の腕にしがみついた。
心臓が激しく鳴って収まらない。
呼吸もうまくできない。
「大成功!」
白いシーツを脱ぐと、中から先生が現れた。
先生は大笑いしている。
「先生ぇ……!」
慎太郎も思わず吹き出した。
「直人、大丈夫か?」
でも。
僕だけは笑えなかった。
その場に座り込んでしまった。
立ち上がろうとする。
……立てない。
「え……」
自分でも驚く。
足に力が入らない。
怖かった。
それだけなのに。
こんなになるなんて。
「おい、中村?」
先生の笑顔が少し消える。
「大丈夫か?」
「……」
立とうとする。
でも身体が動かない。
「直人」
慎太郎が僕の前へしゃがみ込む。
何も言わず、右手を差し出した。
「ほら」
僕は少しだけ迷う。
でも。
その手を握った。
慎太郎がゆっくり引き上げてくれる。
ようやく立ち上がれた。
「先生」
慎太郎が振り返る。
「大丈夫です」
「俺が連れて帰ります」
先生も少し安心したように笑った。
「悪かったな」
「やりすぎたか」
「いえ」
慎太郎は札を受け取り、
「行こう」
とだけ言った。
しばらく二人とも黙って歩いた。
施設の灯りが少しずつ近づいてくる。
「……ごめん」
僕が小さく言う。
「なんで謝るんだ?」
「昔は」
少し笑おうとする。
「こういうの、全然平気だったのに」
慎太郎は前を向いたまま歩いている。
少ししてから、
「……やっぱり変わったんじゃないか?」
と静かに言った。
「え?」
「昨日も少し思ったけど」
「見た目だけじゃない」
「直人、少し変わった」
僕は何も言えなかった。
慎太郎は続ける。
「男だった頃のお前なら」
「こういう暗いところでも先に行くタイプだった」
「俺の方が後ろを歩いてた」
その通りだった。
僕は怖いものなんてなかった。
だから。
いつも前を歩いていた。
「でも今日は」
慎太郎が少し笑う。
「逆だった」
「俺がお前を引っ張ってた」
僕は黙ったまま歩く。
「多分さ」
慎太郎は空を見上げる。
「変わってるの、お前自身が一番気付いてないんじゃないか?」
胸が少しだけ痛くなる。
昨日。
星を見ながら話したこと。
心は続いている。
でも。
身体も。
感じ方も。
少しずつ変わっている。
そのことを。
僕はまだちゃんと受け入れられていない。
「……そうなのかな」
慎太郎は少し考えてから笑った。
「でも」
「悪いことじゃない」
「え?」
「今のお前も直人だから」
僕は慎太郎を見る。
「だから」
「俺は別に気にしてない」
施設の灯りが近づいてくる。
広場では次の組が戻ってきていて、あちこちから笑い声が聞こえていた。
彩香は僕たちを見るなり、腕を組んでニヤリと笑う。
「どうだった?」
僕は胸を張る。
「全然怖くなかった!」
その瞬間、慎太郎が吹き出した。
「直人」
「なに?」
「あんな大きな声を出したの、誰だった?」
「あれは不可抗力!」
「悲鳴、こっちまで聞こえてきたけど?」
「聞こえてない!」
彩香も雫ちゃんも笑い始める。
雫ちゃんは少し安心したように言った。
「中村さんでも怖かったんですね」
「違うんだよ!」
僕は慌てて首を振る。
「先生が反則だったの!」
「はいはい」
彩香が笑う。
「だから最初に言ったでしょ」
「……」
僕は反論できず、小さく肩を落とした。
その様子を見て、みんながまた笑う。
僕もつられて笑ってしまった。
夏の夜。
楽しかった臨海学校二日目も、こうして終わっていく。
みんなは肝試しの話で笑っていた。
僕も笑っていた。
でも。
『変わってるの、お前自身が一番気付いてないんじゃないか。』
慎太郎の言葉だけは、なぜか頭から離れなかった。
第四章 完
第四章を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は臨海学校二日目ということで、バーベキューやキャンプファイヤーなど、学生らしいイベントを中心に書いてみました。
また、雫ちゃんの意外な趣味や、長谷川くんが少しずつ周囲と打ち解けている様子など、これまでとは違う一面も入れています。
そして最後の肝試しでは、直人自身も気付いていなかった「少しずつ変わってきたもの」を描いてみました。
次回はいよいよ臨海学校最終日。
今回の出来事が、どのように次へ繋がっていくのか、ぜひお楽しみください。




