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第三章「夏の夜、星空の下で」

海で思いっきり遊んだあとは、旅館での夕食に温泉、そして夜のお楽しみ。


修学旅行や臨海学校といえば、やっぱり外せないのが「恋ばな」です。


直人にとっては、少しだけ長い夜になるかもしれません。


それでは第三章「夏の夜、星空の下で」をお楽しみください。

 先生の号令で、僕たちは海岸をあとにした。


 海の家の前を通り、旅館まで歩いて戻る。


 さっきまで賑やかだったみんなも、少し疲れたのか静かだった。


 潮風が心地いい。


 でも――。


 右腕だけは、まだ少しだけ違和感が残っていた。


 何も跡なんて残っていない。


 それでも、掴まれた感覚だけは消えない。


「直人」


 隣を歩いていた彩香が声をかけた。


「大丈夫?」


「うん」


 僕は笑ってみせる。


「もう平気」


「無理しなくていいのよ」


「無理なんかしてないよ」


 そう答えたものの、彩香は少しだけ疑うような目をしていた。


 その後ろから慎太郎が歩いてくる。


「直人」


「ん?」


「腕、痛くない?」


「大丈夫」


「本当に?」


「うん」


 慎太郎は少し安心したように笑った。


「よかった」


 僕も笑い返す。


 昼間はちゃんとお礼を言えた。


 それでも、慎太郎の顔を見ると少しだけ胸が落ち着かない。


 どうしてなんだろう。


 自分でもよく分からなかった。


 みんなで旅館へ向かって歩き始める。


 夕日が少しずつ傾き始めた海岸を歩きながら、さっきまでの出来事を忘れようとした。


 でも――。


 不意に、腕を掴まれた感触が頭をよぎる。


 あのとき、僕は反射的に腕を振り払おうとした。


 いつものように。


 だけど……動かなかった。


 足が止まる。


「直人?」


 前を歩いていた慎太郎が振り返った。


「……あっ、ごめん」


 彩香も心配そうにこちらを見る。


「どうしたの?」


 少し迷ったあと、僕は静かに口を開いた。


「僕ね……」


「うん」


「あのとき、掴まれた腕をすぐ振り払えると思ったんだ」


 二人は黙って聞いている。


「でも、全然振り払えなくて……」


 自分で言葉にすると、その事実が改めて胸に突き刺さる。


「そのとき初めて思ったんだ」


「僕……もう男の子じゃないんだなって」


 慎太郎は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ悔しそうな表情を浮かべている。


「……ごめん」


「え?」


「もっと早く行けてたら」


 僕は首を横に振った。


「慎太郎が謝ることじゃないよ」


 そう言うと、隣で彩香が優しく微笑んだ。


「だから言ったでしょ」


「無理しなくていいのよ」


     ◇


 旅館へ戻ると、先生が廊下で待っていた。


「海水浴は終了!」


「これから部屋で少し休憩!」


「夕食は六時!」


 生徒たちから歓声が上がる。


「腹減ったー!」


「俺もう限界!」


「早く風呂入りたい!」


 みんな疲れているらしい。


 部屋へ戻ると、僕はそのまま畳へ倒れ込んだ。


「ふぅー……」


「さすがに疲れた?」


 彩香が笑う。


「少しだけ」


「少しだけ?」


「……結構」


「でしょうね」


 天井を見上げる。


 畳の匂い。


 窓から入る潮風。


 遠くから聞こえる波の音。


「なんか旅行って感じするね」


「臨海学校だから旅行みたいなものよ」


「また来たいなぁ」


「まだ一日目でしょ」


「そうだった」


 彩香が苦笑する。


「まだあと二日あるわよ」


「やった!」


「切り替え早いわね」


「だって、楽しまなきゃもったいないじゃん」


 その言葉に、部屋のみんながくすっと笑う。


 さっきまでの重たい空気が、少しだけ和らいだ気がした。


 すると、同じ部屋の女子が笑いながら言った。


「でも、中村さん、本当に元気だよね」


「そう?」


「さっきあんなことがあったのに」


 部屋が少しだけ静かになる。


 僕は少し考えてから、小さく笑った。


「怖かったよ」


 その一言で十分だった。


「でも」


 僕は彩香を見る。


「みんな来てくれたし」


「もう大丈夫」


 彩香は少しだけ安心したように息をつくと、


「そう」


 とだけ答えた。


 それ以上は何も聞かなかった。


 その優しさが、なんだか少しだけ嬉しかった。


     ◇


「夕食だぞー!」


 先生の声で、大広間へ向かう。


 広い畳敷きの部屋には、ずらりと料理が並んでいた。


「すごーい!」


 思わず声が出る。


 刺身。


 焼き魚。


 天ぷら。


 小鍋。


 茶碗蒸し。


「旅館ってすごいね!」


「テンション上がりすぎ」


 彩香が笑う。


「いただきます!」


 一斉に箸を取る。


「おいしい!」


 刺身が新鮮だ。


「これ見て!」


 僕はエビフライを持ち上げる。


「大きい!」


「食べなさい」


「写真撮ってから」


「冷めるわよ」


 彩香に言われ、慌てて食べる。


「おいしい!」


「さっきからそれしか言ってない」


「だって本当においしいんだもん」


 夢中で食べていると、ふと彩香のお皿が目に入った。


「あれ?」


「どうしたの?」


「その天ぷら、食べないの?」


「ああ、これ?」


 彩香は少し笑う。


「カロリー高いのよね」


「え?」


「こういうの全部食べてると、すぐ太るの」


 そう言って、ご飯も少しだけ残している。


 周りを見ると、他の女子も意外と残している子が多かった。


「そうなんだ……」


 僕も箸を止める。


「じゃあ、僕も残しておいた方がいいのかな」


 すると彩香は吹き出した。


挿絵(By みてみん)


「何言ってるの」


「え?」


「あんたは気にしなくていいでしょ?」


「そうなの? なんで?」


「あれだけ一日中走り回って、カロリーもなにもないと思うけど」


「それに」


 彩香は僕を見ながら笑う。


「今のあんた、全然太るような体型じゃないじゃない」


 周りの女子も笑い始める。


「確かに」


「中村さん、むしろいっぱい食べた方がいいよ」


 雫ちゃんも楽しそうだった。


「そう?」


「うん」


 そう言われると、なんだか安心してしまう。


「じゃあ、いただきます!」


「さっきから食べてるでしょ」


 向かいに座っていた慎太郎も笑った。


「昼も夜も元気だな」


「慎太郎もいっぱい食べなよ」


「食べてるって」


「遠慮しなくていいのに」


「お前じゃないんだから」


「どういう意味?」


「そのままの意味」


 みんな笑う。


 雫ちゃんも少しずつ会話に入るようになっていた。


「この茶碗蒸し、おいしいですね」


「本当?」


「一口食べる?」


「ありがとう」


 自然と会話が続く。


 昼間より、ずっと打ち解けている気がした。


     ◇


 夕食を終えると、先生が立ち上がった。


「このあとは自由時間!」


「ただし九時までだぞ!」


「外へは出るなよ!」


 返事があちこちから聞こえる。


「じゃあ、お風呂行こっか」


 彩香が立ち上がる。


「温泉!」


 僕も勢いよく立ち上がった。


「まだ元気なの?」


「温泉は別!」


「意味が分からない」


 彩香が呆れたように笑う。


 女子みんなで大浴場へ向かった。


 脱衣所へ入ると、みんな思い思いに服を脱ぎ始める。


 僕も特に気にせず服を脱ぎ、ロッカーへしまう。


「……わぁ」


 小さな声が聞こえた。


「ん?」


 振り向くと、雫ちゃんが少し驚いたような顔で僕を見ていた。


「ど、どうしたの?」


「あ、いえ……」


 慌てて目を逸らす。


「競泳水着のときも思ったんですけど……」


「中村さん、すごく……きれいだなって」


「え?」


 思わず自分の体を見下ろす。


「そうかな。普通じゃない?」


 その様子を見ていた彩香が苦笑した。


「自覚ないのね」


「えぇ?」


「毎日あれだけ動き回ってれば、そういう体にもなるわよ」


「そうなの?」


「普通の女子は、あんたみたいに朝から晩まで全力で走り回らないの」


 雫ちゃんも小さく頷く。


「私とは全然違います……」


 そんなものなのかな。


 自分ではよく分からなかった。


 浴場の扉を開ける。


「おぉー!」


 思わず声が出る。


 湯気に包まれた広いヒノキ風呂。


 奥には岩造りの露天風呂まで見えている。


「すごい!」


 そのまま駆け出そうとした瞬間、


「こら!」


 彩香に腕を軽く掴まれた。


「走らない」


「あっ」


「それに」


 彩香は洗い場を指差す。


「ちゃんと体を洗ってからね」


「はーい」


「返事だけはいいんだから」


 体を洗い終え、三人で露天風呂へ向かう。


 夜風が頬を撫でる。


「ふぁぁ……」


 肩までお湯に浸かると、一気に力が抜けた。


「気持ちいい……」


「やっと静かになった」


 彩香が笑う。


「海も楽しかったけど、温泉もいいね」


「今日は泳ぎすぎたから」


「足が軽くなる」


 しばらく三人とも湯に浸かり、夕暮れから夜へと変わっていく空を眺めていた。


 やがて雫ちゃんが口を開く。


「そういえば……」


「中村さんって、佐藤くんとすごく仲がいいですよね」


「うん」


 僕は頷く。


「一年生のとき、文研……あっ、現代文学研究会で知り合ったんだ」


「最初は放課後に部活で話すくらいだったんだけど、一緒にゲームしたり遊びに行ったりしてるうちに仲良くなって」


「それで今に至る感じかな」


 雫ちゃんは少し驚いたようだった。


「じゃあ……」


「佐藤くんって、中村さんが男の子だった頃から知ってるんですか?」


「うん」


「二年生になって、一か月くらいしてからかな」


「突然、僕が女の子になっちゃって」


「一番びっくりしたの、多分慎太郎くんだと思う」


「あははっ、そうね」


 彩香と雫が小さく笑う。


挿絵(By みてみん)


「そりゃそうでしょうね」


 僕も思わず笑ってしまった。


「そういえば」


「雫ちゃんは慎太郎くんと同じクラスだよね?」


「普段はどんな感じなの?」


 雫ちゃんは少し考えてから答えた。


「休み時間は男の子同士で話してることが多いですね」


「女子とも普通に話しますけど、自分から話しかけることはあまりないです」


「でも……」


 少しだけ微笑む。


「困ってる人がいると、いつの間にか手伝ってくれてたりします」


「それ、慎太郎くんらしい」


 僕が笑うと、彩香も頷いた。


「目立たないけど、お人好しなのよね」


「はい」


 雫ちゃんも笑顔になる。


 夜風がそっと湯気を揺らした。


「さて」


 彩香が立ち上がる。


「のぼせる前に出ましょうか」


「もう?」


「このあと自由時間もあるんだから」


「そっか」


 少し名残惜しかったけれど、僕たちは温泉をあとにした。


     ◇


 温泉から部屋へ戻る頃には、すっかり外は暗くなっていた。


 廊下の窓から見える海は、昼間とはまるで違う。


 波の音だけが静かに聞こえてくる。


「気持ちよかったぁ……」


 僕は髪をタオルで拭きながら部屋へ入る。


「直人、髪ちゃんと乾かしなさいよ」


「あとでー」


「また風邪ひくわよ」


「夏だから大丈夫!」


「そういう問題じゃない」


 彩香はため息をつきながらドライヤーを手に取った。


 女子部屋では、みんな思い思いにくつろぎ始める。


 荷物を整理する人。


 スマホを見る人。


 飲み物を飲む人。


 先生に怒られない程度に、お菓子まで出し始める子もいた。


 彩香からドライヤーを受け取り、鏡の前で髪を乾かす。


「中村さん、髪きれいだよね」


 近くにいた女子が笑いながら言う。


「ありがと」


(男だった頃は、こんなこと言われたことなかったな)


「修学旅行みたいだね」


 僕が言うと、


「臨海学校だけどね」


 彩香が笑う。


 先生たちも今は見回りには来ていない。


 久しぶりに、みんな気を抜いているようだった。


     ◇


「よいしょ」


 布団が運ばれてくる。


 女子みんなで協力しながら敷いていく。


「直人、そっち持って」


「はーい」


 二人で布団を広げる。


 ふわっと空気が入る。


「旅館の布団って大きいね」


「家のと変わらないと思うけど」


「なんか違う気がする」


「気のせい」


 彩香は笑っている。


 みんなで布団を並べ終える頃には、部屋の真ん中に自然と輪ができていた。


 誰かがお菓子の袋を開ける。


「先生には内緒ね」


「見つかったら怒られるよ」


「大丈夫、大丈夫」


 あちこちから笑い声が聞こえる。


 昼間の出来事も、少しずつ笑い声に溶けていくようだった。


     ◇


「ねぇ」


 不意に、一人の女子が声を上げた。


「せっかくのお泊まりなんだしさ」


「恋ばなでもしない?」


「おっ、いいね!」


「やろうやろう!」


 一瞬で部屋が盛り上がる。


 彩香も笑いながら頷いた。


「高校生のお泊まりなんだから、一回くらいはね」


「…………」


「えぇっ!?」


 僕だけが大きな声を上げた。


「なんでそんなに驚くのよ」


「だ、だって!」


「そんなに嫌?」


「嫌っていうか……」


「高校生の宿泊行事なんだから、こういう話くらいするでしょ」


「そうなの?」


「そうなの」


 周りのみんなも次々に頷く。


「聞きたい聞きたい!」


「好きな人いる?」


「まず誰から?」


 楽しそうな声が飛び交う。


 彩香が僕の方を見て、にやりと笑った。


「もちろん」


「直人も参加ね」


「えっ」


「ダメ」


「逃げない」


「まだ逃げてないよ!」


「その顔は逃げる顔」


「そんなことない!」


 部屋中が笑いに包まれる。


 でも――。


 胸の奥だけは、少しずつざわつき始めていた。


 好きな人。


 恋愛。


 そんなことを聞かれても、僕は何て答えればいいんだろう。


 慎太郎くんの顔が、一瞬だけ頭をよぎる。


(違う違う)


(何考えてるんだ僕)


 慌てて首を振る。


 彩香が笑った。


「じゃあ」


「誰から聞こうかな?」


 みんなの視線が自然と一人へ集まり始める。


 ……これは。


 今日は長い夜になりそうだった。


     ◇


「じゃあ、最初は彩香から!」


「えー?」


 女子たちが一斉に彩香を見る。


「三年の山口先輩とはどうなの?」


「この前、一緒に歩いてるの見たよ!」


 彩香は苦笑しながら肩をすくめた。


「あれはないわ……」


「えー?」


「あの人、何人の下級生に声かけてると思ってるのよ」


 部屋中に笑いが広がる。


「それは確かに」


「ちょっと顔がいいからってねぇ」


「彩香、見る目あるー」


 次々と話題が飛び交い、恋ばなは思った以上に盛り上がっていく。


 そして――。


「じゃあ次」


 誰かが僕を見る。


「中村さん!」


「えっ?」


「あっ、気になる!」


「隣のクラスの慎太郎くん!」


 胸がどきっとした。


「慎太郎くんって、確か昼間一緒にビーチバレーやってた人だよね?」


「海の家でも見た!」


「あんな男子いたんだってびっくりした」


「学校だと全然気付かなかったよね」


 みんな好き勝手に話し始める。


「慎太郎くんってさ、優しそうだよね」


「今日も助けに来てくれてたし」


「付き合ってるの?」


「ち、違うよ!」


 慌てて首を振る。


「ただの友達!」


「へぇー、そうなの?」


「でも、どこで知り合ったの?」


「部活」


「一年生の頃から?」


「うん」


「じゃあ、ずっと仲良かったんだ」


「うん。いつも一緒に遊んでたよ」


 その時だった。


「あれ?」


 一人の女子が首を傾げる。


「一緒に? それって……」


「男の子だった頃の話だよね?」


 部屋が少しだけ静かになる。


「……うん」


 僕が小さく頷くと、


「じゃあ、女の子になって最初に会った時ってどんな感じだったの?」


「えっ?」


「慎太郎くん、びっくりしてた?」


「何て言われたの?」


「昔と接し方変わった?」


「最初から普通だったの?」


「……」


挿絵(By みてみん)


 質問が次々に飛んでくる。


 みんな悪気なんてない。


 本当に興味があるだけ。


 だけど――。


 胸の奥が少しずつ苦しくなっていく。


「えっと……」


 うまく答えられない。


 彩香が僕を見る。


 一瞬だけ目が合った。


 その目は、全部分かっているようだった。


「あっ」


 彩香が突然声を上げる。


「そういえば直人」


「え?」


「先生が脱衣所に忘れ物ないか見てきてって言ってたわよ」


 一瞬だけ固まる。


(そんなこと……)


 でも。


 すぐに分かった。


 助けてくれたんだ。


「あ、そうだった」


 僕は立ち上がる。


「じゃあ、ちょっと見てくるね」


「いってらっしゃーい」


 誰も気にしていない。


 僕は静かに襖を閉めた。


     ◇


 旅館の外へ出る。


 夜風が火照った頬を優しく撫でていく。


 波の音だけが静かに聞こえる。


 玄関の脇には自動販売機が一台。


 その横に、小さな木製のベンチが置かれていた。


 街灯は一本だけ。


 その明かりに、小さな虫たちが集まっている。


「ふぅ……」


 僕はベンチへ腰を下ろした。


 空を見上げる。


 昼間とは違う。


 満天の星空だった。


 しばらくぼんやり眺めていると、


 玄関の扉が開く音がした。


「あれ?」


 聞き慣れた声。


「……慎太郎?」


「直人?」


 お互い顔を見合わせる。


 そして同時に笑ってしまった。


「なんでいるの?」


「それ、こっちの台詞」


 二人で苦笑する。


「飲み物買う?」


「うん」


 慎太郎は財布を取り出し、自動販売機で缶コーヒーを一本買った。


 僕はオレンジジュースを選ぶ。


 カタン。


 二人並んでベンチへ座る。


 しばらく無言だった。


 缶を開ける音だけが静かな夜に響く。


「今日はありがとう」


 僕がぽつりと言う。


「ん?」


「昼間」


「ああ」


 慎太郎は少し照れくさそうに笑った。


「友達だろ」


「それでも」


 僕は自分の腕をそっと撫でる。


「正直ちょっと、怖かった」


 慎太郎の表情が少し曇る。


「……ごめん」


「もっと早く行ければよかった」


「ううん」


 僕は首を振った。


「慎太郎が来てくれたから、すごく心強かった」


 慎太郎は何も言わず、小さく頷く。


 少しだけ沈黙が流れた。


 やがて慎太郎が笑う。


「実はさ」


「うん?」


「俺も逃げてきた」


「えっ?」


「男子部屋で恋ばなが始まって」


 思わず吹き出してしまう。


「そっちも?」


「うん。恋ばなってほどでもないんだけどさ」


「『中村ってどうなんだ?』って」


「あはは……」


 笑ってはいるけれど、お互いその笑顔は少しぎこちなかった。


「直人は、なんで抜けてきたの?」


 慎太郎が静かに聞く。


 僕は少し考えた。


 星空を見上げる。


挿絵(By みてみん)


「……分かんない」


「うん」


「みんな悪気なんてないんだ」


「それは分かる」


「でも――」


 言葉が詰まる。


 少しだけ勇気を出した。


「昨日まで男の子だったのに」


「今日から女の子だから、男の子を好きになってくださいって言われても」


「そんな簡単に……好きになれるわけないよね?」


 波の音だけが聞こえる。


 慎太郎は何も急かさなかった。


「男の子だった頃のことも」


「女の子になってからのことも」


「全部続いてるのに」


「みんなには、その途中が見えてない気がして」


 自分でも驚くくらい、自然と言葉が出てきた。


 慎太郎はしばらく黙っていた。


 そして、


「……俺も分からない」


 静かに言う。


「え?」


「俺も、どうしたらいいのか分からない」


「直人は直人だと思ってる」


「でも」


「それだけじゃ説明できないことも、最近増えてきた」


 僕は慎太郎を見る。


 慎太郎も苦笑していた。


「だから」


「俺も逃げてきた」


 思わず笑ってしまう。


「なんだ、それ」


「お互い様」


 二人で顔を見合わせて笑う。


 昼間から胸につかえていたものが、少しだけ軽くなった気がした。


 慎太郎が立ち上がる。


「そろそろ戻るか」


「うん」


 二人並んで旅館の玄関へ向かって歩き出す。


 夜空には、変わらず無数の星が静かに輝いていた。


第三章 完

第三章を読んでいただき、ありがとうございました。


今回は臨海学校の夜が舞台ということで、夕食、温泉、恋ばな、そして星空のシーンまで、高校生らしいイベントを詰め込んだ一話になりました。


特に最後の直人と慎太郎の会話は、この作品を書き始めた頃から一度描いてみたかった場面です。


体が女の子になったからといって、心まで一日で変わるわけではない。


直人自身もまだ答えを見つけられていないからこそ、恋ばなの中で戸惑い、慎太郎と本音を話す時間が必要だったのだと思います。


次回はいよいよ臨海学校二日目。


昼間とはまた違う夏の思い出を描いていきますので、ぜひ続きをお楽しみに!

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