第1話-7 魔王なき国の、最初の水(前)
十九日目の朝、尾根の上は冷え込んでいた。吐く息が白い。初霜まで、あと一日か二日だろう。
湧き口の沈殿槽には、澄んだ水がなみなみと溜まっていた。そこから古代の水路が尾根をまわり、谷の手前の送水槽へ。送水槽の底から、リディアの石の管が谷へ下りていく。
「ゆっくり開けてください。一気に流すと、管の中で水がぶつかって、継ぎ目が傷みます」
リーネの指示で、村長が送水槽の堰板を少しずつ上げた。
水が、管へ吸い込まれていく。
音はほとんどしなかった。崖を下り、谷底を這い、向こうの崖を登っていく水の姿は、誰にも見えない。
リーネは谷の途中の空気栓の前にしゃがみ込み、しゅう、と抜けていく空気の音に耳を澄ませていた。
「空気、抜けてます。……抜け終わりました」
全員が、対岸の受け水槽を見つめた。
一分。二分。
空っぽの受け水槽の底で、石の管の口が、ごぼりと鳴った。
水が、あふれ出した。
四十メートルの谷底をくぐり、崖を登り切った水が、受け水槽を満たし、古代の水路へ流れ出していく。
対岸で待っていた若者たちが、両腕を振り上げて叫んだ。こちら側の崖でも、歓声が上がった。
リディアは、目隠しのまま、谷の向こうの水音に耳を傾けていた。
「……届きましたか」
「届きました」と私は言った。「あなたの管が、届けました」
蛇の髪が、ふわりと揺れた。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
◇
昼過ぎ。ロッカ村の広場。
枯れた揚水塔の足もとに、新しく石で組んだ分水槽がある。ここで水を受け、村の各所の水汲み場へ分けて流す仕組みだ。
村人たちが、遠巻きにそれを囲んでいた。半信半疑の顔だった。三か月、毎日裏切られ続けてきたのだから当然だ。
ごぼっ、と音がした。
分水槽の注ぎ口から、水があふれ出した。
最初に駆け寄ったのは、坂道で水桶を抱えていた、あの小さな子どもだった。両手で水をすくい、口をつける。
「……つめたい!」
それを合図に、広場が歓声で揺れた。角の生えた老人が水瓶を抱えてへたり込み、村長は顔をくしゃくしゃにしてリーネの手を握りしめた。
リーネは、分水槽と北の斜面に残る古代の水路を交互に眺めて、満足そうに頷いていた。
「二百年ぶりに、昔の人たちの仕事がつながりましたね」
「……ええ」
私は帳簿を閉じた。工事費、銀貨五百八十枚。期限内、予算内。
胃は、驚くほど静かだった。
【史実メモ】沈殿槽と分水槽
ローマの水道では、水源の近くに砂や泥を沈める槽を設け、都市の入口では分水槽で水を各地区へ分けていました。南フランスのニームには、分水槽の遺構が残っています。
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。
【史実メモ】沈殿槽と分水槽
ローマの水道では、水源の近くに砂や泥を沈める槽を設け、都市の入口では分水槽で水を各地区へ分けていました。南フランスのニームには、分水槽の遺構が残っています。
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




