第1話-5 石にする目(前)
その夜、村長の家の土間で、リーネは床いっぱいに紙を広げた。
「谷を渡す方法です。アーチ橋は使いません。管を使います」
木炭で、谷の断面を描く。こちらの崖、深い谷底、向こうの崖。そこに一本の線を引いた。崖を下り、谷底を這い、向こうの崖を登る線。
「逆サイフォンっていいます。水源側の崖に水槽を作って、そこから管で谷底まで下ろして、向こう側でまた持ち上げるんです」
「水が、坂を登るのですか」
「登ります。入口の水面より、出口が少しでも低ければ。両側がつながった器に水を入れると、両方の水面が同じ高さになりますよね。あれと同じです。ポンプも魔法も要りません。古代ローマの技術者は、これで深い谷をいくつも越えました」
湧き水は村より二十メートル高い。途中の損失を見込んでも、十分に足りる、とリーネは言った。
「ただし、問題がひとつ。谷底は四十メートル下です。そこでは管の中の水が、ものすごい力で外へ押し出そうとします。だいたい、水深四十メートルの海の底と同じ圧力です」
「普通の土管では」
「割れます。継ぎ目からも漏れます。ローマでは鉛の管を使ったり、石の塊に一つずつ穴を穿って、それをつないで管にしたりしていました」
「鉛は」
「谷を往復する長さ分だと、予算の八百枚では到底足りません」
「では石は」
「石の塊をくり抜くのは、熟練の石工でも一個に何日もかかります。百個以上要るんです。二十日じゃ、絶対に間に合いません」
リーネはそこで、木炭を置いた。
「だから、欲しいのはこういうものです。粘土なら、一日で何十本でも形が作れる。その粘土の管を、継ぎ目のない一枚岩の管に変えられる人」
私は目を閉じた。
台帳の、ある一枚を思い出す。紹介欄に、赤い判子が押された一枚。
「……います」
◇
リディアは、都市の外れの古い塔に一人で住んでいた。
両目を厚い黒布で覆い、壁に手を添えて扉を開ける。髪の一本一本が細い蛇で、私たちの気配に気づいて、しゅるりと鎌首をもたげた。
「職安の方……? 私の票には、『紹介不可』の判子が押してあるはずですけど」
「労働安全上の理由、とありますね。押したのは前任の職員です。私は押していません」
ゴルゴン族。その目に見られた生き物は、石になる。
魔王軍では宝物庫の番人だった。仕事の中身は、聞くまでもない。
「……陛下は、私の目を役に立つと言ってくださいました。盗賊が来なくなったって」
リディアは目隠しの上から、そっと自分の目に触れた。
「でも、私が石にしてきたのは、人だけです。そんな目を、どこの職場が欲しがるんですか」
リーネが一歩前に出た。
「リディアさん。伝承に、こういう話があります。英雄がゴルゴンの首を、海辺の海藻の上に置いた。そうしたら、柔らかい海藻が固い石になった。それが珊瑚の始まりだって」
「……それ、私の遠いご先祖様の首を斬った話なんですけど」
「あっ」
「いえ、いいんです。有名な話なので」
気まずい沈黙が流れた。私は咳払いをした。
「リディアさん。我々が石にしてほしいのは、人ではありません。粘土の管です」
「……管?」
「谷を越えて、村に水を届けるための管です。あなたの目でしか、二十日以内には作れない」
蛇の髪が、ゆっくりと下りていった。
【史実メモ】逆サイフォンとメデューサの珊瑚
管で谷を下り、また登らせて水を運ぶ逆サイフォンは、古代ローマの水道で実際に使われました。フランスのリヨンへ水を引いたジエ水道では、鉛の管で深い谷を越えています。メデューサの首を置いた海藻が石(珊瑚)になった話は、オウィディウスの『変身物語』に出てきます。
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




