第1話-4 伯爵は川が嫌い
カシミール・フォン・ナハトレーベン伯爵の求職票には、こう書かれていた。
【希望職種】夜間の指揮官(師団規模以上)
【希望勤務時間】日没から夜明けまで
【備考】日光不可。流水不可。招かれない家屋への立ち入り不可。
「条件が多いですね……」とリーネ。
「元魔王軍夜戦師団長です。三か月で紹介実績はゼロ。夜警の仕事を一件受けましたが、巡回路に用水路があって、二日で辞めています」
伝令便で呼び出しをかけると、伯爵は三日後の日没きっかりに村へ現れた。黒い外套に、青白い顔。立ち居振る舞いだけは、いまも師団長だった。
そして、村の入口で立ち止まった。
「……秘書殿。私はまだ、この村に招かれていないのだが」
私は村長に頭を下げ、村長は困惑しながら咳払いをした。
「ええと……ようこそ、ロッカ村へ。どうぞお入りください」
「よろしい」
伯爵は鷹揚に頷き、敷居をまたいだ。後ろでリーネが「本当に要るんだ……」と小声でメモを取っている。
「さて、用件を聞こう。もっとも、この私に水道の仕事など──」
「伯爵。夜戦師団の行軍路は、すべてあなたが引いていましたね」
伯爵の眉が、わずかに動いた。
「北部山地の作戦地図は、いまも兵站局の書庫に残っています。川、沢、用水路、地下の暗渠。あなたの地図には、流れる水がひとつ残らず描き込まれていた。地表から見えないものまで」
「……当然だ。渡れぬ水を見落とせば、師団ごと立ち往生する」
「どうやって、見えない水まで調べたのですか」
伯爵は、心底嫌そうに顔をしかめた。
「感じるのだよ。足もとを水が流れていれば、胃の腑がひっくり返る。太い流れほど、ひどく。……ああ、言わせるな。思い出しただけで気分が悪い」
リーネが、ばっと身を乗り出した。
「流れてる水だけ、ですか? 溜まってる水とか、湿った土とかは?」
「溜まり水など何ともない。湿った土も同じだ。私が渡れぬのは、流れる水だけだ」
リーネが私を振り返った。目が輝いている。私は頷いた。
伝承によれば、吸血鬼は流れる水を渡れない。伯爵にとって、それは三百年の弱点だった。
だが、この斜面で欲しいのは、まさに「流れている水だけ」に反応する感覚だった。
◇
探査は、その夜のうちに始まった。
月明かりの斜面を、伯爵がゆっくりと歩く。後ろを、リーネと村の若者たちが杭と縄を持ってついていく。
「ここは平気だ。……ここも。こちらは──うっ」
伯爵が口もとを押さえて立ち止まる。
「細い。だが流れている。杭を打て」
「本流ですか?」
「違う。こんなものは小便のようなものだ。……失礼、品がなかった」
一歩ずつ、斜面を横切る。伯爵の顔色は、もともと青白いのに、さらに青くなっていく。杭が一本、また一本と打たれ、地下の細い流れが、縄で地表に描き出されていった。
細い流れは、すべて同じ一点へ向かって集まっていた。
真夜中を過ぎたころ。斜面の上、崩れた土砂の真下で、伯爵の足が止まった。
膝が折れる。
「……ここだ」
声が震えていた。
「真下だ。太い。深さは……人の背丈で二つ分。ひどい。この私が、立っていられんほどだ」
「伯爵、大丈夫ですか!」
「大丈夫に見えるかね、考古学者殿。……早く杭を打ちたまえ。そして私をここからどかせ」
翌朝、村人総出でそこを掘った。
三メートル掘ったところで、つるはしが石を割った。
次の瞬間、澄んだ水が噴き上がった。
冷たく、太く、止まることなく。歓声が斜面を駆け上がった。水位を測ると、村の広場より二十メートル高い。古代の水路の始点よりも、さらに上だった。
リーネは湧き口に新しく沈殿槽を組む計画を立て始め、村人たちは石を運び始めた。湧いた水をいったん溜めて砂や泥を沈め、上澄みだけを水路へ送る仕組みだ。
伯爵は、湧き水から最も遠い岩陰に避難していた。
「お見事でした、伯爵」
「褒められても嬉しくはない。……いや、少しは嬉しい」
彼は外套の襟を立て、谷のほうを見やった。
「ところで秘書殿。この湧き水が流れ出したおかげで、私は来た道を帰れなくなったのだが」
「……手配します」
私は手帳に「伯爵の帰路」と書き込んだ。胃が、少し痛んだ。気のせいということにした。
【史実メモ】流れる水を渡れない吸血鬼
吸血鬼が流れる水を渡れないという設定は、ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』(1897年)などで広く知られるようになりました。同作では、ドラキュラが土を詰めた箱に入り、船で海を渡ってきます。
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。
魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




