第5話-3 夜明けまでの仕事
グンナルは、泥だらけの川原に降り立つと、倒れた聖牛の残骸を見下ろした。
人間たちが、後ずさった。魔族たちも、手を止めた。トロルが人前に姿を見せるのは、五年ぶりのことだった。
「置く場所が、違う」
岩が転がるような声で、グンナルは言った。
「大水のとき、この川は、いまの川の形の通りには走らん。左岸の浅瀬の下に、昔の川筋が埋まってる。橋が架かる前、四百年より前は、川はあっちを流れてた。大水が来ると、川はそれを思い出す」
太い指が、左岸の浅瀬から、真ん中の橋脚へと、ゆっくり線を引いた。
「流木は、いつもそこから来た。そして、いつも左から三本目の橋脚に引っかかった。三百年、俺はそれをどけてきた。……だから知ってる」
エミルが、泥だらけの記録帳を握りしめたまま、グンナルを見上げていた。
「なんで、教えてくれる」
かすれた声だった。
「その男のためか」
グンナルは、私のほうを見なかった。
「違う。橋のためだ。……それと、二つ置いて一つ持って帰ったガキのためだ」
それから、初めて、私のほうに顔を向けた。
「職安。条件がある」
「伺います」
「東のアーチの下を、俺の寝床に返せ。橋が直ったら、俺は、またあそこに住む」
「……手配します」
グンナルは、鼻を鳴らした。
「お前の名前は、許さん。紙の最後の、あの名前はな」
トロルの小さな黒い目が、まっすぐに私を見下ろした。
「だが、坊主に読ませたとき、お前は逃げなかった。それは、覚えておく」
◇
その夜から、仕事は日没に始まり、夜明け前に終わるようになった。
グンナルは、川の中を歩いた。胸まで水に浸かり、濁流の残りを全身で受けながら、川底を足で探る。
「ここだ。砂利の下に、固い岩がある。ここなら、聖牛の足が食い込む」
トロルが足で示した場所に、オズワルドの骨たちが聖牛を運んでくる。グンナルは、骨たちが四体がかりで担いできた丸太の骨組みを、片腕で受け取り、川底の岩にぐいと押し込んだ。
「重しを」
骨たちが、蛇籠を積む。
川原では、エミルがランプの下で、新しい記録帳に計算を書きつけていた。グンナルの示した流れの向きと強さを、数字に置き換えていく。
「左岸の流れが、そこまで強いなら……聖牛の角度を、あと十度、開かないと」
「十度?」とグンナルが水の中から言った。
「流れを、まっすぐ受け止めたら、また足もとを掘られる。斜めに受け流すんだ。……この形なら、川筋を、橋脚から少しずつ遠ざけられる」
グンナルは、しばらくエミルの顔を見ていた。それから、言われた通りに、聖牛の向きを少しだけ変えた。
リーネは、二人のやり取りを、少し離れた川原で聞いていた。泥だらけの顔で、ひどく嬉しそうに。
締め切りも、組み直された。グンナルが、川底の岩の固い場所を足で探し、そこに杭を打つ。前回の締め切りが破れたのは、杭の足もとがやわらかい砂利だったからだ。
◇
二十六日目の夜。
上流の村から、また伝令が来た。二度目の大雨が、明日の昼過ぎには来る。
聖牛は、十二基のうち十一基まで据え終わっていた。最後の一基。左岸の、一番流れの強い場所に置く一基が、まだ残っている。
「明日の大水の前に置かないと、締め切りがまた破られる」
エミルが、青い顔で言った。
最後の一基は、最も深い場所に沈めなければならなかった。グンナルは、肩まで水に浸かり、骨たちと一緒に聖牛の足を岩に食い込ませようとしていた。
だが、川底の岩は傾いていて、何度押し込んでも、足が滑る。
東の空が、白み始めていた。
「グンナルさん、もう時間が──」
リーネが叫んだ。
「あと少しだ」
トロルは、手を止めなかった。
「これを置かなきゃ、明日、また流される。……三百年、この川の流木をどけてきた。最後の一本で、逃げられるか」
山の稜線が、金色に縁取られていく。
グンナルが、最後の一押しをした。聖牛の足が、岩の割れ目に、がちりと噛んだ。骨たちが、蛇籠を一斉に積み上げる。
据わった。
その瞬間、山の稜線から、最初の光が射した。
朝日の筋が、川面を走ってくる。川の真ん中に立つ、グンナルのほうへ。
橋の陰までは、遠すぎた。
川原から、誰かが水の中へ飛び込んだ。
エミルだった。両腕に、締め切りの粘土を覆っていた、大きな帆布を抱えている。冷たい流れに足を取られ、膝まで、腰まで、胸まで水に浸かりながら、エミルは川の真ん中へ進んだ。
「伏せろ、おじさん!」
グンナルが身を屈める。エミルは、帆布を両腕いっぱいに広げ、トロルの頭から背中へ、覆いかぶせた。
朝日が、川面を照らした。
帆布の上を、光が滑っていく。エミルは、帆布の端を必死に握りしめ、流されまいと踏ん張っていた。唇が、みるみる紫色になっていく。
「オズワルドさん!」
リーネの叫びに、骨たちが一斉に川へ入った。帆布ごと、グンナルとエミルを囲み、壁のように並んで、流れから二人を守りながら、ゆっくりと橋の下の影へ導いていく。
東のアーチの陰に、全員がたどり着いた。
帆布の下から、グンナルが這い出してきた。体のどこにも、石になったところはなかった。
いや、一か所だけ。
帆布からはみ出していた、左手の小指の先が、灰色の石になっていた。
グンナルは、その指先を、しばらく黙って眺めていた。
「……坊主。冬の水に一時間浸かれば死ぬ、と言ったのは、お前だろうが」
歯を鳴らしながら、骨たちに抱えられたエミルが答えた。
「い、一時間は……浸かってない」
トロルは、低く、喉の奥で笑った。今度は、はっきりと笑ったのだとわかった。
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




