第5話-4 十年もったら
二度目の大水は、翌日の昼過ぎに来た。
私たちは、川原の高台から、濁流を見守った。グンナルは、東のアーチの陰で、帆布をかぶって座っていた。昼の光の届かない、ぎりぎりの場所で。
茶色い水が、左岸の浅瀬に押し寄せる。昔の川筋を思い出した川が、その道を走ろうとする。
そこに、十二基の聖牛が並んでいた。
濁流が、丸太の骨組みにぶつかる。水しぶきが上がる。だが、聖牛は動かなかった。グンナルが岩の割れ目に噛ませた足は、びくともしない。
流れは、斜めに並んだ聖牛に受け流され、少しずつ向きを変え、真ん中の橋脚の足もとを避けて、川の中央へと逸れていった。
締め切りの杭の輪は、持ちこたえた。
「……逸れた」
エミルが、高台の縁で、記録帳を握りしめたまま言った。
「流れが、逸れた」
リーネが、エミルの背中を思いきり叩いた。エミルはよろめいたが、文句は言わなかった。
◇
大水が引いた翌日から、最後の三日間が始まった。
締め切りの内側の水を、水上輪で汲み出す。乾いた川底に、新しい基礎を打つ。
石を積んだのは、リンデンの石工たちだった。
「骨は、川の中だけ」という町長の決まりは、まだ生きていた。だが、締め切りの内側の乾いた川底は、陸でも川の中でもない場所だった。人間の石工たちが石を積み、そのすぐ上の水上輪で、骨たちが水を汲み続ける。人間と骨は、同じ穴の中で、互いに背中を向けたまま、同じ橋脚を立てていった。
二日目の昼、年配の石工が、汲み上げの手を止めない骨の一体に、水筒を差し出しかけて、気まずそうに引っ込めた。飲む口がないことに、途中で気づいたらしい。
骨は、軽く一礼した。石工も、少し遅れて、ぎこちなく頭を下げた。
三十日目の朝、新しい橋脚の上に、仮の木の橋桁が渡された。落ちた石のアーチを積み直すのは、春になってからだ。この冬は、木の橋で越す。
それでも、橋は、つながった。
◇
最初に橋を渡ったのは、ドルン村の荷車だった。
小麦の袋を山と積んだ荷車を、年老いたゴブリンの宿の主人が、ロバに引かせて渡っていく。リンデンの側では、町民たちが、薪と塩の束を積んで待っていた。
荷車がすれ違うとき、町民の誰も、鍬も鋤も持っていなかった。
その日の夕方、リンデンの町議会で、短い会合が開かれた。私は、末席に呼ばれた。
「秘書殿」
町長が、杖に両手を載せて言った。
「あんたのことを許すかどうか、町の者で話し合った。結論は、出なかった」
「……はい」
「だから、こう決めた。許すかどうかは、あの橋が十年もってから決める」
老人は、窓の外の橋を見た。
「十年後、あの橋がまだ立っていたら、そのとき、もう一度話し合う」
「十年後、確認に参ります」
私は、深く頭を下げた。
「……そう言うと思ったよ」
町長は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
◇
職安に戻る前に、二枚の書類を書いた。
一枚目は、グンナルの雇用契約書だった。
【職種】ヴェルナ川古橋・橋守 **勤務時間** 日没から夜明けまで
【業務内容】橋脚と聖牛の点検、洪水後の流木除去
【雇用主】リンデン町およびドルン村(共同雇用)
【報酬】月給銀貨十枚、および毎朝のパン
人間の町と魔族の村が、一人を共同で雇う。職安の台帳で、初めての例だった。
「パンは、誰が置く」
東のアーチの下、元の寝床に戻ったグンナルが、契約書を見ながら言った。
「リンデンの町議会が、当番を決めるそうです。初日の当番は──」
私が言い終わる前に、アーチの陰に、紙袋を抱えた小さな女の子が駆け込んできた。袋を置いて、一目散に逃げていく。
「エミルさんの、姪御さんだそうです」
グンナルは、紙袋の中を覗いた。パンが、二つ入っていた。
トロルは、しばらく黙っていた。それから、石になった小指の先で、二つ目のパンをそっと袋の外に出した。
「明日、取りに来るだろう」
◇
二枚目の書類は、エミルのものだった。
「異動、ですか」
職安に戻った翌日、窓口に、オルトとエミルが並んで立っていた。
「王都国土局から、復興支援課への出向です」とオルトが言った。「本人の希望です。様式第五十一号、受理済みです」
「魔族の国の工事は、これからいくらでもある」
エミルは、相変わらず私と目を合わせずに言った。
「人間の技師が、一人くらいいたほうがいい。……あんたのためじゃない」
「承知しています」
エミルは、窓口に背を向けかけて、立ち止まった。
「あんたを、許したわけじゃない」
「はい」
「でも、あんたの次の現場は、見に行く。……それだけだ」
オルトが、眼鏡の位置を指で直した。
「ヴァイス技師。復興支援課では、依頼票は正副二部で作成します。期限は、守ってください」
「……知ってる」
二人が去っていく足音は、片方だけが規則正しかった。
◇
その夜、閉庁後の職安で、私は一枚の申請書を書いた。
【申請内容】旧魔王府書庫所蔵の命令書写しのうち、筆頭秘書ザイン・ヴェルフォードの代署によるもの一式の閲覧
「量は、おわかりですか」
申請書を受け取ったオルトが、珍しく、自分から尋ねた。
「書庫の目録によれば、三千七百十二通です」
「全部、読むつもりですか」
「はい」
私は、手帳を開いた。陛下の遺言の四行の下に、新しい行を一つ書き加える。
『私の署名の、後始末をすること』
「陛下の遺言は、四十万人の面倒を見ることでした。ですが、その中には、私の署名のせいで仕事や家を失った者も、きっと混ざっている。……それを、紙の上でしか知らないままにしておくわけにはいきません」
オルトは、しばらく黙って申請書を見ていた。
「書庫の閲覧申請は、様式第六十一号です。審査には、通常十四日かかります」
それから、眼鏡の位置を指で直した。
「本日中に、処理します」
引き出しを開けると、胃薬の瓶と、オズワルドの薬草の袋が並んでいた。
人間たちは言う。魔王を倒して、世界は救われた、と。
けれど、魔王のいなくなったこの国には、私の名前で壊されたものが、まだどこかに残っている。
一枚ずつ、拾い直していくしかない。
(第5話 了)
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




