第5話-1 署名した手
グンナルは、怒鳴らなかった。
殴りもしなかった。あの太い腕なら、私の頭など、岩ごと砕けただろうに。
トロルはただ、エミルの手から命令書を取り返し、もう一度、ゆっくりと油紙に包み直した。一枚、二枚、三枚。来たときと同じ丁寧さで。
「帰れ」
それだけ言って、洞穴の奥へ消えた。
◇
帰り道の小道で、エミルが立ち止まった。
「覚えてなかったんだろ」
背中を向けたまま、彼は言った。
「あの紙を見るまで。自分が署名したことも。橋の下に誰が住んでたかも」
「はい。覚えていませんでした」
「……それが、一番許せない」
エミルが振り向いた。ランプの明かりの中で、その目は、怒りよりも、もっと別のもので濡れていた。
「あの冬、妹が熱を出したんだ。薬は川向こうのドルン村の薬師から買ってた。橋がなくなって、渡し船も凍って、薬が来なかった。妹は、なんとか助かった。隣の家のじいさんは、助からなかった」
「……」
「町の人間は、みんな覚えてる。誰が死んで、誰が助かって、何が届かなかったか。なのに、命令を出した側は、覚えてもいない」
「エミルさん」とリーネが口を開きかけた。私は、手でそれを止めた。
「おっしゃる通りです」
私は言った。言い訳になる言葉は、全部飲み込んだ。
「私は、紙の上でしか、この橋を知りませんでした」
エミルは、何かを言いかけて、やめた。そして、ランプを揺らしながら、リンデンへ続く暗い道を一人で帰っていった。
◇
その夜、宿の部屋で、私は眠れなかった。
机の上に、手帳を開いていた。半年前、崩れた玉座の間で、陛下の遺言を四行に要約した手帳だ。
『それらの面倒を、見てほしい』
四十万人の再就職。インフラの復旧。陛下が押しつけた案件だと、ずっと思っていた。
だが、違った。崩れていくものの中には、陛下の魔力が消えたせいで崩れたものだけでなく、私が署名した紙のせいで崩れたものも、混ざっていたのだ。
扉が、遠慮がちに叩かれた。
「ザイン殿。起きておられますか」
オズワルドだった。後ろに、リーネもいる。
「この件から、外れるべきかどうか、考えていました」と私は言った。「私がいる限り、リンデンの人々は、この工事を信用しないでしょう」
「外れて、どうなさる」
オズワルドの声は、穏やかだった。
「ザイン殿。私は大隊長として、部下に何百という命令を下しました。そのうちのいくつかで、部下は二度目の死を迎えた。骨が砕けて、二度と立ち上がらなくなった」
眼窩の青い光が、まっすぐに私を見た。
「命令を出した者にできることは、二つしかありません。忘れるか、後始末をするか。……ザイン殿は、もう忘れることはできないでしょう」
リーネが、一歩前に出た。
「それに、外れたら、誰が三十日でこの橋を直すんですか。私の聖牛の計画、まだ半分しかできてないんですよ」
私は、二人の顔を見た。骨の大隊長と、人間の考古学者。
手帳を閉じた。
◇
翌朝、私は一人で、リンデンの町議会の扉を叩いた。
町長と議員たち、それにエミルが、長い机の向こうに並んでいた。
「五年前、古橋の東の橋脚を破壊せよという命令書に署名したのは、私です」
議場が、静まり返った。
「許していただこうとは思っていません。許すかどうかを決めるのは、皆さんです。私にお願いできることは、ひとつだけです」
私は、工事計画書を机に置いた。
「この橋を、直させてください。工事の総責任者は、王都国土局のエミル・ヴァイス技師にお願いします。魔族の作業員は、川の中の作業だけを受け持ちます。陸の上には上がりません。そして、もし工事が失敗したら、その責任はすべて、私が負います」
計画書の一番下には、署名欄がある。
私は、そこに名前を書いた。ザイン・ヴェルフォード。五年前と同じ手で、同じ名前を。
今度は、何のために書いたのかを、決して忘れないために。
長い沈黙のあと、町長が、エミルを見た。
エミルは、計画書を手に取り、技術的な部分だけを、最後まで黙って読んだ。それから、顔を上げずに言った。
「……川の中は、人間には無理だ。冬の水に一時間浸かれば、死ぬ」
それは、賛成の言葉ではなかった。だが、反対の言葉でもなかった。
町長は、深いため息をついた。
「骨は、川の中だけだ。一歩でも陸に上がったら、すぐに出て行ってもらう」
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




