第3話-5 水際の掟
十七日目。水位は、地下九十八メートルまで下がった。
坑道の一番底が、五か月ぶりに水の中から姿を現した。泥にまみれた岩盤。崩れかけた坑木。打ち捨てられたつるはし。
「最下層の支保が、もつかどうかだ」
主坑道の詰所で、ブルーノが言った。
「五か月水に浸かってた坑木は、腐ってるかもしれねえ。腐ってりゃ、最下層は捨てる。もってりゃ、銀はまだ掘れる。……どっちかで、この鉱山の先が決まる」
「スケルトンの皆さんに、坑木の状態を確かめてもらいましょう。報告を」
「骨の連中に、坑木の良し悪しがわかるかよ」
ブルーノは、ランプを手に取った。
「俺が見る」
「ブルーノさん。最下層は、まだ換気ができていません。黒い空気が──」
「わかってる。手前から、ちょっと覗くだけだ。息を止めてりゃいい。鉱夫は、みんなそうやってきたんだ」
止める間もなかった。ブルーノは、主坑道から下の斜坑へ降りていった。自分で引いた線を、自分で越えて。
私は、詰所を出て、そのあとを追った。
斜坑の降り口に立つと、湿った冷たい空気が、足もとから這い上がってきた。
下を覗く。斜坑の底のほうで、ランプの明かりが一つ、揺れていた。ブルーノだ。最下層の坑道へ入っていく。ゆらゆらと、奥へ。
「ブルーノさん!」
声は、岩に吸われた。返事はなかった。
明かりが、小さくなった。
人が持つランプの炎は、蝋燭と同じように、黒い空気の中では小さくなる。最初にこの坑道へ降りた日に、リーネが紐の先に吊るした蝋燭で、見せてくれた通りに。
明かりが、坑道の床の高さまで下がった。ランプが、落ちたのだ。
それきり、消えた。
私は、降り口の縁から、一歩、踏み出しかけた。
足が、止まった。
あそこへ降りれば、私も息をする。黒い空気を吸う。三十歩も行かないうちに、ブルーノと同じ場所に倒れる。助けに行くどころか、助けられる者が一人増えるだけだ。
三百年、陛下の軍の損耗を計算してきた頭だ。こういう計算だけは、速い。
わかっていて動けなかったのではない。わかっているから、動けなかった。
そのとき、斜坑の底、一番下の水上輪のあたりで、青い光が二つ、動いた。
オズワルドの眼窩の光だった。
二つの光は、水上輪の前を離れ、泥の上を跳ねるように、ランプが消えた闇のほうへ走っていった。迷わなかった。
どこに窪みがあり、どこに黒い空気が一番深く溜まるのか、まるで知っているかのように。
私は、降り口の縁に立ったまま、その光を目で追うことしかできなかった。
やがて、青い光が、闇の奥で止まった。それから、ゆっくりと、こちらへ戻り始めた。さっきより、ずっと遅い。重いものを抱えている遅さだった。
途中の水上輪の班が、道を空けた。いや、手は止めなかった。三体のうち二体が回し続け、一体が駆け寄って、何かの端を支えた。人の足だった。
青い光が、斜坑を一歩ずつ登ってくる。骨の軋む音が、降り口まで聞こえた。
オズワルドが、斜坑の縁から姿を現した。骨の腕に、大柄な鉱夫頭の体を抱えていた。骨が、悲鳴のように軋んでいた。オーガの体重は、骨だけの体には重すぎる。それでも、離していなかった。
私は駆け寄って、ブルーノの肩を支えた。二人で、主坑道の岩の上に、その体を横たえた。疎水道のほうから、かすかに新しい空気が流れ込んでくる場所だった。
「……すみません」
私は、オズワルドに言った。
「私には、降りられませんでした」
オズワルドは、眼窩の光を、私に向けた。
「当然です、ザイン殿。降りておられたら、私は二人を運ばねばならなかった」
骨の班長は、外套の胸に手を当てた。
「息をする方には、息をする方の持ち場があります。……あそこは、骨の持ち場でした」
◇
リーネが駆けつけてきたとき、ブルーノは、咳き込みながら目を開けたところだった。
「……生きてる、のか」
「生きています」とオズワルドが言った。「あと少し、あの窪みにいたら、危なかった」
ブルーノは、自分を見下ろしている骨の顔を、しばらく呆然と眺めていた。
「……なんで、窪みの場所がわかった。あそこは、坑道図にも載ってねえ」
オズワルドは、すぐには答えなかった。
眼窩の青い光が、最下層へ続く斜坑の暗がりを見つめていた。
「……思い出したのです。さっき、走っているあいだに」
静かな声だった。
「三百十年前。私は、この鉱山にいました。最下層の、あの窪みの、すぐそばで。水替えの人足でした。桶で、水を汲み上げていた」
リーネが、息を呑んだ。
「ある日、黒い空気が、いつもより高く溜まっていた。気づいたときには、膝が折れていました。……それが、生きていた私の最後の記憶です」
坑道の奥から、水上輪の軋む音だけが、規則正しく響いていた。
「魔王陛下の術で骨になって起こされたとき、生前のことは、何も覚えていませんでした。名前も、顔も。……ただ、水上輪の図面を見たとき、懐かしいと思った。獣脂の匂いを、知っていると思った」
オズワルドは、骨の手を開いて、じっと見つめた。
「この手は、昔も、水を汲んでいたのですな」
長い沈黙のあと、ブルーノが、ゆっくりと身を起こした。
鉱夫頭は、何も言わずに、自分の首から下げていた小さな金属の札を外した。鉱夫が坑道に入るときに、名前を刻んで身につける札だ。
「……鉱山の詰所に、昔の人足の名簿が残ってる。三百年分。紙は黄ばんでるが、読める」
彼は、札をオズワルドの骨の手に押しつけた。
「あんたの名前、探してやる。見つかったら、札に刻め」
オズワルドは、札を握ったまま、動かなかった。
「それと」
ブルーノは、咳払いをして、そっぽを向いた。
「……さっきの掟は、取り消しだ。主坑道から上も、好きに歩け。この鉱山の坑道に、あんたらの足跡がついて、困ることなんか、何もねえ」
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




