第2話-6 届いた言葉
蜜蝋を、グロムの石の指でちぎり、リーネが手早く丸める。巨人の耳は、人の手のひらほどもあった。
「アルゴスさん、失礼します!」
リーネが梯子を駆け上がり、柔らかくなった蜜蝋を、左右の耳に押し込んだ。
笛の音が、遠ざかったはずだった。
アルゴスの背中の目が、一つ、ゆっくりと開いた。
もう一つ。もう一つ。閉じていった順番を逆にたどるように、百の目が開いていく。
「……聞こえない」
アルゴスが、自分の声の大きさを測りかねたように言った。
「何も、聞こえない。……見える。北、二十四番。続きを読む」
「グロムさん、南へ! 西へも!」
綱が引かれ、腕木が動き出す。
だが、行列はまだ近づいてくる。笛の音は、塔の石壁を震わせるほどになっていた。蜜蝋だけで、どこまで防げるのか。誰にもわからなかった。
そのとき、塔の下の通りで、行列の先頭が止まった。
灰色の制服の男が、行列の前に立っていた。片手に、書類を一枚掲げて。
「復興支援課のオルト・ミュラーです。北区時計塔にて、復興支援業務に係る緊急通信を実施中です。つきましては、当該区域の通過中のみ、笛の演奏を太鼓に切り替えていただくよう、協力を要請します。こちら、要請書です。様式第二十二号、正副二部」
行列の責任者らしき老オークが、ぽかんとして書類を受け取った。
「……太鼓なら、いいのかね」
「太鼓は、規制の対象外です」
笛が、止んだ。代わりに、太鼓の音だけが、どん、どん、と通りに響き始めた。祭りの行列は、太鼓に合わせて、むしろ少し楽しそうに時計塔の前を通り過ぎていった。
「オルトさん、いつの間に……」
リーネが手すりから身を乗り出して呟いた。
「祭りの行列の経路は、三日前に復興支援課で確認済みでした」
塔の下から、オルトが眼鏡を押し上げて答えた。表情は、いつも通り動いていなかった。
「中継所の規則第一条も、職安から写しが回ってきていましたので」
◇
文は、最後まで届いた。
ロスタ村 熱病 患者 三十一人 子ども多し 薬 尽きる 至急
一時間後、南の線が返事を送ってきた。
薬草園 受信 薬 四十箱 明朝発 馬車三台
さらに半刻後、西の線から。
西港倉庫 受信 毛布 二百枚 同行
アルゴスは、北を向いた目で、その二つの返事を北の線へ送り返した。ロスタ村に、明日、薬が出ることを伝えるために。
伝令なら、往復で八日かかっていた。今日は、二時間足らずだった。
◇
九日後。正式開通から一週間が経った朝。
北の線から、一通の文が届いた。至急の印は、ついていなかった。
ロスタ村 薬 受領 患者 回復に向かう 子ども 皆 無事 感謝
アルゴスは、その文を読み上げたあと、しばらく黙っていた。
顔の二つの目が、少し、潤んでいるように見えた。全部で百あるうちの、二つだけ。
「……この仕事は、目を閉じていられる仕事ではなかったな」
「申し訳ありません」
「いや」
巨人は、北の空を見たまま言った。
「閉じたくない、と思ったのは、三百年で初めてだ」
◇
職安の帳簿に、新しい行が加わった。
腕木通信・中継所操作員、三十六名。中央中継所・主任操作員、一名。時計塔保守係、中継所操作員を兼務、一名。
一つの依頼で、三十八人の雇用。
それから、職安の窓口の隅に立てかけられていた黒い水晶板は、リーネによって撤去された。代わりに、北の線から届いた最初の文が、額に入れて飾られた。
◇
夕方。閉庁間際の窓口に、規則正しい足音が近づいてきた。
「復興支援課のオルト・ミュラーです。北部連絡線の件、完了を確認しました。期限内、予算内。問題ありません」
「祭りの件では、助かりました」
「業務ですので」
オルトは、いつものように紙の束を置いた。
「新規の依頼です。北部連絡線の成功を受けて、東部と南部からも同様の線の要望が出ています。ただし、東部の沿岸は年間百日以上、霧が出ます」
「……霧」
「霧の日は、腕木が見えません。対策をお願いします。期限は、冬の終わりに王国の補給船団が東の港に入るまで。……まだ、時間はあります」
隣の席で、リーネが目を輝かせた。
「霧でも見える人……いえ、霧でも届く方法……まずは現地です! 東部の海岸線! 灯台の遺構もあるはず!」
「冬の終わりまでなら、先に片づけるべき案件がありそうですね」
私は、束の下のほうの依頼票に目を落としながら、受領印を押した。それから、机の引き出しを開けた。
胃薬の瓶は、前回より少し減っている。
人間たちは言う。魔王を倒して、世界は救われた、と。
けれど、魔王のいなくなったこの国では、言葉ひとつ届けるのにも、誰かの目と手が要る。
その目と手を探すのが、私の仕事だ。
(第2話 了)
【この作品について】
作中でリーネが紹介する「旧文明の技術」は、実在した技術がもとになっています。魔物たちの性質は、世界各地の神話や伝承から取っています。
ただし、規模や期間、細かな仕組みは、物語に合わせて脚色しています。
「本当にあったの?」と気になったら、ぜひ調べてみてください。
たいてい、本当にあります。




