狂犬チワワ -008 “死ね”
さっと教室を見回しただけで変化に気付いた。
昨日あった位置にあたしの机がない。
じゃあどこよ、て教室を見渡したら一番後ろの窓際、ほぼ窓に引っ付いて斜めになってる机……、あそこがあたしの席ってか?
天板に黒の太マジックで “死ね” って書いてあるのがこっからでも見える。あと空き缶に雑草の花……て、おまえら中坊かよ。
「誰だよやったの!」
大きな声も威嚇には有効だ。しょっちゅうやってたら腹式呼吸っての? あれが身についたみたいで最近じゃ俳優並みに声が通る。
なのに。
なのにあなたたちは、シカトですか、えぇ?
一番後ろの廊下側の席で女がひとり、鼻で嗤った。
たまに見かける女。名前は知らない。でも、ついこないだまで真夏のうしろでおどおどしてた女だ。
脅かそうと思って目の前にあった誰のか知らない机を力任せに蹴り飛ばしたら思った以上に大きな音がして、自分でびっくりした。
教室に緊張感が漲る。
後ろから「亜矢」って文斗の声が聞こえたけどゴメン、舐められたら負けるんで。で、一回負けたらあとは延々と負け続ける。行きつく先は半殺し。
あたしは頭んなかに浮かんだ恐怖のイメージを怒りで抑え込んだ。
ひっくり返った机をもう一回蹴っ飛ばしたら、机は黒メガネの男子の足に当たった。「痛ッ」ていう呻きに誰かの「てめ」っていう声が被る。それでも何も起きないのは文斗の睨みが効いてるからだろう。
わかってる。
あたしは弱い。
こんなの虚勢以外のなにものでもない。ほんと、 “狂犬チワワ” ってニックネーム付けたヤツ、天才だよ。
でもね、弱っちいあたしでも怒りが感情を支配してるあいだだけは普段の倍くらいの力が出るんだよ。あと勇気もね。
あたしは自分で蹴った机を跨いで進み、その先にあった机を両手で持ちあげた。で、嗤った女に向かって投げた。
届きはなかったけど女から余裕を奪うには充分だった。今こいつの顔に浮かんでんのは怯えとか驚き、恐怖、そういうの全部。
あたしは自分で投げ落とした机を蹴って、それから女に向かって「お前かよ、あたしの机!」て怒鳴りながらずんずん進んだ。
女は首を横に振って激しく否定。でもあたしに聞き入れる気がないことがわかったんだろう。逃げようとしてっけどお前、足、ガクガクだよ。
あたしは女の襟首を掴んだ。で、思いっきり引っ張ったらクルっと回ってこっちを向いたんで、その情けない顔に躊躇なくグーパンチを叩き込んだ。
まともに入った。
痛いだろうな。
でもまともに入ったからって鼻の骨が折れたりとか、そういう心配はないんだ。威力ないからね。
痛いだけ。
あとは恐怖、と戸惑い? それと屈辱。
こういうときって、なんか第三者みたく自分の行動を観察してるけどそれって意識の上っ面だけだ。奥の方では熱い溶岩みたいな何かがぐるぐる回っててコントロール不能に陥ってる。音も聞こえない……て、あたし病気かも。
女は立ったまんま殴られたとこを両手で覆った。呆然と。人間、ほんとに怖いと悲鳴は出ないみたい。
少ししたら顔を抑えてた手の隙間から血が滲み出て床にぽとっぽとっと赤い染みを作り始めた。それを見た別の女子が、悲鳴とも嗚咽ともつかない声を上げてしゃがみ込んだ。
「亜矢」
文斗の絶望的な声で我に返った。素に戻った。
ぐるぐると回ってた熱い何かが急激に冷めてく。
……でももう遅い。
やっちゃった。
どうしよう。ダブってからは気を付けてたのに。なのに学校で。しかも教室んなかで流血沙汰なんてどうしよう。やっちゃったよ文斗。
騒ぎを聞きつけたのか、他のクラスの生徒が何人か駆け込んできた。そのなかに真夏がいた。
「早く、あっち連れてって!」
真夏の仲間ふたりが殴られた女を抱えて教室を出てった。
教室に残った真夏はうちのクラスの子に何やら指示を出し始めた。何人かが掃除ロッカーからモップを持ち出してきて血の跡を拭い、うまく消えないとこはノートとか教科書をばらまいて適当に隠し、床に投げ出された机とか椅子、その傍らに倒れたメガネ男子はそのまんま。
何なんだこの動きは……、て考える間もなく、
「お前らなにやってる!」
担任の喜田川先生が入ってきた。
「橘、お前」
まずい。あたしは反射的に「違います!」と否定した。でも倒れた男子生徒の近くに立っているのは文斗だ。この状況はミスリードを誘う。そう思ってたら、
「お前、殴ったのか」
喜田川先生が文斗に訊いた。
「いえ」
喜田川先生が倒れた男子に訊いた。
「佐々木、おまえ橘に殴られたのか」
佐々木、と呼ばれた黒メガネ男子は何も答えない。キョドってるのが肯定を連想させる。
喜田川先生があたしに向き直った。
「神瀬、なんでお前のいるところでは喧嘩ざたが起きるんだよ」
「喧嘩じゃありません」
「隣のクラスから職員室に知らせがきた。そんで来てみりゃこの騒ぎだ。これが喧嘩じゃなくて何なんだ?」
あたしは黙って自分の机を指さした。
“死ね” ていう落書きと、空き缶に花。よく見ればそれは花じゃなくって小学生がよく『毛虫草』って呼んでる、たしかエノコログサっていう雑草の穂だった。
これって典型的なイジメの証拠じゃんか。そりゃあ日頃の行いがアレだから情状を酌んでくれなんていえない。でもこれってけっこう悪質だろ。
「あれは神瀬の机か」
「違います!」
即答したのはきちんと制服を着た優等生っぽい地味な女子。
「神瀬さんの机はいつも通りここにあって、後ろのは一組で余ってるのを森永君たちが勝手に持ち込んで、ふざけて……」
「ふざけて何だ」
「死刑ごっこだって。そんな悪趣味なことやめなさいって注意したんですけど、そこに神瀬さんが入ってきて、勘違いして、こんなことに……」
優等生は困った顔で乱れた机を見た。
え、もしかしてあたし、嵌められた?
昨日まで自分の机があったとこに遺影も花束もなかったから勝手に移動させられたって思った。
で、まんまと逆上しちゃったってわけ?
喜田川先生が下を向いて首を振りながら大きなため息を吐いた。
「どうしてお前らは」
反論は最初から封じられてる。しかも今、文斗にまで疑いがかけられてる。
「先生、文斗は何もしてません」
「じゃあ三組の橘が、なんでここにいるんだ」
「俺は送ってきただけです」
冷静に、本当のことを言った文斗のことばを喜田川先生は、
「送ってきたぁ?」
完全に疑ってかかってる。
ヤバい、何とかしないと。でもほんとのことも言えない。もしここに鼻血を出した女がいたらもっと大ごとになってた。へたしたら救急車がきて警察沙汰んなって……、そしたらあたしは退学だ。
真夏はあたしに貸しを作ったつもりなんだろうか。
でも何のために……。
もしかして!
文斗を陥れてあたしから離すため?
「まあいい。ふたりともちょっと来なさい」
真夏の真意はわかんないけど、とりあえずウチらは別室で事情を訊かれるって流れらしい。




