第百十三章 鄭声、屏風、糟糠の妻
1
洛陽の宮殿では酒宴が催されていた。宴が盛り上がってきたところで、劉秀はある男に視線を送った。その男、桓譚は琴を取り出すと演奏し始めた。桓譚は著名な儒者で、会議の場で意見を求められる議郎という役職についていたが、琴の名手としても知られていた。演奏して歌うのは劉秀が好む鄭声。鄭の国の歌という意味もあったが、この場合は男女の恋愛を赤裸々に歌った少々、いや、かなり際どい歌の事である。盛り上がりが最高潮に達したとき、急に桓譚は演奏をやめてしまった。
「おいおい、サビでやめるなんてどうしたんだ」
「えっと、その怒っている人がいらっしゃるようなので……」
桓譚の視線の先には鬼の形相で座っている男がいた。
「宋弘、何のつもりだ」
宋弘は長安の人、太中大夫などを務めた重鎮である。がっちりとした体型だが姿勢がよくて実際以上に背が高く見える。眉目秀麗というわけではないが、人格が顔貌を引き締めてより良く見せていた。宋弘は、冠を外して進みでた。冠を外すのは処罰を受けるときの仕草である。
「臣が桓譚を推薦したのは、忠正により陛下を導けると思ったからです。彼が淫らな歌で朝廷を惑わしているのは、臣の罪です」
劉秀は慌てて宋弘に謝ると、琴を片付けさせ、桓譚に給事中(演奏係)を兼ねさせるのを止めた。
2
ある朝廷の会議において、皆の視線は発言者でもなく、主催者たる皇帝の劉秀でもなく、その背後におかれた屏風に注がれていた。なんなら劉秀自身が度々振り返って屏風を見ているくらいである。皆が同じ事を思っていた。
ーーなんて、みだらな屏風なんだーー
二枚の屏風は、右側に春秋時代の西施という美女、左側に前漢時代の王昭君という美女が描かれている、美人画であった。よくある題材ではあるのだが、描き方が淫猥だった。
有名な、西施が川で洗い物をし、魚が美しさに見惚れて泳ぐのをやめてしまう「沈魚」という場面。沈むはずの魚はなぜか興奮したかのように飛び跳ねて水を散らし、西施の服は濡れそぼり、胸がすけていた。唯一の欠点だとされている大根足は、水の冷たさのためか桃色に染まって肉感的に描かれている。それら全てが困ったような表情と相俟って煽情の度を強めていた。
これまた有名な、匈奴に送られてしまう美女の王昭君が悲しみの歌を琵琶で弾き、その感傷的な音色に空を飛ぶ雁がバタバタと落ちる「落雁」の場面。彼女の欠点は極端な撫で肩なのだが、琵琶を弾く彼女の肩から着物がずれ落ち、乳首が見えそうになっていた。彼女は眉根をひそめて目尻から涙を流し、口は半開きである。歌に感情移入して泣いているというよりも、絶頂に近づいて喜悦にむせび泣いているように見える。落ちてくる雁の目も彼女の痴態に釘付けだ。
会議に集まった人々の血流は股間に集中し、今もし会議が終わっても立ち上がれない、という間抜けな悩みが頭を支配し始めた。
その時、宋弘がばっと立ち上がった。股間も平静のままだ。
「陛下、その屏風ですが」
「おお、最近買ったんだよ。また“神絵師”を見つけてしまったようだ」
笑う劉秀を、宋弘は睨みつけた。
「いまだ徳を好むこと、色を好むが如き者を見ざるなり」
美女を愛するように美徳を愛する人に会えたことがない、という孔子の言葉である。宋弘が本気で怒っていることに気づいた劉秀は、慌てて屏風を片付けさせて、こう言った。
「義を聞けば直ちに服す。これでどうかね?」
正しい事を言われたら即座に従う、こちらは管子の引用である。宋弘は表情を和らげて言った。
「陛下が徳をすすめ、臣は喜びにたえません」
3
劉秀の姉、湖陽公主の劉黄が夫に先立たれてしまった。公主はどうも寡婦のままでいるのを嫌がっているらしい。そんな噂が聞こえてきたため、劉秀は二人でいる時に探りを入れてみた。臣下の中で誰が優れていると思うか、という話題を振ったのである。
「宋弘様の渋いお顔、お声、ご立派なお姿、臣下の誰とも比較のしようがないわ。わたし、宋弘様の妻になりたい!」
「ちょ、直球で来ましたね。しかし、宋弘には奥さんがいますよ。仮にも皇帝の姉が第二夫人というわけにも行きますまい」
公主は扇で劉秀の額を叩いた。
「それをなんとかするのがあなたの仕事でしょ。仮にも皇帝なんだから!」
「えぇ……勘弁してくださいよ」
結局断りきれなかった劉秀は、宋弘を呼び出すことにした。部屋の背後には美人画ではない無難な屏風を置いている。ただ、その裏には公主が隠れていた。やり取りを聞かせて疑義のないようにするとともに、話が上手く進んだらその場で引き合わせてしまおう、というのである。
「上手く行ったら、飛び出して既成事実を作ってしまうわけね。まかせて」
「お願いですから、それは私がはけてからにしてくださいね」
宋弘は呼び出しに応じて部屋にやってきた。しばらくは関係のない話をしていたが、最近の冠婚葬祭の話題を経て、劉秀は遂に本題に入ることにした。
「しかし、“貴くならば交わりを替え、富みては妻を替える”とはよく聞く話だが、それがやはり人情というものかなぁ」
高い身分になったら貧乏な時の友人との交友は断ち、金持ちになったら古い妻は捨てる、当時はこのような、ある種無情なことわざがあったのだ。
宋弘は劉秀が何を言いたいのか察していた。このところ朝廷に出仕すれば、柱の影から熱視線を感じない日はなかった。その正体が湖陽公主である事も、もちろん気づいていた。
「“貧賤の知は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さず”、臣はそのように聞いております」
貧乏だった時の友人を忘れてはいけない、苦労を共にした妻は大切にしなくてはいけない、そんな意味である。
劉秀は首を傾けて、姉に語りかけた。
「すいません。駄目みたいです」
宋弘は湖陽公主との縁談を断った後も、言行を一致させた。宋弘とその妻の間には子供が出来なかった。跡取りが何よりも大事とされる時代のこと、離縁して若い妻を迎えるように圧力をかける親戚もいたが、宋弘はついに首を縦に振らなかった。
後に宋弘が死んでその直系が絶えた時、劉秀はその弟一家を引き立てて、家が存続するよう取り計らった。
振られた湖陽公主の劉黄はどうなったか。
「姉上は最近顔を出さないな。失恋からは立ち直ったのだろうか」
寝所でふとその話題を振った劉秀に対し、妻の陰麗華は答える。
「宋弘様のことは一晩泣いたら忘れたみたい。義姉上は、最近はなんとかという格好いい道士さまに夢中なのよ」
「しゅ、宗教家に行ってしまうとは予想外だな。大丈夫なのかなぁ」
陰麗華はコロコロと笑った。
「それが意外と立派な道士さまで。義姉上様の積極的な求愛も“お気持ちは嬉しいが、道の真髄を追求する身ゆえ、応えることは出来ない”なんて、ぴしゃりと断っているの」
「断られたのにご執心なのかい?」
「足繁く南陽の道士さまのもとに通ううちに、教義の方にも本当に関心を持つようになったみたいなの。それで商売っ気のない道士さまにかわって、熱心に布教しているのよ」
「身を滅ぼすほど入れこまなければいいが……」
陰麗華は灯りを消した。
「こう言ってはなんですけど、お子様もいないのだから良いじゃない。どんな形であれ、好きな人の支えになれるって、嬉しいことよ」
現在の中国において、道教には四大名観と呼び習わされる寺院がある。南陽の玄妙観はその一つであり、その創建は後漢時代に遡る。何かと悪評の残る湖陽公主であるが、玄妙観の創建者である彼女を、道教では仙女として尊崇している。




