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第百十二章  強項令

 血に塗れた匕首を手にした男、その前に倒れている男は血溜まりの中で既に息絶えていた。


「ひ、人殺しだ」


匕首の男は背後からの声に気がついて、振り向いた。背後にいた男は人殺しだ!と叫びながら走っていった。

殺人の現場を見られた男は、しかし落ち着いていた。


「見られてしまったか。しかし……お屋敷に帰れば、誰も手は出せないのだ」


男前に似合わない下卑た笑いを浮かべて、男は去った。


洛陽の捜査網はこの殺人犯が誰であるか、すぐに突き止めた。しかし、それは捕縛する事が容易ならざる相手であった。誰もが手出しを避ける中、捜査権限の長たる洛陽令が自ら乗り出したのである。

きらびやかな飾りの施された車が、洛陽の都大路を飛ばしている。道行く人々は、その派手さ加減に目をやられてしまったかのように立ち尽くし、その後慌てて頭を垂れた。


「どけどけ!湖陽公主こようこうしゅ様のお通りだ」


湖陽公主こと劉黄りゅうこうは、皇帝劉秀の姉である。大体の皇族が慎み深く暮らす中、彼女は悪い意味で異彩を放っていた。

公主の馭者を務めて怒鳴りちらしているこの奴隷、誰あろう件の殺人犯なのである。皇帝の親族お抱えの奴隷、誰もが逮捕を躊躇する案件だった。


「止まれ。ここはたった今から通行止めだ」


両手を広げて立ち塞がるのは、洛陽令の董宣とうせんである。

殺人を犯した大豪族を共犯の家族も含めて処刑、抗議で役所を襲撃したその親族も撃退して全員処刑したという、伝説の男であった。

車の扉を開けて湖陽公主が顔を出した。


「意地悪するのはだぁれ?急いでいるんだけど」


董宣は膝を屈し、言った。


「公主様の馭者に殺人の容疑がかかっています。お引き渡しください」


「あら、それでこの子外に出たがらなかったのね。もう!殺人なんて駄目じゃない!」


湖陽公主は車を降りると、董宣に巾着袋を渡した。いくらの金が入っているのか、ずしりと重い。


「今日のところはこれで見逃してちょうだい。さ、行くわよ」


奴隷はにやにやと董宣を見つめていた。湖陽公主が車に戻ろうとしたその時、董宣は馭者の鼻面に巾着袋を投げつけた。


「そんな無道が通るものか。馬を降りろ」


「てめぇ、やりやがったな」


馭者は馬を降りて董宣に跳びかかった。董宣は、馭者と取っ組み合いになり、頭に二度三度と頭突きを見舞った。よろめいた馭者に、飛び蹴りを放つと、どうと倒れて動かなくなった。


「きゃあっ、人殺し!弟に言いつけてやるんだから」


「好きになされよ」


董宣は服についた砂埃をはらい、決然と言い放った。


 お白洲に引き出された董宣は後ろ手に縛られている。

彼の鋭い眼光は皇帝劉秀その人に注がれていた。姉の劉黄は不機嫌そうに、弟の傍らに座っていた。


「早く懲らしめてちょうだい。よし、鞭打ち百回にしましょう」


「姉上、落ち着いてください」


劉秀は咳払いすると、董宣に向かって殿上から語りかけた。


「その方、以前にも過激な行動で死罪となりかけたことがあったな?あの時は気概を惜しんで赦したが、今度はそうはいかんぞ」


董宣は後ろ手に縛られたまま、立ち上がった。


「陛下は聖徳をもって中興を果たされたと思っていたのに、今や殺人犯を見過ごすべきだったと仰る。何をもって天下を治めようとされているのか。こんな腐った世の中なら、死罪を賜るまでもなく、自分で死んだ方がマシです」


董宣は宮殿の柱に駆け寄ると頭を打ちつけ始めた。その流血の様子から、本気だというのが誰の目にも明らかだった。

劉秀が衛兵を使って止めさせ、董宣は再びお白洲に引き出された。


「ふん、言ってくれるではないか。お前の言い分も一理ある。……よし、姉上に謝罪すればそれで不問とする。董宣、それでよいな」


「まったく良くありません。絶対に謝りません」


「えぇ…もう、ちょっと勘弁してくれ」


衛兵二人に頭を押さえさせて形だけでも謝らせようとした劉秀だったが、董宣は顔を真っ赤にして抵抗し、決して頭を下げようとしなかった。


「あー、もうよい。離してやれ」


「あんたは、無職の時はゴロツキを匿って役人を追い返したりしてたのに、今は頭一つ下げさせられないのね」


劉秀はむくれる姉に笑って言った。


「天子と無職は違うんですよ」


劉秀は董宣の戒めを解かせて、裁きを下した。


「新しい称号を授ける。これからは“強項令”と名乗るが良い。権力におもねらない強い首の長官、という意味だ。今後も、その稜々たる気骨をもって悪と戦ってくれ。これを持って帰るがいい」


劉秀が渡した袋はずしりと重かった。

董宣が職場に戻って袋を開けると、かなりの大金が入っていた。彼はその金を部下の役人に分け与え、自らの懐には一銭もいれなかった。

大豪族も容赦なく獄につなぐ董宣に、皆が震え上がった。その苛烈さは虎に例えられ、歌にさえなったと伝えられている。

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