第百十四章 豪族との戦い
1
天下を統一した劉秀だったが、早急に対応を迫られる事態があった。それは土地と人口に関する事である。戦乱の影響で正確な田地や戸数の情報が把握できず、従って公正な税を課すことが出来ない状態が続いていた。多くの豪族はこの状態をこれ幸いと民衆を虐げ、私腹を肥やしているという。
建武十五年、劉秀は全国調査に乗り出した。内容は全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査である。また、官吏で賄賂を使う者、民衆を虐げる者、不公平な裁きをする者がいれば告発するように働きかけた。
やがて、各郡からの使者が結果を上奏しにやってきた。事件は陳留郡の使者が上奏を始めた時に起こった。上奏文の間から、はらりと一枚の竹片が落ちた。使者が慌てて拾おうとしたので、怪しく思った劉秀は衛兵にそれを奪わせ、読み上げさせた。
「潁川、弘農は問うべし。河南、南陽は問うべからず」
「ん?どういう意味だ。答えよ」
しかし、使者は拾ったものを挟んだまま忘れていたなどという曖昧な回答に終始した。劉秀の詰問は次第に怒気をはらんできた。その時、帷幕の後ろから、澄んだ声が響いた。
「これを書いた官吏は、農地を比較したいのです」
「その声は子麗か。父に詳しく話してはくれんか」
帷幕の後ろから進みでたのが、劉秀の第四子、劉陽、字は子麗である。母親似で、目が大きく鼻は小さく高く、眉目秀麗であった。下顎がふっくらとしているところだけは劉秀に似ていると言えなくもない。この時、十二歳になっていた。
「自分たちの出した数字が他の郡と比較して過大であれば追求されます。そのため、上奏する前に潁川郡、弘農郡の使者に数字を訊いて、まずかったら修正しろという指示をしたのでしょう」
「ほう、なるほど。しかし、なぜ河南と南陽には問うてはならんのだ」
「ここ洛陽を含む河南郡は大臣が住んでいます。父上の郷里である南陽郡には皇族がいます。どちらも調査が及び腰になるため、信用できないと判断したのでしょう」
劉秀は我が子である子麗の聡明さに感心したが、よろこんでばかりもいられない。劉秀は陳留郡の使者に問うた。
「つまり、河南郡や南陽郡の調査結果は信用できないというのが官吏の間での共通認識である、と。そして、お前たちの調査結果も他所のものを参考にしていじっているんだな?」
使者は震えながら頷いた。
劉秀は全国調査の再調査を命じた。次々と不正が明るみに出て、大司徒の欧陽歙までもが獄に繋がれる事態となった。功臣の多くは土地調査が始まる前に引退したり土地を売り払っていたために難を逃れた。しかし、劉隆は迂闊にも虚偽申告に加担し、庶人に落とされた。
2
豪族側も黙ってやられていたわけではない。劉秀の全国調査があけた翌年の建武十六年、全国で小規模な反乱が発生した。豪族が自身の食客を手駒として土地調査への抗議の反乱を起こしたのだ。直ちに討伐軍を派遣したが、すぐに逃げ散ってしまった。軍が引き上げると再び反乱が起きた。再度派遣すると再び逃げ散る。この笑えない喜劇が何度も繰り返された。
劉秀は鄧禹や耿弇ら、引退した功臣を集めて対策を協議した。
「どうやったら反乱を根絶やしにできるか、公らの意見を求む」
鄧禹は静かに返した。
「根絶やしにすることは、諦めねばなりません」
「なに、不心得者どもを放置するというのか。このような不正を許して、何が皇帝か」
「皇帝だからこそ、です。王莽は反乱への対応を見誤って滅びました。全国で散発する反乱を武力で全て制圧するためには、膨大な軍事費がかかります。財政を破綻させるおつもりか」
賈復が続いて言った。
「地方の支配者層を根絶やしにすることは、統治の空白を生みます。彼らをむしろ上手く利用するべきではござらんか」
劉秀は顔に悔しさを滲ませた。
「これからの国の舵取りは、全て奴らの顔色をうかがわなくてはならないというのか。けったいな利権にしがみつく浅ましい連中に、この私が屈するというのか……」
耿弇が宥めるように言う。
「無条件に屈するというわけではありません。反乱の沈静化そのものは図らねば。いくつか策がございます」
耿弇の謀略は次のようなものであった。まず、反乱者たちに仲間を密告すれば無罪とする旨を通知した。欲に目が眩んだ者が互いに密告しあい、多くの者が捕縛された。また、反乱に対処しきれず公館を奪われた官吏を不問とし、これから何らかの対処をすれば功績とする旨を発した。これにより捜査が進展した。取り締まりを監督するのは張宗、対赤眉戦で一番槍を果たした猛将の姿に恐れをなし、降伏者が増加した。
こうして捕縛された者の内、首領格の豪族についても処刑せず、別の地域に転封した。頻繁な処刑により起きる社会不安や復仇の反乱が回避された。
こうして平穏が戻った。しかし、反乱者の豪族はその多くが何ら処罰を受けることなく元の生活に戻ったのである。反乱の終結後、鄧禹が参内し、劉秀の様子を伺った。
「気を落としていると思ったかい?」
「その様子では違うようですね」
「そうさ。豪族達を倒せないのであれば、国にとって都合のいい形に変えてしまえばいい。最大限、彼らを利用する方法を考えたぞ。長くかかると思うが……」
劉秀は武帝期に創始された「孝廉」という制度を奨励し、拡大して実施した。これは地方から中央の高級官僚を登用する制度であった。
孝は儒者の中で評判の良い者を、廉は下級官吏で評判の良い者を推薦するものであり、この二つを合わせて孝廉と呼ぶ。ただの推薦ではなく、挙げられた者にはしばしば試験が課された。孝は儒教に関する試験、廉は公文書の文書要務に関する試験がそれぞれ出題された。
豪族達は、縁故によって自分の次男三男を儒者か下級官吏にねじ込んでいることが多かった。中央にこの子供達を行かせれば、さらに美味い汁を吸うことができる。そう考えて、豪族達は熱心にお受験対策をし、子供達を孝廉に挙げさせた。
中央に行った孝廉は宮中で郎中となる。郎中となって数年勤務した後、県令となって地元に帰ることになるのだ。
特別優秀な者は「秀才」と呼ばれて、通常の者よりも早く県令になり、さらに高官へと登っていった。
美味い汁を吸うつもりだった父親達は、地元に帰ってきた我が子の変わりように驚く事になる。
彼らは受験勉強を通じて皇帝を頂点とした儒教理念に徐々に染まり、その考え方は皇帝の側近くで働く事で完成していた。
彼らは皇帝に選ばれて栄達したという選民意識を持ち、地方の感覚を捨てて、中央政府の考え方にすっかり染まっているのだ。
彼らにとって自己の根幹をなすのは、豪族の息子としての自分ではなく、皇帝の配下としての自分であった。
こうして、豪族はやがて皇帝に対して強い帰属意識を持ち、体制を守る側へと変質していった。
このような者達を「貴族」と呼ぶ。




