第百九章 公孫述と延岑
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「呉漢が生きていた、だと?どうやって?鎧を着たままあの激流に落ちたんだぞ」
「俺にもわかんねぇ、わかんねぇよ、親分」
屈狸の声は今にも泣き出しそうだった。延岑は目眩がして、しばし立ち尽くした。呆然とする延岑の肩を叩く者があった。
「男児まさに死中に生を求むるべし、じゃあなかったのか」
延岑が振り向くと、そこには戎装した公孫述の姿があった。白地に金で花鳥の刺繍を施した戦袍と、白銀に輝く鎧。絹を重ねた外套に、兜は左右に龍をあしらった豪奢な物だった。
「私自ら出る」
公孫述は笑みを浮かべて延岑に讖文を差し出した。開かれた部分には「虜死城下」と書いてあった。
「昨晩読んでいたら偶然見つけたのだ。虜が城下に死す、呉漢がこの虜にあたる。この手で打ち殺してくれるわ」
こじつけだ、と思ったが、公孫述の顔はどこか晴れやかだった。その顔を見て、延岑の目に再び炎がともった。
「呉漢と臧宮、同時に攻め寄せてくるようです」
「臧宮は汝に任せる。行くぞ」
公孫述と延岑はそれぞれが数万の軍勢を率いて成都の郭内に布陣した。
臧宮はここまで連戦連勝。勢いよく延岑の陣に突撃をかけた。しかし、その鋭鋒はことごとく弾かれ、届かなかった。攻めているのは臧宮のはずなのに、兵は怯え、異常な圧力に潰されそうになっている。
「こ、こいつ……こんなに強かったか?」
二回の攻撃に失敗した臧宮は慌てて後退したが、背後から延岑その人が追撃をかけてきた。
「臧宮、尻尾を巻いて逃げ出すのか!構わないが首だけは置いていってくれよ」
「畜生!お前には、俺は、勝ったことがあるはずなんだ!」
延岑の名剣は臧宮の戟を断ち切り、その肩を捉えた。血飛沫が飛び、臧宮は悲鳴を上げて落馬した。しかし、周囲の兵士が上手く引き上げて、乱軍の中を抜けていった。
「こちらはもういい!陛下の御身が心配だ。戻るぞ!」
公孫述もまた迫りくる漢兵達をよく防いでいた。述自身の武芸の冴えはさほどでもないが、総大将たる皇帝自らの出陣に成軍の兵士は沸き立っていた。士気に勝る成軍と数に勝る漢軍、両者の戦いは日暮れにまで縺れ込んだ。
両軍ともに疲れ果て、互いの間には隙間が目立ち始めた。
公孫述は肩で息をしている。首の周りには汗じみが出来ていた。
「こんなしんどいことを、しょっちゅうやっているのか、銅馬帝」
その時、兵士と兵士の隙間から黒い影が現れた。それは夕陽の空を翔ぶ一羽の烏のようであった。全てがゆっくりと見えた。止めろ!という延岑の叫び声がかすかに耳に届いた。近づいてくる影が黒馬に跨った黒衣の戦士であることに気がついた時、戦士の持つ長槍は、公孫述の心の臓を貫いていた。
「護軍の高午、白帝公孫述を討ち取ったリ!」
刺客は槍を離すと、黒い羽毛に飾られた両腕を高らかに掲げた。悲鳴とともに成軍の兵士が殺到し、刺客を膾切りにした。腕や脚が宙に飛び、血煙が舞った。
公孫述は槍を抑えたまま落馬した。そして、息も絶え絶えのまま、宮殿に担ぎ込まれた。
「陛下……あなた!しっかりして!」
公孫述は妻の手を取ると、言った。
「約束を……守れなくて……済まない」
「そんなことない、ないわ」
公孫述の妻は夫の右手を強く握りしめた。
「延岑……延岑はおるか」
延岑は既にそばに侍っていた。公孫述は既に視界も暗くなっているようだった。延岑はだらりとぶら下がった述の左手を取った。
「ここに、おりまする」
「友よ……後事を……託す」
公孫述の手から温もりが失われていくのを延岑は感じた。
巴蜀の支配者、成の白帝公孫述の最期であった。
2
深夜、延岑が自室に戻ると屈狸が大きな頭陀袋を持って待っていた。
「陛下は亡くなったんでしょう。明日にはここも落ちます。逃げましょう」
「ああ、北の湖のほとりから苗族の土地を抜ければ、見つかる事なく蜀を脱出できる。小僧はそうするがよかろう」
「なんでそんな他人事みたいに。親分も行くんでしょう」
延岑は口元に微かに笑みを浮かべていた。
「俺は行かん。ここでさよならだ」
屈狸は目を見開いた。
「そんな……冗談はやめてください。俺の親分はそんなに潔いご立派な人じゃあない。今までだっていの一番に逃げ出してきたじゃあないですか」
延岑は目を瞑り、ゆっくりと首を左右にふった。
「俺はもう、お前の親分である前に、成の大司馬だ。陛下に後事を託された。ここを離れるわけにはいかんのだ」
屈狸の目から涙が溢れた。彼は延岑に飛びつくと胸をどんどんと叩き、そんなの駄目だ、駄目だと繰り返した。
「聞き分けろ!」
延岑は屈狸を振りほどくとその顔を拳で殴りつけた。
後ろに倒れて泣きながら脚をじたばたさせる屈狸を、延岑は助け起こした。そして、腰の剣を外すと屈狸に押し付けるように渡した。それは公孫述から賜った、豪奢な誂えの、白鞘の剣であった。
「呉漢に取られるのは癪だ。お前が持っていけ」
屈狸はよろよろと欄干に向かった。延岑はその傴僂の背中に手を置いて、言った。
「達者でな、屈狸。その剣、ほんとに金に困ったら、売っても構わんぞ」
「誰が……売るもんか!売ったりするもんかよ!馬鹿にすんな」
屈狸は鼻水をすすると欄干から飛び降り、宮殿の下階の屋根を猿のようにかけていった。一度だけ振り返り、延岑と目を合わせたが、またすぐに駈け出して、やがて見えなくなった。
翌日の朝、延岑は全軍に戦闘の中止を命じ、呉漢に降伏した。呉漢の三白眼は、冷酷な光を湛えていた。
「我が君はお前を、お前達を赦すやもしれん。だが!それをさせないのが、私の役目だ!」
「やっぱり、そう来たか」
げらげら笑う延岑の首を、呉漢は自らの手で刎ねた。
「ここまで楯突いた者共の痕跡を、将来に渡って残すのは害悪である。公孫述の一族を皆殺しにし、宮殿に火を放て!財物は全て奪え!」
長い遠征で生死の境を渡り歩いてきた漢兵達の倫理観は、既に常ならざるものとなっていた。暴力と火焰が奔流となって成都を襲った。老若男女を問わず、殺戮の嵐が吹き荒れた。
公孫述の妻、成の皇后は燃え上がる宮殿の欄干に手をついて、夫の創った国の滅亡を眺めていた。
「いたぞ!皇族は全て殺せ!」
背後からいきり立った兵士の声が聞こえた。皇后は欄干から身を乗り出した。
目下に広がる炎は金色の光を放って、きらびやかな成の宮殿の、その全てを包み込んでいた。
ーー花のような美しい国を創って、お前に捧げようーー
「あなたは約束を守ってくれたわ。ほら、この国は、滅ぶ時でさえも、こんなに美しいじゃない」
皇后は袖を広げると、灯りに吸い寄せられる蛾のように、静かに炎の中に舞い降りていった。
建武十二年十一月、こうして成の国は滅亡した。長きに渡る益州攻略戦は、ここに終結したのである。




