第百八章 死中救生
1
延岑は宮殿の廊下を急いでいる。遂に呉漢が城壁を破り、郭内に侵入したというのだ。
「延岑、ああ、良かった。探していたのです」
延岑を呼び止めたのは公孫述の皇后であった。蚕蛾の刺繍が施された光沢のある絹の着物を召している。述が挙兵した時に賊から救われて結ばれたという事情もあってか、述とは仲睦まじい夫婦であった。夫よりも大分年下で、容色も一向に衰えを見せなかったが、今その表情は不安に曇っていた。
「皇后陛下、ご機嫌麗しく……は無さそうですな。どうなされましたか」
「陛下のご様子がおかしいのです。一昨日に恢様が戦死されてから、私が話しかけても上の空。城壁が破られたと聞いた今朝からは、ずっとうわ言を繰り返していて……あの冷静な陛下が……。陛下はそなたを頼りにしています。そなたの言葉なら耳に届くかもしれません」
つい先日には娘婿の史興が亡くなり、一昨日は弟の公孫恢が命を落とした。特に公孫恢は挙兵の際に活躍した猛将で、述の頼みとする男であった。彼が臧宮に敗れて斬殺されたという知らせは、兄である公孫述にとって衝撃が強かったのだろう。心が弱りきっているところに、呉漢侵入の報が届いたのだ。
「承知しました!この延岑にお任せあれ」
延岑がわざとらしく胸を反らして拳でどんどん叩くと、皇后は微かにだが口元に笑みを浮かべた。
玉座の間に入った延岑は、眩いばかりの黄金や財宝・珍宝がうず高く積まれているのを見た。絹の交易等によってもたらされた富である。財宝の山に埋もれるようにして、公孫述がもぞもぞと動いていた。
「どうしよう……どうしよう……どうしよう」
虚ろな目をして財宝にへばりつく公孫述。延岑は駆け出した。
「こんなもの!」
延岑は財宝の山の中で一際目立つ、黄金の獅子の像に蹴りを見舞った。派手な音を立てて像が倒れた。
「延岑か……もう……どうしようもない……終わりだ……おしまいだ」
「失礼」
延岑は公孫述の襟首を掴むとその頰を平手打ちした。
「痛ッ、貴様、なんのつもりだッ!」
「目が覚めたようで結構」
公孫述は延岑を見つめた。延岑もまた公孫述を見据え、そして言った。
「男児たるもの、死中に生を求むるべきです。座して窮してはいけません。財宝など、生きていればまた得られます」
延岑は金細工の施された箱を蹴飛ばした。横倒しになった箱の中から大小の真珠が転がって波のような音を立てた。公孫述は波の音が静まるまで瞑目し、再びその目を開いた時には延岑のよく知るこの男の顔に戻っていた。
「私としたことが、無様なところを見せたな。早急に対策を立てねばならん。何か良い策はあるか」
「それでこそ陛下です。……宮殿に至るまでに、呉漢は必ず橋を渡ります。そこを、決死隊を集めて襲撃します。問題はそんな命知らずが集まるかどうか」
宮殿に至る道には大きな運河が走り、橋を超えなければ辿りつくことは出来ない。橋梁通過時の蝟集は、最後と言っていい攻撃の好機であった。
公孫述は金貨を掬いあげて、しげしげと見た。
「これらを全て放出すれば、どうか」
「全て?確かに……これだけあれば。しかし、良いのですか?」
公孫述は金貨を指で弾くと、はにかんだ。
「こんなものは、生きていればまた得られる。そうだろ」
「ははは、左様。確かにそう言いました。景気よく行きますか!」
二人は金銀を手に掴むと宙に放り投げて笑った。
こうして、眩いばかりの財宝は、命知らずの男達五千人へと変わった。
2
呉漢達が宮殿へ向かう橋へ差し掛かると、運河は前日の雨で激流になっていた。流されたら、ひとたまりもない。その時、闇夜に太鼓の音が耳も割れんばかりに鳴り響いた。松明が灯り、数えきれないほどの旗指し物が浮かび上がった。その中心には延岑その人があった。
「貴様が呉漢か!烏桓だか左岸だか知らないが、あんまり来るのが遅いんでロバにでも乗っているのかと思ったぜ。遅れた分は駆け足で黄泉に送って帳尻を合わせてやる。とっととかかってこい」
「ふん、それは此方の台詞だ。そんなに死にたいなら、殺してやる。死にたくなくとも殺すがな」
呉漢を囲んで烏桓突騎達が橋に差し掛かると、延岑は剣を振り上げた。一斉に旗指し物が投げ捨てられると、呉漢の背後から鬨を作った凡そ四千の決死隊が襲いかかった。
「残りは橋を塞げ!絶対に渡らせるな!」
「糞ッ!後ろからだと!正面は囮だったか」
橋の後ろから追いまくられた呉漢軍は混乱し、運河に落ちて流される者が続出した。背面の軍に加わっていた屈狸は混戦の中で呉漢を見つけると両手の爪を繰り出した。
呉漢の鈍く輝く戟が爪を弾き返す。三白眼が屈狸を睨めつけるように光った。屈狸は寄声をあげて、呉漢ではなく呉漢の馬の鼻面を爪で切り裂いた。
馬は高くいななくと、前脚を高く振り上げ、呉漢を振り落とした。高午は主の危難に気がついたが、間に合わなかった。
馬から放り出された呉漢はそのまま運河に落ち、そして流されていった。
「やった!呉漢を殺ったぞ!」
「主が、まさか!撤退……撤退ダ!」
高午は敗軍をまとめて撤退するのがやっとであった。
この捷報は直ちに公孫述にもたらされた。
「大司馬呉漢が死んだとなれば、あとは銅馬帝劉秀が親征をしてくるのみ」
「それも直ぐには来れないでしょう。態勢を立てなおし、準備を万端にして、親征軍を迎え撃てます」
「そこで劉秀を殺すことが出来れば、我々の勝ちも同然であるな。ははは、此度の働き真に見事であった」
こうした公孫述と延岑の喜びとは対照的に、呉漢軍の陣には沈鬱な空気が流れていた。
高午は焚き火を見つめていた。捜索したが、流された呉漢の遺体を発見することが出来なかった。この軍は劉尚に引き継がれるのだろうか、といった現実の諸問題も山積しているが、そんな事は全て些末事に思えた。彼の意識を支配しているのは、主を守れなかった自分に対する自責の念だった。
炎の前に呉漢の影が揺らめいた。幻を見るまでになったか、と高午が苦笑すると、その影は声を発した。
「凍え死ぬ。着替えを持ってこさせてくれ」
「主ヨ!真に主ですカ!」
全身ずぶ濡れで、がたがたと震える呉漢がそこにいた。
「流されてる途中で水を飲んでいる馬を見つけ、尾を掴んだら抜け出せた」
この主は鬼神の加護を受けているに違いない、と高午は感じた。もっとも、当の呉漢は鬼神の類いを信じないのだが。
着替えをし、葷で作った湯で身体を温めると、ようやく呉漢の震えはおさまった。
呉漢は人払いをすると、高午だけを焚き火の前に呼んだ。高午は生還の祝いにと馬乳酒を振る舞った。呉漢は珍しく二杯、三杯と空けていった。
何杯目かの盃を見つめて、呉漢は静かに呟いた。
「お前だけにしか頼めない仕事がある。聞いてくれるか」
「聞かずとも、大体わかりまス」
高午は静かに盃に口をつけた。呉漢は盃をじっと見つめ続けていた。
炎が揺らめき、二人の姿は闇の柱となって浮かび上がった。闇の柱は成都に向かってどこまでも伸びていった。




