第百七章 呉漢の蜀攻め
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江州に籠城していた田戎は呉漢の命を受けた漢軍の猛攻撃を受け、自身が得意とする水上に決戦の場を移した。旗艦というべき田戎の戦艦を中心に大小の船が並ぶ。それを取り囲む漢軍の船の方が数こそ多いが、田戎の船はその優勢を感じさせない怪物であった。
「この赤樓帛蘭船こそが我が真の要塞である!全門放てえ!」
巨大な船体の欄干には蜀の誇る絹の飾りがふんだんに施され、赤く彩られた櫓は正に楼閣のようであり、見る者をその威容で圧倒した。田戎の号令により、船体の四方八方に取り付けられた巨大な弩が矢の代わりに石弾を撃ち出した。
漢軍の出した追跡の船は次々と沈められていく。沈みゆく船から河に飛び込む漢兵を見て、田戎は高笑いした。
しかし、しばらくして様子のおかしい事に彼は気づいた。飛び込んだ漢兵が沈むことなく真っ直ぐ田戎の水上要塞へと近づいてくるのだ。弓矢で攻撃するように命じたが、顔を起こした漢兵達は水黽のように巧みに水上を這い、矢はことごとく外れた。
漢兵達は船に取り付くと鉤爪を使って船体をよじ登り始めた。剣や戟で打ち払わせるが、なにしろ船が大きすぎるので全周を防護するのが甚だ困難である。遂に船内に踊りこんだ漢兵達と田戎の兵たちの間で白兵戦となった。鎧を着ているとは思われぬ俊敏な動きで、漢兵は田戎の兵を圧倒した。漢兵達は田戎の籠もる赤楼へとなだれ込んだ。
田戎は自らの八稜錘で向かって来る漢兵をなぎ倒した。侵入してきた最後の一人を渾身の一撃で叩き潰す。鎧の中身たる兵士は重みで死んだが、鎧の方は妙な手応えでわずかにへこんだだけだった。なんだこの鎧は、と彼は訝しんだ。その時、遅れて部屋に入ってきた者があった。
「驚いたか。亡き岑彭様が残された藤甲である」
岑彭は南蛮の首長から様々な産物を受け取っていた。この藤甲もその一つである。蛮地の奥深くに育つ藤を油につけこんで加工すると、丈夫で軽く水にも浮かぶという奇妙な鎧となるのだという。
「貴様は・・・見逃してやった恩を忘れて攻めてきたのか!」
田戎の前に現れたのは夷陵の攻防戦で破り、裸に剥いて放り出した馮駿であった。
「恨みこそあっても、恩などあるものか!恥をすすいでくれる」
「望むところよ、返り討ちにしてくれるわ・・・あ、あれ」
田戎の八稜錘は漢兵の屍ごと床にめり込んでいた。錘の頭が床板に引っかかり、抜けない。
「おい!待て、大丈夫たるものがこんな勝ち方で恥ずかしくはないのか」
馮駿は首を横にふると手にした剣を一閃した。
大将と旗艦を一挙に失った成の水軍に組織的抵抗は難しかった。多くの兵が艦と運命を共にし、溺死者が水面を埋めた。
江水が陥落した時期と前後して、成都北方の武都郡を馬援が攻略。東方に布陣した臧宮、そして西方から迫る呉漢。成都の公孫述は四面楚歌の状況に追い込まれつつあった。
2
怒涛の勢いで広都まで駆け上った呉漢であったが、ここに来て進軍を停止した。洛陽の劉秀が公孫述へ降伏の猶予を与えるのだと言うからだ。
また、軍の運用に関しても注文があった。必ず広都に拠りて無理をせず、敵が攻めてこない場合だけ陣を進め、敵が疲労してきてから三方の軍を糾合して倒せとの事である。
「攻め方はともかくとして……ここまで来て降伏するようなタマではあるまい」
劉秀の号令がかかるまで攻撃は出来ない。呉漢は苛立ちを抑えて床についた。
草木も眠る丑三つ時。物音、そして若干の悲鳴。呉漢は飛び起きた。
警戒の隙をつかれて殺された来歙。奴隷に化けた刺客に殺められた岑彭。呉漢は彼らの死を教訓に警戒の兵を二倍に増やし、要所に烏桓突騎の精鋭を配置した。捕虜は取らないし、面会者にも絶対に会わないという徹底ぶりだった。
--故に隠密に殺すのを諦めて、襲撃をかけてきたのか--
呉漢は寝台の横から戟を取り、扉に近づいた。扉の向こうから高午の声がした。
「主よ、ここは危なイ。一旦出てくださイ」
「わかった」
呉漢はそう言うと、扉に向けて戟を突いた。
破られた扉が開き、白い仮面をつけた男が腹を押さえて呻いた。
「何故……わかった」
「勘だ」
男はそのまま崩れ落ちた。
本物の高午は、別の場所で賊と戦っているのだろう。自力で切り抜けねばなるまい。
呉漢は振り向かずに、右手を後方に突き出した。
「がはッ……ば、化物め」
「口から剣を出すような奴に言われたくないな」
呉漢は振り向いた。彼の右手は口から長剣を取り出そうとする仮面の男の腕を捕らえていた。
「漢の将軍はどいつもこいつも間抜けなのかと……油断したぜ。こないだ殺った奴の阿呆面、笑かしてくれたなぁ」
呉漢は目を見開くと男の腕を下に引き下ろした。仮面の男は柘榴のように口から股間まで裂けて死んだ。呉漢は浴びた鮮血で身体が温かくなるのを感じた。
その時、本物の高午が駆け込んだ。高午もまた返り血を浴びている。
「さすが主ヨ。無事だったカ」
「成都を落とす……急ぎ支度をせよ」
呉漢の口調は平静と変わらない。しかし、高午はその声音に宿る怒りを感じ取った。
3
成都攻略のために集結した呉漢の軍勢、その布陣を知った公孫述は生気を取り戻した。
「怒りに我を忘れたか、呉漢。銅馬帝の右腕ともあろうものが、かように愚かな采配をするとは」
成都のごく近傍に布陣した呉漢、その後方に位置し支援する役目の劉尚。互いの距離は呉漢と成都の間よりも離隔し、しかも河川によって遮られている。相互支援は困難であった。
「一部の兵を割いて川沿いに迂回させ、劉尚を引きつけよ!延岑は主力を率いて呉漢を包囲!直ちにかかれ!」
延岑は白馬にまたがると、諸将と大部隊を率いて呉漢を包囲し、攻勢をかけた。
「都を守る護国の忠士よ、悪しき侵略者を打ち払えッ!かかれぇッ!」
成の首都を防衛する主力部隊の士気は高い。対して呉漢側は強行軍による疲労の色が濃い。
綻びは末端の兵士に含まれる叛徒から生まれた。猛攻撃に耐えかねて武器を棄てて逃げる者が出始めたのだ。延岑は屈狸に命じてその穴を拡げさせる。
「主ヨ、これハ……!」
「く、止むをえん。退却する!」
烏桓突騎が退路を拓き、呉漢は陣地に設けた堡塁に後退した。後退したはいいものの、敵は堡塁の近くまで陣を進めており、袋の鼠であった。
堡塁には劉秀からの書状が届いていた。
“布陣についての報告を見た。公は千条万端に整えねばならないのに、何故そんなに慌て乱れるのか。公は既に敵中に深入りし、劉尚とは離れすぎている。危急のことがあっても、会うことすら難しい。公孫述が兵を繰り出して公を足止めし、大軍をもって尚を攻め、尚が破れれば、即ち公も破れるだろう。幸いにもまだ無事ならば兵を率いて広都に戻るように。これは勅命である。”
自分は今、陛下が洛陽で予想した通りに敵に蹂躙されている。呉漢は恥ずかしさで頭の奥が煮えてしまうのではないかと思った。陛下が戦場から何千里も離れて見ているものが、自分には全く見えていなかった。怒りに目が曇って一寸先さえも、目に入っていなかった。
呉漢は自らを譴責する文章をしたためると、部下を集めた。
「私と諸君はともに険阻を乗り越え、転戦すること千里、いたる所で賊を破り、ついにその本拠地に到達した。しかし、今や劉尚とともに二箇所で包囲され、連携もままならず、その禍は量り難い。そこで、ここを密かに脱出し、尚と合流して再戦する」
呉漢は諸将を見渡して、その目がまだ死んでいないことを確認した。それは諸将の方も同じだ。
彼らは大司馬呉漢の三白眼に宿る炎がまだ消えていないのを確かめた。
「失敗すれば全滅だ。しかし、心を同じく、力を一つにすれば必ず出来る!勝つか負けるかはこの一挙にかかっている!」
諸将は“諾”と一斉に返した。諾、とは“承知した”という意味である。
演説の夜から三日間、呉漢の籠もる堡塁からは狼煙が上がっている。延岑は軍の一部を劉尚攻めに合流させ、先に片付けさせることにした。しかし、その軍勢は期日までに戻ってこなかったので、業を煮やした延岑は残りの兵だけで堡塁に攻め入った。だが、そこには大量の狼煙の燃え滓が残っているだけだった。
「も、もぬけの殻だと……まずい!」
屈狸が堡塁の中に飛び込んできた。
「親分、大変だ。劉尚攻めの軍が全滅したそうだ」
延岑の送った二人の蜀将は劉尚を攻めるだけだと思っていた。死が目前に現れるまで。
彼らを待っていたのは呉漢率いる主力を含めた大軍であった。
「夜間に、全く気づかれずに十万の軍を動かしたと言うのか。信じられん」
呉漢は勝利を収めると広都に戻った。劉尚は警戒部隊として城の外に置いている。もちろん反省を生かしてすぐに救援に行ける距離だった。
広都の呉漢のもとに、劉秀からの新たな書状が届いた。
“広都に戻ったのは優れた判断だ。私の見るところ、公孫述は無理をしない性格と見た。劉尚を陽動として使い、確実に勝てる戦いだと錯誤させて誘き寄せよ。戦場は広都から五十里の間に限定し、相手がかかったら、必ず全軍で叩くように。公ならば必ず勝てる”
呉漢は劉秀が持つ英明神武の才と、その寛容の心にひれ伏しそうになった。
あれだけの失敗をして、なんの咎めもないというのか。
呉漢はその優しさを噛み締めながらも、首を振った。
「最大の美点は、弱点にもなり得る。軍略に関しては、二度と逆らわない……だが」
呉漢は劉秀の指示通りに動き、広都と成都の間で八戦し、八勝した。
漢と成との戦いは最終局面を迎えようとしていた。




