第9話 無様に転ぶ
「ど、どきなさいよ美優!」
美幸の声が教室に響いた。
目の前にいる妹を睨み付けている。
けれど美優ちゃんは両手を広げたまま動かない。
「いやだね。通さないから」
きっぱりと言い切る。
俺と話していた時の柔らかい声とは違う。
美幸が一歩近づいても少しも下がらない。
「ふざけてる場合じゃないでしょ! 拓海があんなことされてるのよ!」
「見れば分かるよ」
「だったらどいて!」
「いやだって言ってるじゃん」
美幸の眉がぴくっと動いた。
言い返されるとは思っていなかったらしい。
口を開きかけて、それから俺の方を見た。
ようやく目が合った。
昨日の屋上では俺の顔を見て楽しそうに笑っていた。
今は違う。
どうにかしてよ。
そんなことを言いたそうな顔だった。
「謙也も見てないで何とか言ってよ!」
「……俺?」
「ほかに誰がいるのよ!」
急に声を向けられて肩が固まる。
何を言えばいいんだ。
美優ちゃんに、どいてあげてって?
海ちゃんに、もうやめてって?
俺だって、こんなことになるとは思っていなかった。
教室へ入って自分の席に座る。
ただ、それだけのつもりだった。
「謙也さんに言わないで」
美優ちゃんが俺と美幸の間へ少しだけ体をずらした。
「私が通さないって言ってるんだから私に言えばいいでしょ」
「だから言ってるじゃない!」
「うん。聞こえてるよ」
「だったら!」
「聞こえてるから嫌だって答えてるの」
美優ちゃんは目を逸らさなかった。
「……あんた、昨日からなんなの?」
美幸の声が少し低くなった。
「帰ってきても無視するし。今朝だって勝手に先に行くし」
「一緒に行く約束なんてしてないよね」
「そういうことじゃなくて!」
美幸が苛立ったように足を踏み鳴らす。
「美幸……」
頼りない拓海の声が聞こえる。
美幸が美優ちゃんの肩越しに拓海を見て唇を引き結ぶ。
「もういいから、そこをどいて!」
「どかない」
「美優!!」
「名前を呼んでも同じだよ」
「この!」
美幸が急に動いた。
美優ちゃんの右側へ大きく踏み出す。
広げられた腕の外側を強引に切り抜けようとする。
美幸の肩が美優ちゃんの腕を押しのける。
「おっと」
美優ちゃんの足が美幸の進む先へすっと出る。
次の瞬間、美幸はその足につまずいた。
「キャッ!?」
小さな悲鳴。
美幸の体が前へ傾いた。
踏み直そうとした足が追いつかず、伸ばした手が床につく。
そのまま盛大に転ぶ。
「……っ〜〜」
美幸の黒い髪が顔へかかる。
さっきまで美優ちゃんを睨んでいた顔が今は伏せられていた。
教室の後ろの机が置かれていないスペース。
その床に美幸は両手をついていた。
「いたたっ……」
ゆっくりと顔を上げる。
みんなが転んだ美幸を見ていた。
さっきまで拓海たちを見ていた連中まで、こちらへ顔を向けていた。
「……なに、見てるのよ」
美幸が周りを見回す。
近くの女子が困ったように目を逸らす。
誰かが笑ったわけじゃない。
からかったわけでもない。
それでも美幸は顔を赤くしていた。
膝についた埃を強く払い、慌てて立ち上がる。
髪を耳にかけようとした指が、うまく引っかからなかった。
もう一度乱暴に払ってから、美優ちゃんを睨み付ける。
「な、何するのよ!」
さっきより大きな声だった。
美優ちゃんは答えない。
「今わざと足をかけたでしょ!」
「……」
「聞いてるの!?」
美幸が詰め寄った。
もの凄い剣幕だった。
俺には、怒っているだけじゃなく、必死になっているようにも見えた。
転んだところを、みんなに見られた。
妹に邪魔されて、その妹の前で床に手をついた。
早く何か言わせたい。
謝らせたい。
そうじゃないと、この場に立っていられないみたいだった。
「美優、あんたね!」
美幸の手が上がった。
美優ちゃんの肩へ伸びていく。
「ちょっと……」
俺の声は最後まで出なかった。
美優ちゃんが美幸を見た。
パァン!!
空気を引き裂くような甲高い音だった。
俺は思わず息を止めた。
美幸の顔が横を向いていた。
黒い髪が遅れて揺れる。
美優ちゃんの右手が美幸の頬を打ったんだ。
「え……」
美幸の口から小さな声が漏れた。
伸ばしかけていた腕が、そのまま宙に浮いている。
何が起きたのか分からない。
そんな顔だった。
ゆっくりと美優ちゃんへ視線を戻す。
それから自分の頬へ手を当てた。
指先で触れて、ようやく痛みに気づいたみたいに眉を寄せる。
「……美優?」
名前を呼ぶ声が、さっきとは違っていた。
怒鳴りつける声じゃない。
まさか、という響きだった。
美優ちゃんは手を下ろした。
その指先が、わずかに震えていた。
「な、なんで……」
美幸が頬を押さえたまま呟く。
「何するのって……」
静かな声だった。
美幸が口を閉じる。
美優ちゃんが半歩だけ前へ出る。
今度は美幸の方が、わずかに後ずさる。
「それはこっちのセリフよ! クソ雑巾!!」




