第7話 教室の前で
教室はすでに目の前だった。
前の扉からクラスの皆の話し声が聞こえる。
いつもと変わらない朝の教室。
「…………」
俺の足は床に張り付いたみたいに動かなかった。
進めさえすれば教室に入れる。
自分の席まで行って、カバンを置いて、いすに座る。
今日は、その一歩がどうしても踏み出せない。
扉の向こうで誰かが笑った。
肩がわずかに動く。
俺のことじゃない。
分かってる。
『もしかして本気で信じちゃってた?』
昨日のできごとが頭に呼び覚ます。
「謙也さん?」
美優ちゃんが隣から心配そうに顔をのぞき込んでくる。
白い髪が視界のはしで揺れた。
「大丈夫ですか?」
「目の前なのに俺……」
情けない。
家まで迎えに来てもらった。
海ちゃんに昨日のことを知ってもらった。
二人とも俺を笑わなかったし、ここまで一緒に来てくれた。
「ごめん……待って」
カバンの紐を強く握る。
息を吸って吐いた。
自分の席まで歩くだけだ。
美幸も拓海も見なければいい。
俯いて通り過ぎればいい。
「……っ」
「大丈夫だよ! うちがいるから!」
すぐ隣で明るい声がした。
カバンを持ってない方の手に温もりが触れる。
指先をそっと包まれて俺は顔を上げた。
海ちゃんだった。
俺の手を優しく握ってくれていた。
「……海ちゃん」
「うん。ここにいるよ」
茶色の目がまっすぐ俺を見る。
兄の話を聞いた時とは、まるで違う顔だった。
声も柔らかい。
俺が何も言えずにいると、海ちゃんは繋いだ手を少しだけ持ち上げた。
「これなら一人じゃないでしょ?」
「…………」
「歩くのは謙也君に合わせるから」
海ちゃんは無理に引っ張ったりしなかった。
「わ、私もいますからね!」
反対から声がした。
美優ちゃんが俺の手元を見つめている。
「カバンから手を離せますか?」
「あ……うん」
空いた手を美優ちゃんがすぐに握る。
少し慌てた動きだった。
「私も、一緒に入ります」
「美優ちゃんまで……」
「まで、じゃありません。私もです」
美優ちゃんが俺を見上げる。
「……うん」
「だから一人で頑張らないで下さい」
右にも左にも温もりがある。
俺はつないだ手を交互に見た。
海ちゃんと美優ちゃん。
二人とも俺から離れようとしなかった。
「うちらが送れば席まで行けるね」
「はい。そこまで一緒です」
「いや教室で迷ったりしないけど……」
俺の口元がほんの少し緩む。
海ちゃんが嬉しそうに目を細める。
美優ちゃんも小さく笑う。
俺のせいで二人とも遅れたらどうしよう。
手を繋いで入ったら変に思われるかも。
心配は幾らでも浮かんでくる。
「……ありがとう」
海ちゃんが頷く。
美優ちゃんの指に少しだけ力がこもる。
「行けそう?」
海ちゃんに聞かれて、俺は教室の扉を見た。
怖い。
まだ変わらない。
だけど戻りたい気持ちよりも、二人と進みたい気持ちの方が少しだけ大きかった。
「うん。……行こう」
海ちゃんが俺の顔を見てから一歩進む。
俺も足を動かした。
美優ちゃんが同じ速さで付いて来てくれる。
今度はちゃんと前へ出た。
廊下と教室の境目を上手いことまたいだ。
それだけのことに酷く長い時間が掛かった気がした。
「……あれ?」
クラスメイトの視線が集まる。
俺の顔に。
隣にいる二人に。
それから繋いだ手に。
「大中……?」
だれかが俺の名前を呼んだ。
胸がどきっとした。
やっぱり見られる。
手を離した方が良いんじゃないか。
「そのままでいいよ」
反射的に指が動いたけれど、その前に海ちゃんがそっと握り直した。
俺にだけ聞こえる声だった。
「行きましょう、謙也さん」
美優ちゃんも隣から小さく言ってくれる。
俺は頷いた。
いつもの席を探す。
顔を上げた、その先に。
美幸がいた。
友達と話していたらしく、体を半分こちらへ向けたまま止まっている。
水色の目が俺を見ていた。
少し離れたところには拓海もいた。
机に手を置いたまま、こっちを見ている。
その目が海ちゃんへ移って繋いだ手へ落ちた。
俺は一度だけ息を吸った。
右手も左手も離されなかった。
その温もりを確かめながら俺は自分の席へ向かって、もう一歩を踏み出した。




