第6話 二人目の妹
「謙也く〜ん」
金色の長い髪を揺らしながら、その子が駆け寄ってくる。
大きく振っていた手を下ろし、俺の前で足を止める。
肩にかけたカバンが遅れてぽんっと脇腹に当たる。
「……海ちゃん」
「うん! おはよう! 謙也君!」
朝から元気いっぱいの笑顔だった。
南川海。
金髪のロングヘアに大きな茶色の瞳。
白い肌もあって遠くからでもすぐに目に留まる女の子だ。
初めて見た人はギャルっぽいと思うかもしれない。
実際、俺も今の髪色になった海ちゃんを見たときは驚いた。
『どう? 似合う?』
そう聞かれて似合うと答えたら何度も本当か確認されたのを覚えている。
あのときも、こんなふうに嬉しそうに笑っていた。
それと海ちゃんは拓海の妹でもある。
あの拓海の。
「……おはよう」
口にした途端、喉が少し詰まった。
海ちゃんは、なにもしていない。
昨日、屋上にいたわけでもない。
分かっているのに拓海の顔まで浮かんできた。
『美幸のことは諦めてくれよ、謙也』
あの軽い声。
思い出したくないのに。
「どうしたの?」
海ちゃんが首をかしげた。
「なんか元気なさそうだけど。まだ眠い?」
「あ……いや」
「もしかして夜更かしした? ゲーム?」
「そういうわけじゃ……」
うまく答えられなかった。
ここで大丈夫だと言ったら、また美優ちゃんに見抜かれる。
だからといって海ちゃんになにを話せばいい?
昨日、君のお兄ちゃんに嘘告を仕掛けられたんだ。
そんなことを朝の挨拶の続きで言えるわけがない。
俺が黙ると海ちゃんが心配そうに見つめてくる。
「謙也君?」
「それは私から説明するね」
美優ちゃんが俺の前へ進み出た。
海ちゃんの視線が移る。
「美優じゃん。どうして謙也君と一緒なの?」
「海、それをこれから話すの」
「……なるほど」
海ちゃんが俺と美優ちゃんを交互に見る。
美優ちゃんの表情を見て、なにかを感じ取ったみたいだった。
「美優ちゃん……」
俺が呼ぶと美優ちゃんが振り返った。
「謙也さん、海にも話していいですか?」
「…………」
「私から伝えますから」
俺は海ちゃんを見た。
茶色の瞳が心配そうにこちらを見ている。
さっきまでの明るい顔を曇らせてしまっていた。
できれば昨日のことは思い出したくない。
でも、なにも言わずに違和感のある態度を取られたら海ちゃんだって困るだろう。
「……うん。お願い」
「分かりました」
美優ちゃんが小さくうなずく。
ちょうど後ろから自転車が来たので、俺たちは道の端へ寄った。
海ちゃんもついてきた。
急かすことなく美優ちゃんの方へ体を向ける。
「昨日の放課後、私のお姉ちゃんが謙也さんを屋上に呼び出したの」
「…………」
「話があるって。それで謙也さんに好きだって言った」
海ちゃんの目が、わずかに大きくなった。
でも、なにも言わなかった。
俺はカバンの持ち手へ視線を落とした。
「付き合ってほしいって。幼馴染のままじゃ嫌だって、そう言ったの」
昨日の美幸の声が、また頭の中で重なる。
今は美優ちゃんが話している。
分かっている。
それでも、あのときの顔まで思い出してしまった。
俺を見つめていた目。
顔を伏せた仕草。
照れていると思った。
同じくらい緊張してくれているんだって勝手に安心した。
「謙也さんが返事をしようとしたところで南川先輩が出てきたんだって」
海ちゃんの目がさらに大きく開く。
カバンの持ち手をつまんでいた指が、ゆっくりと握り込まれる。
「扉のところに隠れてたみたい。それで謙也さんを見て笑って……お姉ちゃんとハイタッチしたみたいの」
「…………」
「二人で謙也さんが告白を信じるところを見てたんだよ」
美優ちゃんの声が少し低くなった。
肩が震えているのは分かった。
「南川先輩が嘘告だって言って、お姉ちゃんも、本気で信じたのかって謙也さんを笑ったらしいの」
海ちゃんは黙っていた。
美優ちゃんの顔から目をそらさず、じっと聞いている。
ウソでしょ、とも言わない。
お兄ちゃんがそんなことするわけない、とも言わない。
それがありがたいが同時に怖かった。
今なにを考えているんだろう。
「二人とも謙也さんがお姉ちゃんを好きなことを知ってたんだって」
頬が熱くなる。
昨日まで隠していたつもりの気持ちが、また人に知られていく。
でも美優ちゃんを止めようとは思わなかった。
話していいと答えたのは俺だ。
「だから反応を見てみたかったって。謙也さんの言ったことまで真似して二人で笑った」
海ちゃんの唇が、きゅっと結ばれた。
通りの向こうから生徒たちの話し声が聞こえてくる。
その声が近づいて、また遠ざかる。
俺たちの周りだけ妙に静かだった。
「それだけじゃないよ」
美優ちゃんが続ける。
「そのあとで、お姉ちゃんと南川先輩が付き合ってることも聞いたんだって。しかも先月からだって」
海ちゃんが、ゆっくりと瞬きをした。
俺を一度だけ見る。
目が合った。
俺は、なにか言おうとしたけれど、声が出なかった。
海ちゃんはすぐに美優ちゃんへ視線を戻した。
「目の前でくっついて謙也さんに諦めろって言った」
美優ちゃんが一度、息を吸った。
「謙也さんが立っていられなくなっても、大袈裟だって。ちょっとふざけただけだって」
俺は指先に力を入れた。
あのときの床の硬さまで思い出す。
下から見上げた二人の顔。
自分たちが悪いことをしたなんて、少しも思っていないような声。
俺だけが傷ついて俺だけが動けなくなっていた。
「それで謙也さんを屋上に取り残して二人で帰宅」
「…………」
「私が見つけたとき、謙也さん、まだ屋上にいたの」
美優ちゃんが俺の方を振り返った。
ほんの一瞬だった。
俺は小さくうなずいた。
ちゃんと聞いている。
大丈夫、とまでは言えないけど。
話してくれていることは、全部、昨日あったことだ。
「話を聞いて、一緒に帰って……今日は私が迎えに行ったの。一人で学校へ行かせたくなかったから」
美優ちゃんの声が止まった。
海ちゃんは最後まで口を挟まなかった。足元を見ていた。
長い金髪が頬の横にかかっていて表情が少し隠れている。
「……海ちゃん」
呼んでから、なにを言うつもりだったのか分からなくなった。
困らせてごめん。
そんなことを言いかけて飲み込む。
海ちゃんは、ゆっくり顔を上げた。
「は? なにそれ?」
声は大きくなかった。
でも、さっき俺の名前を呼んでくれた声とは明らかに違った。
明るさも柔らかさも消えている。
海ちゃんが俺を見る。
それから美優ちゃんを見た。
額に青筋が浮かんでいた。
笑顔で手を振っていたのと同じ女の子だとは一瞬思えなかった。




