第5話 次の日
ピンポーン。
自宅のインターフォンが鳴った。
「来たか」
俺はリビングのソファから立ち上がった。
今日は食欲がなかった。
だから朝食も食べていない。
なにか口に入れた方がいいとは思った。
冷蔵庫も開けた。
でも中を見たまま、なにも取らずに閉めてしまった。
水だけ飲んで、それで終わり。
お腹が空いているのかどうかも、よく分からなかった。
昨日のことを思い出すたびに胃の奥が重くなる。
正直、学校へ行きたくない。
美幸や拓海とクラスで顔を合わせたくない。
あいつらは今日も、いつもどおりに話しかけてくるんだろうか。
おはようって。
昨日は面白かったなって。
もし、そんなことを言われたら。
「…………」
考えるのをやめようとして、また別のことが浮かんでくる。
教室へ入った瞬間、全員に笑われるんじゃないか。
拓海が既に誰かに話していたら。
美幸が友達に、昨日こんなことがあったと笑いながら話していたら。
知らないのは俺だけで、もうクラス中に広まっていたら。
そんなことばかり考えてしまう。
制服には着替えた。
カバンの準備もした。
忘れ物がないかも確認した。
あとは家を出るだけ。
なのに、その最後の一歩がどうしても踏み出せなかった。
インターフォンが鳴るまで何度も時計を見ていた。
もうすぐ七時四十五分だ。
そろそろ玄関へ行こう。
そう思いながら、ずっとソファに座っていた。
もし美優ちゃんが迎えに来ると言ってくれなかったら、俺は今も自分の部屋で布団をかぶっていたと思う。
『迎えに来てもいいですか?』
昨日の美優ちゃんの言葉。
俺が遠慮しても私がしたいんですと言ってくれた。
あのとき断らなくてよかった。
本当に心の底から思う。
ソファの横に置いていたカバンを持ち上げる。
「……待たせちゃ駄目だよな」
俺は玄関へ向かった。
足はまだ少し重い。
それでも、さっきまでよりはちゃんと前へ進んでくれる。
カバンを肩にかけて靴を履く。
かかとを踏みかけて慌てて指を入れて直した。
こんなことでなにを焦ってるんだ。
一度息を吐いてドアの前に立つ。
ドアノブへ手を伸ばしたところで、また不安が浮かんだ。
昨日あんなに泣いた俺を見て美優ちゃんはどう思ったんだろう。
情けないところばかり見せてしまった。
今日も暗い顔をしていたら気を遣わせてしまわないだろうか。
せっかく迎えに来てくれたのに俺のせいで朝から嫌な気分になったら。
「…………」
いや、ここで考え込んでいても仕方ない。
いつまでも外で待たせるわけにはいかないんだから。
「は〜い」
できるだけ普段どおりの声を出し、自宅のドアを開けた。
「謙也さ〜ん。おはようございます」
目の前に満面の笑みを浮かべた美優ちゃんの姿があった。
朝の光の中で白いロングヘアがふわりと揺れる。
水色の瞳が、まっすぐ俺を見ている。
俺の知っている、いつもの美優ちゃんの笑顔だった。
「迎えに来ましたよ」
その声を聞いた途端、肩から少し力が抜けた。
「……おはよう」
「はい!」
「ごめん待った?」
「さっき押したところです」
「そっか」
「ドアを叩く出番ありませんでしたね」
「ちゃんと起きたからね」
「偉いです」
「起きただけで褒められるの?」
美優ちゃんが楽しそうに笑う。
俺も、ほんの少し笑えた。
普通に話してくれる。
それが思っていた以上にありがたかった。
「行けそうですか?」
美優ちゃんが尋ねる。
俺は一度、家の中を振り返った。
ソファへ戻ろうと思えば戻れる。
今日は休むと言うことだってできる。
でも。
「うん。行こう」
俺は玄関から外へ出た。
☆☆☆
家の鍵をかけて美優ちゃんと並んで歩き始めた。
朝の住宅街は昨日の夕方とは少し違っていた。
車に乗り込む人がいる。
ゴミ袋を持った人とすれ違う。
少し先では小学生がランドセルを揺らしながら走っていた。
「忘れ物ありませんか?」
「たぶん」
「たぶんですか?」
「確認はしたよ。何回か」
「じゃあ大丈夫ですね」
美優ちゃんはそう言って、前を向いた。
何回も確認したの、と笑われるかと思った。
けれど、そんなことはなかった。
「美優ちゃんは、いつもこのくらいの時間?」
「だいたいそうです」
「俺に合わせて無理してない?」
「してませんよ」
「本当に?」
「昨日も言いました。私が一緒に行きたいんです」
「……うん」
美優ちゃんがこちらを見る。
「もしかして昨日のこと忘れちゃいました?」
「忘れてないって」
「よかったです」
少しだけ得意そうな顔だった。
俺は前を向き直す。
変な感じだ。
家にいたときは頭の中が美幸と拓海のことでいっぱいだった。
なにを言われるか。
どう返せばいいか。
教室に入って目が合ったらどうすればいいのか。
そんなことばかり考えていた。
だけど今は美優ちゃんの声が聞こえると、そちらへ意識が向く。
隣を歩く白い髪が揺れる。
カバンについた金具が小さく鳴る。
美優ちゃんが、なにか言いかけて、俺も顔を向ける。
そのたびに頭の中に浮かびかけた二人の顔が少し遠ざかった。
なにも解決していないのは分かっている。
学校へ着いたら美幸も拓海もいる。
それでも一人で向かうのとは全然違う。
「謙也く〜ん」
後ろから元気な声が聞こえた。
俺の名前が呼ばれた。
思わず足が止まる。
美優ちゃんも立ち止まった。
続けて、ぱたぱたと近づいてくる足音が届く。
誰だろう。
拓海の声じゃない。
美幸とも違う。
俺はカバンの持ち手を握ったまま振り返った。
朝の光を受けて金色の髪が揺れていた。
長い髪をなびかせながら、こちらへ駆けてくる女の子。
俺を見つけて嬉しそうに笑い、片手を大きく振っている。
視界の先にいたのは、金髪ロングヘアの美少女で——。




