第37話 拓海の部屋で
放課後。
海ちゃんの家の玄関で俺は靴を脱いだ。
「お邪魔します」
「どうぞ〜」
海ちゃんが先に上がる。
俺も靴を揃えて、そのあとに続いた。
昨日も来た家だ。
階段の場所も海ちゃんの部屋がどこにあるのかも分かっている。
なのに昨日とは違うところが気になってしまう。
階段の上。
あの廊下にある、もう一つの部屋。
「……お兄ちゃんのところ、先に行く?」
海ちゃんが振り返った。
「うん」
「分かった」
それだけ言って海ちゃんは階段を上がり始めた。
からかうような声じゃなかった。
俺も手すりに手を添えて、一段ずつ上がる。
学校を出る前に海ちゃんには話してあった。
拓海にも自分から伝えたいことがあるって。
海ちゃんは少しだけ黙ったあとで頷いてくれた。
『うちは何も言わない方がいいよね?』
『うん。俺から話すから』
『分かった。傍にはいるね』
その言葉どおり海ちゃんは俺より少し前を歩いていた。
二階に着く。
廊下は静かだった。
俺はカバンの持ち手を握り直す。
今日は自分からだ。
海ちゃんに連れてこられて困った顔で立っているだけじゃない。
拓海の部屋の前で止まった。
「ここだよ」
「うん」
海ちゃんが扉の横に寄る。
俺を見ていた。
何も言わずに。
俺は扉に向き直って手を上げた。
コン、コン。
ノックの音が廊下に響く。
「拓海」
名前も呼んだ。
返事はなかった。
扉の向こうから物音もしない。
寝ているのか。
聞こえていて黙っているのか。
昨日の帰りも、布団に隠れて顔が見えなかった。
俺は少し待ってから、もう一度ノックした。
「少しだけ、話したいんだけど」
やっぱり返事はない。
海ちゃんが俺の顔を見る。
俺は小さく息を吐いた。
ここで待っていても、たぶん何も変わらない。
「……開けるよ」
ドアノブを回す。
鍵はかかっていなかった。
俺はゆっくり扉を押した。
まず床が見えた。
それから机。
閉まったカーテン。
ベッドの上にいた拓海と目が合った。
布団を頭から被ったまま座っていた。
顔の周りだけが開いている。
金色の髪が額に張りついていた。
「け、謙也!?」
拓海が立ち上がった。
飛び跳ねるみたいな勢いだった。
頭に引っかかっていた布団が肩から滑る。
床に落ちた。
拓海はそれを拾わなかった。
俺を見たまま片足を後ろへ引いている。
「な、何で……」
そこまで言って俺の後ろに目を向けた。
海ちゃんに気づいたらしい。
口元が少し歪む。
海ちゃんは何も言わなかった。
扉の外で立っているだけだ。
俺は部屋の中に一歩入った。
「拓海、ちょっと時間いい?」
「な、何だよ」
目が逸れた。
机の方に。
それから床に。
俺の顔を見たくないんだろうな。
その気持ちは少し分かった。
俺も学校で拓海の顔を見たくないと思っていたから。
「そんなに長くはかからないよ」
そう言うと拓海が唇を舐めた。
「……海に何か言われたのかよ」
「違う」
俺は首を横に振る。
「俺が話したくて来た」
「話すって……」
何か言いかけてやめる。
また俺から目を逸らした。
前は、もっと簡単に話していた。
ゲームのこととか。
次の体育のこととか。
腹が減ったから何か買って帰ろうとか。
拓海が先に喋って俺が聞いていることが多かったけど。
それで普通に笑えていた。
今は、お互いに次の言葉を待っている。
こんなふうになるなんて思っていなかった。
屋上に行く、あの日までは。
「拓海」
もう一度呼ぶ。
拓海の肩が小さく動いた。
「拓海が不登校になって学校に来なくても俺にはもう関係ない」
拓海が顔を上げた。
「もう関わることはないと思う。それだけ」
言い終わってから俺は息を吐いた。
拓海は何も言わなかった。
開きかけた口が、そのままになっている。
俺は返事を待たずに背を向けた。
伝えに来たんだ。
どうしたら前みたいに戻れるのか、相談しに来たわけじゃない。
部屋の出口に向かう。
床に落ちた布団を避けた。
拓海が動く気配はなかった。
俺を呼ぶ声もない。
扉の外では海ちゃんが待っていた。
俺と目が合う。
心配そうに眉を寄せていた。
俺は小さく頷いて、それから足を止める。
このまま出ていけば、それで終わりだ。
言いたかったことは、もう言った。
でも。
ちらっと部屋の中を振り返った。
拓海は、さっきと同じ場所に立っている。
目線だけが俺の方を向いていた。
「将来のことを考えて不登校はやめた方がいいと思うけどね」
拓海の眉が動いた。
俺も言ってから少しだけ口を結ぶ。
学校に来るのが怖いことくらいは分かる。
俺だって教室の前で足が止まった。
入るだけなのに、どうしても動けなかった。
だから簡単に来られるだろうとは思わない。
それでも。
この部屋で布団を被ったまま、ずっと一人でいるのかと思ったら。
何も言わずに帰るのは少しだけ引っかかった。
「……じゃあ」
俺はそれ以上、続けなかった。
学校に行くかどうかも。
明日どうするかも。
拓海が決めることだ。
ドアノブに手をかける。
最後に見えた拓海は何か言葉を探すみたいに口を動かしていた。
でも声にはならなかった。
俺は部屋を出て扉を閉めた。
音は小さかった。
手を離す。
……終わった。
「謙也君」
海ちゃんが呼んだ。
「大丈夫?」
「うん」
朝も同じことを聞かれた。
美幸に話したあとも。
たぶん俺、そんなに大丈夫そうな顔をしていないんだろう。
海ちゃんが俺の手元を見る。
それから、また顔を見た。
「……そっか」
それだけだった。
拓海に何を言ったのか、よかったのか悪かったのか。
海ちゃんは何も付け足さない。
ただ俺の傍にいてくれた。
それが、ありがたかった。
「それじゃあ、行こっか。海ちゃん」
「うん」
海ちゃんの声が少し柔らかくなる。
俺たちは廊下を歩き出した。
拓海の部屋の扉は、もう見なかった。
海ちゃんが自分の部屋の前で足を止める。
ドアノブに手をかけてから俺の方に振り返った。
「お茶、飲む?」
「……うん。もらおうかな」
「昨日と同じのでいい?」
「ありがとう」
海ちゃんが扉を開ける。
昨日も見た机とベッドが目に入った。
俺は、ついそちらを見てしまう。
海ちゃんが気づいた。
「今日も、そこ座る?」
「いや、まだ何も言ってないよ」
「うん。聞いてみただけ」
小さく笑った。
いつもの、少しだけいたずらっぽい顔だった。
俺も口元が緩む。
「……まずは、お茶で」
「は〜い」
海ちゃんが楽しそうに返事をした。
俺は部屋に入って、カバンを下ろす。
後ろで扉が閉まった。
さっきまで握りしめていた手を開く。
もう一度、ゆっくり息を吐いた。
今は、この部屋にいる。
海ちゃんが俺を見ている。
俺も、そちらに顔を向けた。




