第36話 絶縁
教室の後ろの戸に目を向ける。
まだ来ていない。
俺は自分の席に座ったまま机の端を指でなぞった。
教科書も筆箱も、もう出してある。
カバンも机の横に掛けた。
やることがなくなると、また戸の方を見てしまう。
「謙也さん」
右側から呼ばれる。
美優ちゃんが俺の顔を覗き込んでいる。
「……うん?」
「お茶、飲みますか?」
手には水筒があった。
「あ、いいよ。大丈夫。ありがとう」
「そうですか」
美優ちゃんは水筒を胸の前に戻した。
でも俺から目を離さなかった。
左側には海ちゃんがいる。
さっきから机に手を置いたり、離したりしていた。
二人とも自分の教室にカバンを置いてから来てくれた。
いつもの朝。
いつもなら他愛のない話でもしているころだ。
でも今日は俺が何度も戸を見ているせいで会話はあまりない。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
俺が言うと海ちゃんが眉を下げる。
「うん。でも」
「分かってる。ありがとう」
俺は一度、膝の上で手を開いた。
それから、また軽く握る。
今朝、二人にはもう話した。
これ以上、美幸や拓海を攻撃しなくていいって。
それで終わりにするつもりだった。
でも学校へ来る途中で昨日のことがまた頭に浮かんだ。
俺の目の前で床に頭をつけて土下座してきた美幸。
何度も、ごめんなさいと言っていた声。
俺は何も返せなかった。
驚いて。
周りの目も気になって。
何を言えばいいのか、最後まで分からなかった。
このままでいいのか。
また今日も返事を求められるんじゃないか?
そう考えたら落ち着かなくなった。
だから今日は俺から話す。
短くていい。
うまく言えなくてもいいから。
がらっ。
戸の開く音がした。
俺は顔を上げる。
美幸だった。
昨日と同じように入り口で少し立ち止まる。
長い黒髪が肩のあたりで跳ねていた。
いつもなら、あんなふうにはなっていなかった。
髪を直しながら友達のところへ行って。
何か言って笑って。
俺を見つければ、ついでみたいに名前を呼んできた。
今日も誰にも声を掛けない。
目の下には隈がある。
顔色も悪かった。
肩が落ちていてカバンまで重そうに見える。
昨日から、ほとんど変わっていない。
いや昨日より生気がない気がした。
美幸が教室の中に入ってくる。
一歩。
また一歩。
上履きの底が床を擦った。
普段なら簡単に通り抜ける机の間でも何度か足を止めていた。
カバンが椅子に当たらないように持ち上げる。
その動きも遅い。
ひどい顔だな。
そう思ってから少し胸が重くなった。
見ていて何も感じないわけじゃない。
小さいころから知っている相手だ。
元気だったころの顔も笑い方も覚えている。
でも。
あの顔を見たからって俺の中の何かが元に戻るわけではなかった。
美幸が自分の席に着いた。
椅子を引く。
腰を下ろしてカバンを机の横に掛けた。
それから下を向く。
昨日も、あんなふうに座っていた。
俺は机の端から手を離した。
椅子を少し後ろに引く。
立ち上がった。
「謙也さん」
「謙也君」
二人の声がした。
美優ちゃんが俺の袖に手を伸ばしかける。
でも、その手は触れる前に止まった。
海ちゃんも俺と美幸の席を交互に見ている。
心配そうな目だった。
「大丈夫だよ」
俺は二人に顔を向けた。
「すぐに終わるから」
美優ちゃんが小さくうなずく。
海ちゃんも机から手を離した。
「……ここで待ってるね」
「うん」
俺は二人に見送られて歩き出した。
美幸の席まで、そんなに遠くない。
何度も話しかけに行ったことがある。
借りた消しゴムを返したとき。
小テストの範囲を聞いたとき。
帰りに用事があるか尋ねたとき。
あのころは、ここを歩くのに何も考えなかった。
今は自分の足音まで気になる。
近くの男子が顔を上げた。
窓際の女子も俺を見た。
昨日のことを覚えているんだろう。
でも俺は、そちらを見なかった。
美幸の席の前で止まる。
美幸は下を向いていた。
どこを見ているのだろうか?
「美幸」
呼んだ。
自分で思っていたより、はっきり声が出た。
俺は机に両手をつく。
美幸の肩が動く。
ゆっくり顔が上がった。
目が合う。
「……謙也」
かすれた声だった。
美幸の唇が少し開く。
驚いていた。
それから何か言いたそうに眉が動いた。
俺から来たことに期待したのかもしれない。
何を考えているのかまでは分からない。
でも、その顔を見ていると、また言葉を引っ込めたくなりそうだった。
俺は机についた指に少し力を入れる。
今日は伝える。
昨日みたいに何も言えないまま終わらせたくない。
息を吸う。
「もう謝らなくていい。だから、もう関わらないでくれ」
言った。
美幸の口元が止まる。
目だけが俺を見ていた。
俺は両手を机から離した。
それ以上、何も付け足さなかった。
返事を待たずに踵を返す。
足を動かす。
一歩目が少しぎこちなかった。
でも止まらない。
美幸は何も言わなかった。
名前を呼ぶ声も。
謝る声も。
聞こえてこなかった。
俺は自分の席に向かう。
待っている二人が見える。
美優ちゃんは胸の前で両手を重ねていた。
海ちゃんも、さっきと同じ場所に立っている。
俺が近づくと二人とも口を開きかけた。
でも、まだ何も言わない。
俺の顔を見ていた。
「……終わったよ」
小さく言った。
美優ちゃんがうなずく。
「はい」
海ちゃんが俺の席の椅子を少し引いてくれた。
俺はそこに腰を下ろす。
言えたんだ。
ちゃんと。
そう思って息を吐いたとき視界の端で何かが動いた。
少しだけ顔を向ける。
美幸の手だった。
俺が歩いてきた方に伸びかけている。
でも途中で止まっていた。
指が、ゆっくり曲がる。
その手が下がる。
美幸は、まだ俺を見ていた。
眉が下がっている。
唇をきつく結んで泣きそうな顔で。
俺は視線を戻した。
見続けていたら、また何か言わなきゃいけない気がしそうだった。
机の上の筆箱を少し動かす。
まっすぐ置き直す。
「謙也君、大丈夫?」
そんなことをしていると海ちゃんが静かに聞いてくる。
「……うん」
美優ちゃんも俺のそばにいる。
昨日みたいに美幸のところに向かおうとはしなかった。
俺は二人を見上げる。
「待っててくれてありがとう」
俺は感謝を伝える。
海ちゃんが小さく笑う。
美優ちゃんも、ゆっくりうなずいた。
後ろから俺を呼ぶ美幸の声は最後まで聞こえてこなかった。




