第24話 家に入って来た人物は?
「謙也〜、いるわよね〜」
廊下から近づいてくる声に俺は固まっていた。
聞き間違いじゃなかった。
足音まで、よく知っている。
リビングの入り口に黒髪の女性が顔を出す。
肩から流れる長い髪は、いつもどおり真っ直ぐ整っている。
細身のスーツ。
外で見かけたら仕事ができそうな人だと思うんだろうな。
俺だって黙って立っているところだけ見ればそう思う。
「……お母さん」
ぼそっと呟くと、お母さんがこちらを向いた。
「あら? いたのね。いるなら返事ぐらいしてよね。お母さん寂しいじゃない」
頬を膨らませる。
その顔を見ると帰ってきたんだなと思う。
「いや、びっくりして」
「何に?」
「今日帰ってくると思ってなかったから」
「帰ってきちゃダメだった?」
「そんなこと言ってないだろ」
お母さんは俺の顔を見たあとソファに視線を動かした。
右隣の美優ちゃん。
左隣の海ちゃん。
それから、また俺。
「あら」
何だよ。
今の「あら」は。
俺はひとまずドラマを止める。
何か言われる前に二人のことを話しておこう。
「おばさん!」
美優ちゃんが立ち上がっていた。
白い髪を揺らしながらテーブルの横を抜けていく。
早い。
俺が振り向いたときには、もうお母さんの目の前だった。
「あら~美優ちゃん。久しぶりね〜」
お母さんが両腕を広げる。
待ってましたとばかりに、美優ちゃんが抱きついた。
「本当に久しぶりです!」
お母さんの腰に両腕を回す。
そのまま、ぴとっと頬を寄せた。
俺はソファに座ったまま二人を見ていた。
そんなに勢いよく行くとは思わなかった。
お母さんも全然驚いていない。
「元気にしてた?」
「はい。おばさんも、お元気そうでよかったです」
「今、美優ちゃんに会えて元気になったわ」
お母さんが笑う。
美優ちゃんは、ますます嬉しそうにくっついた。
「いい匂いで落ち着きます」
「そう?」
「はい……」
目まで細くなっていた。
さっきまで俺の隣でドラマの感想を話していた美優ちゃんが今はすっかり甘えた顔になっている。
こういう顔もするんだな。
いや俺にも距離は近いけど。
何というか今は遠慮がまるでない。
まあ、昔から、お母さんは美優ちゃんを可愛がってたしな。美優ちゃんも、お母さんに甘えてばかりだったし。
「あらあら。相変わらず可愛いわね〜」
お母さんが美優ちゃんの頭を撫でる。
白い髪の上を手のひらがゆっくり滑る。
美優ちゃんの肩から、ふっと力が抜ける。
「おばさんこそ変わらずおきれいで」
「まあまあ。相変わらず、よくできた子ね〜」
お母さんの声が分かりやすく弾んだ。
撫でる手まで止まらなくなる。
美優ちゃんはされるがままだった。
目を細めて口元を緩めている。
猫みたいだ。
頭の上に耳があったら今ごろぴくぴく動いていそうだ。
「……仲いいな」
思わず漏らす。
お母さんが俺を見る。
「何? 謙也も撫でてほしいの?」
「そういうことじゃないよ」
「遠慮しなくてもいいのに」
「してないから」
美優ちゃんが、お母さんに抱きついたまま振り向いた。
「代わりましょうか?」
「美優ちゃんまで何言ってるの」
「私は、もう少しこのままでもいいですけど」
「じゃあ、そうしてて」
「はい」
すぐにお母さんに顔を戻す。
どうやら本当に、もう少し離れるつもりはないらしい。
俺の左側で小さく笑う声がした。
海ちゃんだった。
目が合うと口元を押さえる。
「謙也君、お母さんと話すときもそんな感じなんだね」
「そんな感じって?」
「なんか、いつもの謙也君」
よく分からない。
俺は俺なんだから当たり前じゃないのか。
聞き返そうとしたところでお母さんが海ちゃんへ顔を向けた。
「そこのあなたは?」
「あ、は、はいっ」
海ちゃんの背筋が伸びた。
さっきまで笑っていたのに今度は慌ててソファから立ち上がる。
スカートを手で整えてから、お母さんに向き直った。
「南川海です。謙也君とは前からの付き合いで、よくしてもらってます。最近では、お家にもお邪魔してます」
ぺこっと頭を下げた。
俺は海ちゃんを見た。
敬語だ。
いや海ちゃんだって使うだろうけど。
いつもの「うちも〜」という声に慣れているせいで少し新鮮だった。
「まあ、海ちゃんっていうのね。こちらこそ謙也と仲よくしてくれてありがとね」
「い、いえ。こちらこそです」
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「はい……」
そう言われた海ちゃんの手が体の前でぎゅっと重なる。
むしろ緊張してないか?
「海ちゃん、座ってていいよ」
俺が言うと、海ちゃんはこちらへ目を向けた。
「う、うん。でも」
「そうよ。ゆっくりしていってね」
お母さんにも言われて、ようやく腰を下ろす。
座る場所は、さっきと同じ俺の隣だった。
「あらあら」
また、その声だ。
今度は口元まで緩んでいる。
「何?」
「何でもないわよ」
「絶対、何か考えてるだろ」
「お母さんがいない間に、ずいぶん楽しそうにしてたのねって」
「何だよ。その言い方」
「別に~」
変な目でこっち見んな。
隣の海ちゃんが、なぜか俺から少しだけ視線を逸らした。
そこは普通にうなずいてくれてもいいんだけど。
「謙也がちゃんとおもてなしできてるなら、いいのよ」
「できてるって」
「本当? 飲み物を出して終わり、とかじゃなくて?」
「お菓子も出したよ」
「そういうことを聞いてるんじゃないんだけど」
お母さんが笑った。
俺はテーブルのコップに手を伸ばしかけて、やめる。
何をしても、またからかわれそうな気がした。
そのとき美優ちゃんがお母さんから少しだけ体を離した。
抱きついていた腕は、そのままだった。
「おばさん、聞いてくださいよ!」
「なあに?」
お母さんが美優ちゃんを見下ろす。
頭を撫でていた手も、まだ優しく動いていた。
「あのぞうき……いや、お姉ちゃんが、謙也さんに嘘告して、バカにして、ひどく傷つけたんですよ? これ、最近の出来事です」
俺の指先が止まった。
え。
今、その話をするのか。
美優ちゃんはお母さんを見上げていた。
さっきまでの甘えた顔とは違う。
眉が寄って、唇にも力が入っている。
「美優ちゃん……」
名前を呼んだ。
でも、その先が出てこなかった。
お母さんには、まだ何も話していない。
何て言えばいいか分からなかったし、電話でいきなり話せるようなことでもなかった。
海ちゃんが隣で姿勢を正す。
お母さんの手も止まっていた。
美優ちゃんの頭に触れたまま動かない。
「……は?」
低い声だった。
俺は思わず顔を上げた。
お母さんが俺を見ている。
さっきまでの、何かを面白がるような目じゃなかった。
口元からも笑みが消えていた。
ほんの少し前まで、あんなに上機嫌だったのに。
お母さんの視線が、美優ちゃんに戻る。
頭に置いていた手をゆっくり下ろして美優ちゃんの肩に添える。
「美優ちゃん、今の話、詳しく」
さっきまでとは明らかに声が違っていた。




