第2話 優しさ
「大丈夫ですか!」
美優ちゃんが俺のところまで駆け寄ってくる。
そのまま俺の前でしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込んできた。
「……うん……大丈夫だよ」
俺は美優ちゃんと目を合わせずに答えた。
今、自分がどんな顔をしているのか分からない。
でも少なくとも人に見せられる顔じゃないことだけは分かっていた。
「…………」
目元を隠すように顔を伏せる。
お願いだから、見ないでほしい。
袖で何度も拭った。
もう涙は止まったはずだ。
なのに美優ちゃんの顔を見た途端、また目頭が熱くなってしまった。
「謙也さん」
「……本当に大丈夫だから」
「全然大丈夫そうに見えません」
美優ちゃんの声は優しかった。
だからこそ余計につらかった。
今は誰かに優しくされたくない。
少しでも優しくされたら必死に我慢しているものが全部出てしまいそうだった。
「ちょっと疲れただけだよ」
「それなら保健室に行きましょう。立てますか?」
「……そこまでじゃないから」
「でも……」
「……美優ちゃんには関係ないよ」
思っていたよりも強い声が出た。
言った直後、後悔した。
なにをやってるんだ、俺。
心配してくれているだけなのに。
美優ちゃんは、なにもしていないのに。
「あります」
「ないよ」
「あります」
「どうして?」
「謙也さんのことだからです!」
美優ちゃんは迷わず答えた。
俺は少しだけ顔を上げる。
白く染められた長い髪が風に揺れていた。
水色の瞳が俺を見つめている。
美幸と同じ色。
でも、その目に笑いはなかった。
眉を寄せて唇を結んでいた。
俺がまた顔を伏せようとすると、美優ちゃんも少し身をかがめた。
「関係ないなんて言わないでください」
「……ごめん」
「謝って欲しいんじゃありません」
「うん……」
「心配なんです」
小さな声だった。
俺は膝の上で手を握った。
なにか返さないと。
そう思うのに、うまく言葉が出てこない。
「なにがあったか話してください」
「…………」
「お願いします」
美優ちゃんが真っすぐ俺を見る。
「私には話せませんか?」
「……そういうわけじゃない」
「だったら話してください。謙也さんをこんな顔にした人がいるなら私は知りたいです」
「…………」
俺は返事をしなかった。
話したところでなにかが変わるわけじゃない。
美幸との関係が元に戻るわけでもない。
美幸の告白が本当になるわけでもない。
それに相手は美優ちゃんの姉だ。
妹の前で姉の悪口を言うような真似はしたくない。
美優ちゃんだって困るだろう。
姉がそんなことをするはずがない。
俺がなにか勘違いしたんじゃないか。
もし、そう言われたら。
今度こそ、どうにかなってしまいそうだった。
「美優ちゃん」
「はい」
「聞いたら嫌な気分になると思う」
「どうして私が嫌な気分になるんですか?」
「それは……」
言えなかった。
美優ちゃんの姉に嘘告されて笑われたなんて。
美優ちゃんはしばらく俺の顔を見ていた。
「それでも聞きます」
「……でも」
「うまく話せなくても大丈夫です。急がなくていいですから。どんなことでも受け入れます」
すぐに立ち去るつもりはない。
そんなふうに見えた。
「ここにいます」
「…………」
「謙也さんの話、ちゃんと聞きたいです」
俺は唇を噛んだ。
黙っていれば、そのうち諦めて帰ると思っていた。
大丈夫だと言い続ければ、そっとしておいてくれると思っていた。
でも本当は帰ってほしくなかった。
もう一人で、あの嘘告や美幸や拓海の笑い声を思い出したくなかった。
「……美幸に」
ようやく出た声は酷くかすれていた。
「美幸に呼び出されたんだ」
「……お姉ちゃんに?」
「うん。放課後、屋上に来てほしいって」
美優ちゃんの目がわずかに見開かれる。
俺はその顔を見続けられなくて、視線を膝へ落とした。
「話があるって言われて。それで、ここに来たら……好きだって」
「…………」
「謙也のことが好きですって、言われたんだ」
さっきの声がよみがえる。
風に揺れる黒い髪。
俺を見ていた水色の瞳。
恥ずかしくなるじゃん、と笑った顔。
思い出したくないのに、なにもかも覚えていた。
「付き合ってくれるかって聞かれた。幼馴染のままじゃ嫌だって」
美優ちゃんは、なにも言わなかった。
「俺、美幸のこと……前から、好きでさ」
「……はい」
「だから、嬉しかったんだ。本当に」
こんなことまで妹に話していいんだろうか。
頭のどこかで、そんなことを考えた。
でも、もう止め方が分からなかった。
「それで、返事をしようとしたら拓海が出てきた」
「南川先輩ですか?」
「うん。隠れてたみたいで……出てきてすごく笑ってた」
俺は屋上の扉を見た。
今は閉まっている。
誰もいない。
それでも拓海を意識してしまい、すぐに目を逸らした。
「美幸も笑い始めて二人でハイタッチしてさ」
「…………」
「俺なにが起きたのか全然分からなくて」
手のひらに爪が食い込む。
少し痛かった。
「そしたら拓海が、嘘告だって」
美優ちゃんの両目が見開いて唇が僅かに動いた。
けれど声は聞こえなかった。
「美幸も、本気で信じちゃってたのかって。拓海は俺が言ったことを真似して、それを見てまた笑って……」
「……お姉ちゃんが、そんなことを」
「うん」
声が震えた。
信じてもらえなかったらどうしよう。
そんな不安が顔に出たのか、美優ちゃんはすぐに首を横に振った。
「疑っているわけじゃありません。……続けてください」
俺は小さくうなずいた。
「俺が美幸を好きなの、二人とも知ってたらしいんだ」
「…………」
「だから、どんな反応をするか見てみたかったって」
自分で口にして、息が詰まった。
反応。
二人にとっては、それだけだった。
俺がどれだけ嬉しくても、どれだけ勇気を出して返事をしようとしていても関係なかった。
「それから付き合ってるって言われた」
「え?」
美優ちゃんが眉間に皺を寄せる。
「美幸と拓海がね。先月からだって」
「……そう、だったんですか」
「知らなかった?」
美優ちゃんは頷いた。
「俺も知らなかった」
「…………」
「目の前で肩を抱いて、美幸もくっついて……俺がまだそこにいるのに、二人で楽しそうにしてた」
そのあとは途切れ途切れになった。
立っていられなくなったこと。
大袈裟だと言われたこと。
美幸を諦めろと言われたこと。
俺を置いたまま二人で帰っていったこと。
俺は美優ちゃんに話した。
美優ちゃんは姉の美幸を庇うことも悪く言うこともなかった。
「……それで動けなくなってずっとここにいたんだ」
言い終えて息を吐いた。
たったこれだけのことを話すのに、ずいぶん時間がかかった気がした。
「バカだよな。勘違いするなんて」
笑って済ませようとした。
もう起きたことだ。
俺がバカだった。
それで終わらせれば美優ちゃんもこれ以上困らない。
「違います」
「違わないよ」
「違います」
さっきまで黙っていた美優ちゃんが、はっきりと否定した。
「謙也さんはなにも悪くありません」
「でも俺が勝手に信じて——」
「告白されたら信じるのは普通です。信じさせるために嘘告した人たちが悪いんです」
「…………」
「人の気持ちを利用して笑うほうが絶対におかしいです」
美優ちゃんの声が少し震えていた。
怒っているようにも聞こえた。
膝の上で握られた両手に、ぎゅっと力がこもっている。
「でも、美幸は……」
「お姉ちゃんでも同じです」
言い終える前に美優ちゃんが答えた。
「私のお姉ちゃんだからって、謙也さんを傷つけていい理由にはなりません」
俺は美優ちゃんを見た。
水色の瞳が少し揺れる。
それでも美優ちゃんは目を逸らさなかった。
「謙也さんが自分を責める必要なんて全くありません」
「……俺、本当に嬉しかったんだ」
「はい」
「さっきも言ったけど……本当に」
同じことしか言えない。
もっとちゃんと話したいのに。
どれだけ考えても、そこに戻ってしまう。
「美幸が俺を好きになることなんて、ないと思ってた」
「…………」
「でも謙也だから言ってるんだって言われて」
目の奥が熱くなる。
「美幸も同じだったのかなって。俺だけがずっと言えなかったわけじゃないのかなって」
「……はい」
「もしかしたらなんて思ったんだ」
顔を伏せる。
「今日だって屋上に来る前に髪を直してさ」
止まらない。
「少しでも変じゃないようにって鏡で何回も確認してさ」
また涙が落ちた。
拭こうとしたけれど手が動かなかった。
「その間、美幸と拓海は俺が来るのを待ってたんだよな」
「…………」
「俺が舞い上がって喜ぶところを見て笑うために」
そこまで言って唇を噛んだ。
軽く息を吸うと変な音がした。
嫌だ。
もうこれ以上、情けない声を出したくない。
「付き合ってるなら普通に教えてくれればよかった」
「はい」
「そりゃ落ち込むと思う。でも……美幸が好きなのは拓海なんだって、ちゃんと諦めたと思う」
そうできたかは分からない。
すぐには無理だったかもしれない。
でも。
「わざわざ好きだなんて、言わなくてもいいだろ……」
美優ちゃんが唇をきつく結んだ。
俺は袖を顔へ押しつける。
「俺、そんなに笑われるようなことしたかな」
「していません」
「ただ美幸が好きだっただけなのに」
「はい」
「拓海のことも親友だと思ってたんだ」
何度拭っても駄目だった。
袖が濡れる。
もう止まれよ。
美優ちゃんを困らせるなよ。
そう思えば思うほど息が苦しくなった。
「つらかったですね」
美優ちゃんが静かに言った。
「謙也さん、本当につらかったですね」
「…………」
「今まで我慢していたんですね」
「別に……我慢なんて……」
「もう強がらなくていいです」
美優ちゃんが俺との距離を詰める。
次の瞬間、俺の体は柔らかな温かさに包まれた。
「え……」
美優ちゃんが、俺を抱きしめていた。
突然のことで体が固まる。
肩の向こうに白い髪が流れた。
すぐ近くに美優ちゃんがいる。
さっきまで顔を見られるだけでも困っていたのに、今はどうすればいいのか、本当に分からなかった。
離れたほうがいい。
咄嗟に思ったのに不思議と体は動かなかった。
「美優ちゃん……?」
「…………」
美優ちゃんは、なにも答えない。
ただ俺の背中を優しく撫でてくれた。
ゆっくりと急かすことなく何度も。
「……ごめん」
「大丈夫です」
耳元で優しい声がした。
「私がいますから」




