第15話 妨害
「じゃあ今日はこれで終わりだ。気をつけて帰れよ」
先生が出席簿を閉じた。
日直の号令に合わせて立ち上がり、頭を下げる。
先生が教室を出ていくと、さっそく前の席の男子が友達を呼んだ。
「今日、寄ってく?」
「いいけど、あんまり金ないぞ」
廊下からも部活へ向かうやつらの声が聞こえてくる。
終わった。
ようやく今日が終わった。
俺は椅子へ座り直して机の中から教科書を取り出す。
朝は教室に入ることすらできなかったのに。
今はちゃんと自分の席で帰りの支度をしている。
「…………」
ノートをカバンへ入れる。
筆箱も、その隙間へ押し込んだ。
最後に机の中に手を入れて奥に何も残っていないか確かめる。
よし。
あとは帰るだけだ。
美優ちゃんと海ちゃんは、もう終わったかな。
休み時間のたびに来てもらったんだ。
帰りくらいは俺が先に出て廊下で待っていよう。
カバンを左肩にかけて立ち上がる。
椅子を机の下へ戻して後ろの扉に向き直った。
「ね、ねぇ、謙也」
足が止まった。
聞き慣れた声だった。
昨日までは、その声で名前を呼ばれるのが嬉しかった。
なのに今は肩にかけたカバンの紐を強く握ってしまう。
顔を上げると美幸が早足で近づいてきていた。
俺の前まで来て立ち止まる。
「……ちょっといい?」
すぐには返事ができなかった。
美幸の向こうに教室の扉が見える。
そこまで行けばいいだけなのに、うまく足が出ない。
「え、えっと……」
美幸が自分の指先を触った。
何かを言いかけて口を閉じる。
俺の顔を見て、それから少し視線を下げた。
昨日、屋上で俺に好きだと言ったときも、こんなふうに言葉を選んでいた。
あれも全部、嘘だったんだよな。
「……何?」
やっと、それだけ出た。
思っていたより硬い声だった。
美幸の指が止まる。
「その……謝りたいんだけど」
「…………」
謝る。
美幸が?
俺は目の前の美幸の顔を見た。
笑ってはいない。
でも今度は信じていいのか。
また俺が何か言ったら笑うんじゃないか。
つい周囲を確認してしまう。
「……何、見てるの?」
「いや」
拓海が隠れていないか。
そんなこと聞けるわけがなかった。
美幸は俺の視線を追いかけて振り返った。
それから何かに気づいたように唇を結ぶ。
「違うから。今日は、そういうのじゃ……」
「まだ何も言ってないよ」
「……うん」
会話が止まった。
さっきまで友達と話していた女子が、こちらを見ている。
美幸も気づいたらしく、落ち着かない様子で髪をいじる。
「あのさ。ここだと、ちょっと話しにくいからさ……」
胸の奥が冷たくなる。
また、どこかに行くのか。
昨日みたいに二人で?
「……」
今日は、もう帰りたい。
「少しだけでいいの」
美幸が半歩近づいた。
俺は反射的に足を引きかける。
それを見た美幸の顔が、わずかに強張った。
「……そんなに避けなくても」
避けるなって言われても。
昨日の今日で、どうすればいいんだよ。
普通に話せばいいのか。
「謙也、あたしね——」
「どいて!」
横から声が飛んできた。
白い髪が視界に入る。
美優ちゃんだった。
早足で俺たちのところまで来ると美幸の横へ回り込む。
「え、美優――」
美幸が振り向きかけた。
その肩と上腕のあたりに美優ちゃんが両手をつく。
次の瞬間、強く押した。
「キャッ!?」
美幸の体が横へよろめく。
踏ん張ろうとした足がもつれる。
伸ばした手も間に合わず、教室の後ろの空いた床へ尻もちをついた。
どん、と鈍い音がする。
俺は思わず息を呑んだ。
何か言わなきゃと思ったのに、声が出なかった。
美優ちゃんは美幸の前に立っていた。
さっきまで俺の進む先を塞いでいた美幸が今は床に倒れ込んでいる。
「今更、謝ろうなんて虫がよすぎ」
冷たい声だった。
美優ちゃんの水色の瞳が、すっと細くなる。
休み時間に俺を見ていたときとは、まるで違う目だった。
「どういうつもり?」
「それは……だから、謝ろうと」
「今日になって周りの見る目が変わったから?」
美幸の口が止まる。
「自分の立場が苦しくなったから?」
「そ、そういうことじゃない」
「じゃあ昨日はどうして笑って帰れたの?」
「……」
美幸は答えられない。
気まずい空気が流れる。
「さっ! 行きましょ! 謙也さん! 海も廊下で待ってますから〜」
美優ちゃんが、くるっと俺へ向き直る。
さっきまでの冷たい声は、どこへ行ったんだ?
明るく笑いかけられて俺は返事が遅れた。
「え、あ……」
美優ちゃんが俺の右腕へ両手を回す。
きゅっと抱きつかれた。
制服越しに腕が触れて、ようやく自分がずっと体を強張らせていたことに気づいた。
「帰りましょう」
やけに明るく、よく通る声だった。
美優ちゃんが顔を覗き込んでくる。
急かすように腕を引っ張ったりはしない。
俺の返事を待っていた。
「う、うん」
うなずくと美優ちゃんの表情が少し緩んだ。
「謙也、待って……」
美幸の声がした。
俺は一度だけ、そちらを見た。
美幸は立ち上がろうとしていた。
目が合う。
しかし言葉は出てこなかった。
美優ちゃんと一緒に扉へ向かう。
廊下に出ると壁の近くにいた海ちゃんが顔を上げる。
「謙也君」
海ちゃんの視線が届く。
「……帰れる?」
優しい声。
「うん。帰ろう」
俺は安心させるように笑顔を向ける。
「そっか。じゃ、行こ!」
海ちゃんが俺の左側へ来て左腕に抱きつく。
右には美優ちゃんがいる。
美幸を取り残したまま俺は二人と並んで歩き出した。




