第四話 海を渡る方法、まさかの亀
北の道を進むと、海に出た。
潮のにおいが鼻をくすぐり、波の音が、足元の砂を静かに洗っている。目の前には、どこまでも青い海が広がっていた。
そして、それだけだった。
「……何もないな」
船はない。港もない。人影すらない。鬼ヶ島らしい島影も、水平線のどこにも見えなかった。
梅太郎は、まだ追いついてこない。あの足取りなら、あと少しかかるだろう。
俺は編集画面を開いた。
【現在地:北の海岸】
【周辺イベント:なし】
「なし、じゃないんだよ」
鬼ヶ島を倒せと頼まれた主人公が、ようやく海岸まで来て、目の前には何もない。
RPGとして、ここまで潔い詰まり方も珍しい。
イベントの一覧に、「場所移動」の項目があった。移動先を指定して、乗り物を用意すればいいはずだ。
グラフィックの一覧を、上から順にたどる。
船。なし。筏。なし。小舟。なし。
「どれだけ予算がなかったんだ、このゲーム」
しばらくスクロールしていた指が、ある項目の上で止まった。
イベント設定の隅に、小さなメモが残っている。
【最終更新:25年前】
【海岸イベント案】
・ここで亀に乗る。
・ラスボスみたいな浦島太郎に襲われる。
「…………は?」
もう一度、読み返した。
亀に乗る。
ラスボスみたいな浦島太郎に、襲われる。
「なんでだよ!」
声は、波にかき消された。
亀を助けた側じゃなかったのか、浦島太郎は。なぜ、ラスボス扱いなのか。理由は、どこにも書かれていない。
当然だが、亀のグラフィックはなかった。浦島太郎も、同様だ。
代わりに、エフェクトの一覧に、使えそうなものがあった。
【✨:緑色】
「……これを、亀の代わりにするしかないか」
波打ち際に、緑色の光の玉を一つ置く。何かがそこにいる、ということだけは伝わるだろう。
浦島太郎の姿は、候補の中から、魔王のグラフィックを選んだ。
「ラスボスみたい、なんだから、まあ……」
問題ない。問題ないことにした。
次は、戦闘設定だ。初めて海岸に来た主人公が、いきなりラスボス級の相手に出会って全滅するようでは、ゲームが進まない。
攻撃力を下げて、HPも抑えて、初戦でも何とか戦えるくらいの強さに調整した。
最後に、イベントの発生理由を入力する。
メモには、何も書かれていなかった。
「……亀をいじめていると勘違いした、でいいか」
自分で書いて、自分でため息が出る。
【亀をいじめていると勘違いした浦島太郎が襲いかかる】
何ひとつ納得はいかないが、これで、イベントは動くはずだった。
移動先の候補には、それらしい名前が一つだけ並んでいた。
【鬼ヶ島入口】
「たぶん、これだな」
保存を押すと、通知が出た。
【イベント設定を更新しました】
その直後、画面の端が赤く光った。
【警告:不明なアクセスを検知しました】
ログを開こうとした瞬間、画面が、ふっと元に戻った。
「……今、何か変わったか?」
設定を見直しても、修正したイベントは、そのまま残っている。気のせいで済ませていいのかどうかは、よく分からなかった。
そのとき、後ろで砂を踏む音がした。
梅太郎だ。
編集画面のことは、説明のしようがない。俺は画面を閉じて、近くの岩陰に身をかがめた。
「お、なんか光ってる」
梅太郎は、波打ち際の緑色の光に気づくと、ふらりと近づいていった。
「亀……か?」
光は、もちろん答えない。
「ちっちゃいな。それに、すごく光ってるけど」
梅太郎の前に、メッセージが浮かんだ。
【亀に乗りますか? はい/いいえ】
梅太郎は、迷わず【はい】を押した。
次の瞬間、波が高く盛り上がり、海面が割れた。
水しぶきの向こうから、巨大な影が、ゆっくりと姿を現す。
黒いマント。禍々しい角。ぎらついた目。
どこから見ても、魔王だった。
「亀をいじめるやつは、許さん!」
魔王――もとい、浦島太郎が、腹の底から叫んだ。
「いじめてないって」
梅太郎が、淡々と返す。
「そもそも、亀どこだよ。光ってるだけじゃん」
「亀は、ここにおるわ!」
「見えないって」
ごもっともだ。
岩陰で、俺は小さくうなずいた。
そりゃ、いきなり正体不明の光に話しかけたら、浦島のほうも、「亀に何をした」と思うだろう。
……いや、そんなものに話しかけた人間を襲ってくる浦島のほうが、おかしいのか。
どちらが先なのか、もう分からない。
「っていうか、見た目、魔王なんだけど」
「ラスボスみたいなのだから、仕方なかろう!」
「自分で言うな」
梅太郎は、腰の刀に手をかけて、少し考えてから、鞘ごと握り直した。
【戦闘開始】
【梅太郎の攻撃!】
鞘が、浦島の脇腹に入った。
【浦島太郎に8のダメージ】
【浦島太郎の攻撃!】
浦島の拳が、梅太郎の肩を打つ。
【梅太郎に7のダメージ】
二人とも、表情を変えなかった。
【梅太郎の攻撃!】
【浦島太郎に9のダメージ】
【浦島太郎の攻撃!】
【梅太郎に6のダメージ】
殴る。殴られる。また殴る。
打ち合いが三巡、四巡と続いても、掛け声もなければ、必殺技もない。波の音と、鈍い音だけが、淡々と続いている。
魔王の姿の男と、青い鉢巻きの青年が、無言で殴り合う。
あまりに地味で、逆に目が離せなかった。
【梅太郎の攻撃!】
【浦島太郎に10のダメージ】
浦島の巨体が、ぐらりと傾いた。
「……亀を、頼む……」
そう言い残して、浦島は、そのまま海の中へ沈んでいった。
【浦島太郎を倒した!】
梅太郎は、肩をぐるりと回した。
「……なんだったんだ、今の」
誰も答えない。
首をかしげながらも、梅太郎は、波打ち際の光の玉へ、もう一度近づいた。
「亀、乗せてくれるか?」
光が、ぽわんと一度だけ明るくなった。
画面に、短い文字が浮かぶ。
【亀に乗った】
タッタッタッ、と軽い効果音が鳴った。
その音に合わせて、海も、砂浜も、梅太郎の背中も、端から順に黒く塗りつぶされていく。
闇は、岩陰の俺の足元までは、届かなかった。
波の音が、ぷつりと途切れる。
次に目を開けたとき、海岸には、俺一人しかいなかった。緑の光も、梅太郎も、跡形もない。
「……移動した、のか」
場所移動イベント。今さっき俺が設定した、あれだ。
暗転して、効果音が鳴って、次の場所へ。梅太郎は今ごろ、鬼ヶ島の入口にいるはずだった。
そこで、はっとした。
次の場所にも、きっと未完成の部分がある。梅太郎が着いてしまえば、そこでまた詰まるだろう。
先に行って、直しておかなければならない。
編集画面を開き直し、場所移動の設定を、もう一度よく見た。
移動先の欄の下に、小さな項目が一つ、増えていた。
【対象:自分】
「……こんな項目、さっきあったか?」
見落としていただけかもしれない。だが、さっき赤く光った警告が、頭の隅に引っかかっていた。
「……俺も、行けるのか」
試しに、移動先に【鬼ヶ島入口】を指定し、対象を【自分】にして、保存を押した。
タッタッタッ、と軽い効果音が鳴る。
視界が、端から順に黒く染まっていった。
亀はいらない。浦島太郎に殴られることもない。
梅太郎より先に、俺は、次の場所へ向かった。




