第9話:限定カヌレ争奪戦(後編)
表参道の閑静な裏路地に佇むパティスリー『ラ・メゾン・ド・レーヴ』。
フランスの古城を思わせる石造りのシックな外観の前には、午前九時の時点で、すでに張り詰めたような異様な空気が漂っていた。
朝の澄んだ冷気の中、店の正面入口からきっかり十メートルの位置に、黒いウールコートに身を包んだ巨漢が立っていた。梶原敦志である。
キャップを目深に被り、両手をポケットに入れたまま、彫像のように微動だにしない。午前四時半、始発電車が動き出すよりも前に現地に潜入した梶原は、周囲の街灯の死角と風向きを計算し尽くした完璧な立ち位置で、一番乗りのポジションをミリ単位の狂いもなく死守していた。
昨夜のスイートルームでの激論の末、九重から「深夜二十二時からの徹夜並びは警察に通報される」と厳重注意を受けたため、梶原は法的に「ただの早朝散歩の通行人」としてギリギリ成立する午前四時半からの待機を選択したのだ。
背後には、開店の一時間前になってようやく集まり始めた一般の客たちが、寒さに震えながら列をなし始めている。先頭に立つ梶原の放つ、近寄る者を本能的に威圧する「歴戦のSPの殺気」のせいで、二番手以降の客たちは誰一人として梶原の半径二メートル以内に近づこうとしなかった。
(……並び順、一番。店頭販売分の割当数は、当日枠のわずか一箱――四個)
梶原は手袋の奥で、静かに拳を握り締めた。
(手に入れる。あの人が『食べてみたい』と望んだものを、この手で確実に持ち帰る)
――そして、午前十時ちょうど。
カランコロン、と澄んだドアベルの音が響き、フランス人パティシエが「ボンジュール」と笑顔で扉を開けた。
梶原は一切の無駄のない所作で店内へ進み出ると、用意していた新札の千円札を寸分の狂いもなくトレイに置き、漆黒のギフトボックスを一箱、手に入れた。
「メルシー、ムッシュ。素晴らしい朝ですね」
「……感謝する」
梶原は低く会釈し、箱を抱えて足早に店を後にした。
この瞬間、梶原は確信していた。自らの強靭な肉体と忍耐力こそが、紬の笑顔を勝ち取る唯一の正解であったと。
――だが。
梶原が店を出たその一分前、デジタル空間と経済界の深淵でもまた、それぞれ別の「怪現象」が完了していたのである。
◇
午前九時五十九分五十八秒。
地下のサーバールームにて、成瀬郁は猛烈な勢いでタイピングを繰り広げていた。
「DDoS攻撃が規約違反なら、正攻法の速度で叩き潰すまでだ……!」
成瀬は表参道エリアの通信トラフィックをミリ秒単位で監視していた。オンライン予約開始の十時ゼロ秒ジャスト、全国から殺到するアクセスによって予約サーバーのCPU負荷が急上昇する。その瞬間、成瀬が自作した光回線直結の超高速スクリプトが、一般客のパケットの隙間を縫うようにして予約フォームへ滑り込んだ。
『認証トークン取得:所要時間〇・〇〇二秒』
『住所・氏名・決済情報自動入力:完了』
『オンライン予約枠・第一スロット(一箱四個入り)落札』
「よっしゃああああっ! 正規ルートで完全勝利!!」
成瀬は椅子の上でガッツポーズを決め、即座に配送先を「社内便・システム管理部受取」へと指定した。
◇
さらに同刻、三十階・副社長室。
デスクで優雅にエスプレッソを口に運んでいた鷹見征司の前に、千冬が書類を持って立っていた。
「副社長。パティスリーの運営会社ごとの買収は阻止いたしましたが、あなたが独断で進められた『当該店舗が入居する表参道商業ビルの信託受益権の取得』、先ほど決済が完了いたしました」
「ご苦労だった」
鷹見は満足げに目を細めた。会社を買収できないのなら、ビルごと買い取って大家になればいい。
「オーナー企業としての正規の福利厚生・テナント視察枠として、本日焼き上がりのカヌレ一箱が、すでに裏口からハイヤーで我が社へ届けられているはずだ」
「……本当に、相変わらず抜け目のない方ですね」
千冬は呆れたように息を吐き出しながらも、手元の高級な紙袋を見つめた。
◇
そして、南青山の『保科メディカル・メンタルクリニック』。
保科貴文は、白衣のポケットに手を入れ、クリニックの裏口に停車した冷蔵バイク便のドライバーを見送っていた。
「院長、ご指定の『ラ・メゾン・ド・レーヴ』の特注カヌレ、シェフから直接お預かりしました。シェフが『保科先生の不眠症治療のおかげで、毎朝最高のコンディションでカヌレが焼けています』と大変感謝しておりましたよ」
「ありがとう。……完璧な温度管理だね」
保科は微笑み、専用の医療用クールボックスを受け取った。
原材料の視察などせずとも、店のシェフ本人が保科のクリニックの患者であった。主治医としての信頼関係と健康維持指導の対価として、保科は「医療提携枠」の優先確保分として、本日一番の焼き上がりの一箱を合法的に手に入れていたのだ。
「ふふ……これで、紬ちゃんに最も新鮮で安全な糖分を届けてあげられる」
――四人の男たちは、誰一人として妥協しなかった。
互いの足を引っ張り合い、「抜け駆けは許さない」と牽制し合った結果、四人全員が己の持てる最強の武器(フィジカル、ハッキング、資本力、医療特権)を行使し、奇跡的に全員が自力でカヌレを確保してしまったのである。
一日限定二十個。そのうちの実に四箱――計十六個が、たった一人の女性のために集結しようとしていた。
◇
午後二時、編集部のオフィス。
ランチを終え、午後の原稿執筆に集中していた槇原紬は、カタカタと小気味よくキーボードを叩いていた。
「……ふう。これで導入部分はオッケーかな。お腹もこなれてきたし、ちょっと甘いものが恋しくなる時間だなあ」
紬がデスクの引き出しからミントタブレットを取り出そうとした、その時だった。
「槇原さん、少々よろしいでしょうか」
カツ、カツと澄んだヒールの音とともに現れたのは、鷹見副社長の専属秘書・佐伯千冬だった。
「あ、佐伯さん! お疲れさまです、何か急ぎの書類ですか?」
「いいえ。……先ほど、弊社の重要取引先である不動産投資法人の役員様が来社されましてね。その際、手土産としていただいたものが余剰となりましたので、編集部の皆様でお召し上がりいただきたく」
千冬は無表情のまま、漆黒のシックな紙袋から、金色のリボンがかけられた小箱を取り出し、紬のデスクの上にコトリと置いた。
その箱の天面には、美しい金箔のロゴが刻まれていた。
『La Maison des Rêves』。
「……っ!?」
紬は目を疑った。椅子から立ち上がり、まじまじと箱を見つめる。
「こ、これ……っ! 表参道の『レーヴ』のカヌレですか!?」
「ええ。何でも、一日二十個しか焼かれない大変希少な品だそうですが……役員フロアの男性陣は甘いものを好まれませんので。一番お仕事熱心な槇原さんに差し上げます。どうぞ召し上がってください」
「う、嘘でしょう!? 私、昨日ちょうどこの記事を見て『食べてみたいなあ』って思ってたんです! 夢みたい……! 佐伯さん、ありがとうございます!!」
紬が両手を合わせて感激している横で、隣の席の関茉莉花が椅子ごと滑り込んできた。
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ紬! レーヴのカヌレじゃないの!? なんで取引先がそんな幻のスイーツ持ってくるわけ!? 信じられない、あんたの引きの強さ、やっぱりバグってるわよ!」
「ふふ、本当に運が良かったです! 茉莉花先輩、後で一緒に食べましょうね!」
千冬は心の中で(副社長が『彼女に一番綺麗な状態で渡せ』と五分おきに催促してきたのよ)と胃を痛めながら、静かに一礼して立ち去った。
奇跡の一箱。紬はデスクの特等席にカヌレを飾り、幸せな余韻に浸っていた。
――しかし、奇跡はこれで終わりではなかった。
それからわずか一時間後の、午後三時十五分。
「あ、紬さーん! お疲れさまでーす!」
パーテーションの隙間から、人懐っこい笑顔を覗かせたのは社内エンジニアの成瀬郁だった。手には、どこか誇らしげに小さな紙袋を提げている。
「成瀬くん! どうしたの?」
「いやー、実はですね! 先週僕が社内ポータルで実施した『ネットワークセキュリティ意識調査アンケート』の回答者の中から、システム抽選で一名様に当たる特別景品がありまして!」
「うん? アンケートなら私、月曜日に回答したよ?」
「そうなんです! 厳正なるランダム抽出の結果、なんと紬さんが当選されましたー! おめでとうございます!!」
成瀬はパチパチと自分で拍手をしながら、紙袋からスッと箱を取り出した。
黒い箱。金色のリボン。
天面に輝く『La Maison des Rêves』のロゴ。
「…………はい?」
紬の口から、間抜けな声が漏れた。
デスクの上に、全く同じデザインの箱が、綺麗に二つ並んだのだ。
「え……? 成瀬くん、これって……」
「表参道で話題の超限定カヌレですよ! システム開発部の予算で奇跡的に枠が取れたんです! 紬さん、スイーツ好きでしたよね? ぜひ食べてください!」
成瀬は満面の笑みを浮かべ、紬の頭の上をポンポンと撫でたい衝動を必死に抑えながら、背中を丸めて会釈した。
「じゃ、僕はサーバーの保守があるので失礼しまーす!」
嵐のように去っていく成瀬を見送り、紬と茉莉花は、二つ並んだ幻のカヌレの箱を前に、ポカンと口を開けて固まっていた。
「……ねえ、紬」
茉莉花が引きつった笑みを浮かべながら、紬の二の腕を指先でツンツンと突いた。
「これ、現実? 私、疲れて幻覚でも見てるのかしら。一日二十個限定のスイーツが、なぜ一時間の間に同じデスクに二箱も召喚されるわけ?」
「わ、わかりません……! でも、社内アンケートの景品だったみたいで……すごい偶然ですよね!?」
「偶然で片付けていい確率じゃないわよ! 隕石が頭の上に二回連続で直撃するレベルよ!?」
二人が大騒ぎしている、まさにその時だった。
「すみません、編集部の槇原紬様はいらっしゃいますでしょうか?」
オフィスの入口に現れたのは、バイク便の配達員だった。手には、銀色の保冷バッグを抱えている。
「あ、私です!」
紬が駆け寄ると、配達員はサイン用の端末を差し出しながら、丁寧に保冷バッグから小箱を取り出した。
「港区南青山の『保科メディカルクリニック』様からの緊急クール便です。手紙が添えられております」
受領印を押して受け取った箱には、保科の流麗な文字で書かれたメッセージカードがクリップで留められていた。
『親愛なる紬ちゃんへ。先日の定期健診はお疲れさまでした。クリニックの患者さんであるパティシエの方から、お礼にと焼き立てのカヌレをいただいたのですが、僕一人では到底食べきれません。糖分補給として、編集部の皆さんと一緒に召し上がってください。追伸:一日一個までに留め、しっかり歯を磨いてくださいね。保科貴文』
カードを読み終えた紬が、ゆっくりと視線を落とす。
銀色の保冷バッグから現れたのは――
黒い箱。金色のリボン。
『La Maison des Rêves』。
「ぎゃあああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっ!!!!」
オフィスの一角で、茉莉花が頭を抱えて悲鳴を上げた。
「三箱目ぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっっっ!!!! ちょっと待ちなさいよ! なんなの!? 表参道とこのデスク、ワームホールで直結でもしてるわけ!? 限定二十個のうち十二個がここにあるってどういうことなのよ!?」
「わ、私にもさっぱり分かりません……! タカちゃん、患者さんからもらったって言ってるし……えええっ!?」
紬もさすがに目を白黒させ、三つ並んだ漆黒の箱を前に、両手を頬に当てて震えていた。
一箱に四個入り。それが三箱。合計十二個。
「す、すごい……! 私、昨日『食べてみたいなあ』って呟いただけなのに……! 神様、私の声を聞いてくださったの……!?」
恐怖ではなく、純粋極まりない「奇跡への感動」で目をキラキラと輝かせる紬。
茉莉花は力なくデスクに突っ伏し、「……もう何も考えないことにするわ。一個ちょうだい」と呟くのが精一杯だった。
◇
午後七時。
退勤した紬は、茉莉花や編集部の同僚たちにカヌレを配り、それでも手元に残った二箱(計八個)を大切にトートバッグに入れて、港区のマンションへと帰宅した。
「ふふ、信じられない一日だったなあ。お母さんにも写真を送って自慢しちゃおう」
エレベーターで四階に上がり、自室の402号室の前までやってきた、その時だった。
ガチャリ。
まるでタイミングを計り澄ましていたかのように、隣の401号室のドアが開き、ゴミ袋を手にした梶原敦志が姿を現した。
「あ、梶原さん! こんばんは!」
紬が笑顔で声をかけると、梶原はピシリと背筋を伸ばし、わずかに視線を泳がせながら会釈した。
「……こんばんは、槇原さん。今、お帰りか」
「はい! 梶原さんも、お仕事終わりですか?」
「……ああ」
梶原は持っていたゴミ袋を足元に置くと、背中に隠すように持っていた、見慣れない高級な紙袋を無造作に差し出してきた。
「あの……梶原さん? これは……?」
「買い出しのついでに、表参道を通った。行列ができていたので何気なく並んで買ってみたのだが……俺は甘いものを口にしない。捨てるのも不経済だ。もし良ければ、もらってくれないだろうか」
紬は息を呑んだ。
紙袋の隙間から覗く、見慣れすぎた漆黒の箱。
金色のリボン。
『La Maison des Rêves』。
「…………っっっっっっっっっ!!」
紬は声にならない叫びを上げ、後ずさりした。
「よ、四箱目……!?」
「……? どうかしたか」
能面のような表情の梶原が、首をかしげる。
「い、いえっ! あの、これ……表参道の限定二十個のカヌレですよね!?」
「……限定なのか。知らずに買った。迷惑だっただろうか」
「迷惑なわけないです!! でも、今日だけで……今日一日だけで、私のもとにこのカヌレが四箱も届いてるんです!」
「……そうか。世の中には奇遇なこともあるものだな」
梶原は眉ひとつ動かさずに言い放ち、紬の手に紙袋の取っ手を握らせた。
「では、失礼する。……賞味期限は二日だそうだ。美味しく食べてくれ」
梶原は踵を返し、自室のドアを閉めて去っていった。
廊下に一人取り残された紬は、両手に抱えた大量のカヌレを見つめ、全身を心地よい戦慄で震わせた。
「一日二十個限定なのに、今日だけで四箱……合計十六個……! 今日の表参道の生産量の八割が、私の手元にある……!?」
紬は空を見上げ、満面の笑みで叫んだ。
「私、今年分の運……いや、一生分の運を今日一日で全部使い果たしちゃったかもーーーっっ!!」
◇
その五分後。
男四人の専用ホットライン端末が、かつてないほどの激しいバイブレーションで一斉に火を噴いていた。
【成瀬:ちょっと待てえええええええええええっっっっっっっ!! なんで全員届けてんだよバカ共がぁぁぁぁぁっ!!】
【鷹見:成瀬、言葉を慎め! 貴様こそ、社内アンケートの当選などという安直な偽装で彼女に届けるとは何事だ!】
【保科:二人とも静かにしてください! 僕が一番怒っているんですよ! 合計十六個ですよ!? カヌレ一個あたりの推定カロリーは約百八十キロカロリー! 十六個で二千八百八十キロカロリーです! 紬ちゃんの成人女性の一日の推定エネルギー必要量を遥かに超過しています! 彼女の血糖値と中性脂肪が跳ね上がったら誰が責任を取るんですか!!】
【梶原:……俺は彼女に『賞味期限は二日だ』と伝えた。一日八個のペースなら、代謝の範囲内だ】
【保科:馬鹿言わないでください! 一日八個でも過剰摂取です! 急性胃腸炎や肌荒れを引き起こしたらどうするんですか! なぜ誰も引かなかったんですか!? 誰か一人が引けばこんな事態にはならなかったでしょう!】
【鷹見:引けるわけがあるか! 彼女が『食べたい』と言ったのだぞ! 他人にその栄誉を譲るなど、我が鷹見家の誇りが許さん!】
【成瀬:プライドで紬さんの膵臓を酷使させる気かよジジイ共!! もういい、今から僕が紬さんの部屋のスマート体重計のプログラムをハッキングして、体重が〇・一キロでも増えたらアラートが鳴るように……】
【保科:やめなさい! そんなことをしたら彼女が余計なダイエットストレスを抱えるでしょうが!!】
チャット画面は、罵詈雑言と責任の押し付け合いで真っ赤に染まっていた。
六本木のスイートルームのカウンターで、そのログを冷ややかに眺めていた九重圭は、静かに四つの胃薬の小瓶を並べた。
「……だから言ったでしょうに。本当に、救いようのない阿呆ばかりですね」
九重はため息をつき、極上のカクテルをシェイクし始めた。
無菌室の女神は今頃、部屋の中で甘く香ばしいカヌレを頬張り、世界で一番幸せな笑顔を浮かべているはずだった。
彼女の足元で、四人の怪物が己の愚かさに頭を抱えてのたうち回っていることなど、露ほども知らずに――。




