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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第10話:秘書・千冬の胃薬

午前七時四十五分。まだ大半の社員が出社していない、静まり返った三十階の役員フロア。


磨き上げられた黒大理石の廊下を、カツ、カツと乱れのない一定のリズムで歩くパンプスの音が響いていた。


佐伯千冬(さえき ちふゆ)は、チャコールグレーのタイトスカートスーツの襟元を端正に整え、抱えていた分厚い本革張りのバインダーを胸元で抱え直した。その下、スーツのポケットの中には、今朝の通勤途中に駅のドラッグストアで買い足したばかりの、医療用成分配合の強力な胃腸薬が収まっている。


千冬は副社長室の重厚なマホガニーの扉の前に立ち、深呼吸を一つ落とした。


彼女の朝は、いつだって胃痛とともに始まる。


二十九歳にして、売上高数千億円を誇る東証プライム上場・鷹見ホールディングスの副社長専属秘書。社内では「氷の鉄仮面」「ミス・パーフェクト」と畏怖され、どんな難解な財務諸表も即座に読み解き、百戦錬磨の政治家や海外ファンドの幹部とも対等に渡り合うエリート中のエリート。


だが――千冬が日々直面している業務の約半分は、企業の財務戦略でもなければ、国際的な企業買収でもなかった。


それは、『一人の女性社員のために暴走する、若き総帥の狂気の隠蔽工作』という名の猛獣使い業務だった。


「……昨夜の作業工数、計八時間四十五分。睡眠時間、二時間十分。すべては、あのカヌレの辻褄を合わせるため」


千冬は誰にも聞こえない微小な声で呟き、バインダーの表紙をめくった。


そこには、昨夜徹夜で書き上げられた、完璧極まりないプレゼンテーション資料が挟み込まれていた。


表題:『表参道商業不動産(特定信託受益権)の緊急取得、およびリテール・スイーツ事業への新規参入に関する中期戦略投資計画書』。


事の発端は、一昨日の午後に遡る。


ライフスタイル系WEBマガジン『Lumiere』の編集者である槇原紬(まきはら つむぎ)が、デスクで「表参道の限定カヌレが食べたいな」と呟いた。ただそれだけのことだった。


その一言を拾い上げた副社長・鷹見征司は、即座に当該パティスリー『ラ・メゾン・ド・レーヴ』の運営会社を十倍の価格で敵対的買収しようと暴走。千冬が必死に法律論と世間体で羽交い締めにして止めたものの、鷹見は妥協案として「なら店舗が入居する商業ビルそのものを丸ごと買い取る」という暴挙に出たのだ。


決済総額、三十八億五千万円。


もちろん、副社長の専決権限枠を大幅に超過する巨額投資である。本来であれば、事前に経営企画部やリスク管理委員会が数ヶ月かけてデューデリジェンス(資産査定)を行い、取締役会で慎重に審議されるべき案件だった。


それを、わずか半日の即日決済で強行したのだ。


当然ながら、今朝八時から開かれる臨時取締役会で、保守的な古参役員たちから集中砲火を浴びることは火を見るより明らかだった。


『佐伯君。なぜこんな唐突な不動産取得を、副社長の一存で進めたのかね?』

『グループの本業とは何の関係もないスイーツ店が入ったビルに、三十八億も投じる合理的な説明を求む!』


役員たちの怒号と糾弾が目に浮かぶようだった。


そして、その糾弾をすべて無力化し、鷹見の「紬にカヌレを一箱届けたい」という個人的狂気を、あたかも「先見の明に満ちた天才的経営判断」であるかのように偽装する全責任が、秘書である千冬の両肩にずっしりと乗しかかっていたのである。


「……ふう。負けてはいられないわね」


千冬はこめかみを軽く揉みほぐすと、静かに副社長室のドアをノックした。


◇


午前八時、本社ビル最上階の大会議室。


円卓を囲むのは、鷹見グループの最高幹部たちだった。白髪交じりの専務や常務たちが、苦虫を噛み潰したような顔で卓上の書類を睨みつけている。その上座で、鷹見征司は仕立てのいいスリーピーススーツに身を包み、一切の感情を排した冷徹な眼差しで悠然と腰掛けていた。


千冬はプロジェクターの横に立ち、手元のクリッカーを操作した。


「――以上が、昨日決済が完了いたしました、表参道特等地商業ビルの信託受益権取得の概要でございます」


千冬の凛とした、淀みない声が静寂を切り裂く。


スクリーンには、緻密なキャッシュフロー予測グラフと、表参道エリアの地価上昇トレンド、さらにはグループのメディア事業とのシナジーマップが映し出された。


「ご覧の通り、当該物件は現在、稼働率百パーセント。年間期待利回りは五・二パーセントを維持しております。しかし、今回の取得の真の目的は、不動産賃貸収入に留まりません」


千冬は一歩前に踏み出し、古参役員たちの視線を一手に引きつけた。


「現在、我が社が注力しているライフスタイル系デジタルメディア『Lumiere』は、ミレニアル世代およびZ世代の女性層において絶大なエンゲージメントを獲得しております。しかし、従来の広告モデル依存からの脱却、すなわち『体験型リテール・D2C事業への垂直統合』こそが、次期中期経営計画の最重要課題でございました」


役員たちが息を呑む。千冬のスライドは、寸分の隙もなくロジックを積み上げていく。


「一階に入居する『ラ・メゾン・ド・レーヴ』は、一日二十個限定という極限の希少価値により、現在SNS上で爆発的なバズを巻き起こしております。我々はこのビルを取得することで、単なる大家としてではなく、当該パティスリーのブランド価値を『Lumiere』のフラッグシップ・コンテンツとして独占的に包括提携する権利を確保いたしました」


千冬は視線を鷹見へと流し、さも感服したかのように頭を下げた。


「副社長の迅速なご決断は、他社ファンドによる買収を出し抜くための、ミリ秒単位のスピードを要する戦略的奇襲でございました。本件により、我が社は『オウンドメディアと超高付加価値スイーツを直結させた、次世代型プレミアム・コマースプラットフォーム』の先占に成功したと確信しております」


カチリ、とクリッカーの最後のスライドが映し出される。そこには、今後三年間で想定される広告換算価値と、ブランドシナジーによる時価総額押し上げ効果の試算が、完璧なエビデンスとともに提示されていた。


会議室に、重苦しい沈黙が落ちた。


先ほどまで「副社長の独断専行を追及してやる」と息巻いていた古参役員たちが、顔を見合わせ、やがてゴクリと唾を呑み込んだ。


「……な、なるほど」


専務の老人が、メガネの位置を直しながら咳払いを一つした。


「単なる不動産投資ではなく、メディア事業のマネタイズ戦略と完全に連動していたわけか……。確かに、表参道のあの立地をあの価格で、しかも競合に気づかれずに即日抑えた手腕は、見事と言うほかないな」


「うむ。副社長の先見性には、毎度驚かされるばかりだ」


役員たちの口から、賞賛と安堵の溜息が漏れ出す。


鷹見は表情一つ変えず、ただ静かに頷いて見せた。


「皆に理解してもらえて何よりだ。我が社が生き残るためには、前例にとらわれない電光石火の投資が不可欠だ。……異議がなければ、本件の追認決議をお願いしたい」


全員の手が一斉に挙がる。


「全会一致で可決、といたします」


千冬は深々と一礼し、プロジェクターの電源を落とした。


その背中は完璧な秘書そのものだったが、内心では(よし……! 乗り切った……! 三十八億円のカヌレ偽装工作、完全成功……!)と、冷や汗で湿ったインナーの冷たさに耐えながら、心の中で特大のガッツポーズを繰り出していた。


◇


午前十一時十五分。


取締役会を終え、各種の承認手続きを捌き終えた千冬は、編集部フロアへと向かう連絡通路を歩いていた。手元には、午後の役員会に提出する追加書類のファイルがある。


エレベーターホールに差しかかったその時、向こうからパタパタと軽快な足音が近づいてきた。


「あ、千冬さん!」


花がほころぶような、明るく柔らかな声。


振り返ると、そこにはベージュのブラウスにプリーツスカートを揺らした、槇原紬の姿があった。その手には、何やら小さな紙袋が大切そうに握られている。


「槇原さん。お疲れさまです」


千冬はいつもの隙のないポーカーフェイスを保ち、軽く会釈した。


「千冬さん、今ちょっとだけお時間大丈夫ですか? 探してたんです!」


「私をですか? 業務上の連絡であれば、内線か社内チャットで構いませんでしたが」


「いえ、お仕事のことじゃなくて……これを受け取ってほしくて!」


紬は両手で、持っていた紙袋を千冬の前へと差し出した。


袋の隙間から覗いていたのは、薬局などで見かける、金色と黒のパッケージが眩しい高級滋養強壮ドリンクだった。タウリン三千ミリグラム、高麗人参エキス、ローヤルゼリー配合。一本千円以上する、残業戦士御用達の本格派ドリンクだ。


「これ……栄養ドリンクですか?」


「はい! 昨日いただいた表参道のおカヌレの、ほんの気持ちばかりのお礼です!」


紬は目をキラキラと輝かせながら、満面の笑みで言った。


「昨日いただいたカヌレ、本当に、本当に美味しかったんです! 外側はカリッとしてて、中はとろけるようで……編集部のみんなで分けて、感動しながらいただきました。私、昨日一日だけで信じられないくらいたくさんカヌレをいただいちゃって、一生分の運を使い果たしたんじゃないかって大騒ぎしちゃいました!」


「……それは、喜んでいただけて何よりでした」


(※そのカヌレのために、あなたの目の前にいる秘書が昨夜三十八億円の稟議書を一夜で捏造したことは、墓場まで持っていく秘密だけれど)


「それでね、千冬さん」


紬は少し心配そうに、小首をかしげて千冬の顔を覗き込んできた。


「昨日、カヌレを持ってきてくださった時も思ってたんですけど……千冬さん、最近すごくお忙しそうだから。今朝も早い時間から役員フロアの電気がついてましたし、顔色が少しだけ疲れているように見えたので……」


「…………」


「私にできることなんて何もないですけど、せめてこのドリンクを飲んで、少しでも疲れを吹き飛ばしてもらえたらなって。千冬さん、いつも会社のために本当にありがとうございます! お仕事、応援してます!」


曇りのない、純度百パーセントの善意。


見返りを求める打算も、上層部へのへつらいも一切ない、ただ目の前の相手の体を純粋に気遣う温もり。


千冬の胸の奥を、じんわりとした温かい熱が満たしていった。


徹夜の疲労と、男たちの狂気の尻拭いで擦り切れかけていた心が、紬のその屈託のない笑顔ひとつで、奇跡のように解きほぐされていくのを感じる。


(……ああ、駄目ね)


千冬は心の中で、自嘲気味に息を吐いた。


(この子のこの笑顔を見てしまったら……男たちが全員狂って、理性を焼き切らせてしまう理由が、分かってしまうじゃないの)


千冬は微かに、誰にも気づかれないほどわずかに口元を緩め、両手でその紙袋を受け取った。


「……ありがとうございます、槇原さん。お心遣い、大変嬉しく思います」


「えへへ、お口に合えばいいんですけど! あ、冷蔵庫でキンキンに冷やして飲むのがオススメですよ!」


「承知いたしました。冷やして、今夜ありがたく頂戴しますね」


「はい! それでは、お仕事頑張ってください!」


紬は嬉しそうに手を振り、軽やかな足取りで編集部フロアへと戻っていった。


その背中を見送りながら、千冬は手元の紙袋をそっと抱きしめた。重いドリンクの小瓶が、なんだかとても温かく感じられた。


◇


だが――心温まる休息の時間は、一瞬で終わりを告げた。


午後一時、三十階・副社長室。


ガチャリと扉を開けて入室した千冬の目に飛び込んできたのは、窓際で腕を組み、不穏極まりない眼光でタブレットを睨みつけている鷹見征司の姿だった。


「副社長。午後の決済書類をお持ちいたしました。……それと、先ほどの臨時取締役会における表参道ビルの取得案件、無事に全会一致で追認可決されましたのでご報告いたします」


「ああ、ご苦労だった。君のプレゼンなら当然の結果だ」


鷹見は労いの言葉を口にしたものの、その視線は手元のタブレットから一切離れようとしなかった。


千冬の秘書としての研ぎ澄まされた直感が、けたたましい非常警報を鳴らし始める。


「……副社長。失礼ですが、先ほどから何を熱心にご覧になっているのですか」


「千冬。港区議会の都市計画委員会、ならびに所轄の区議会議員への『特別寄付』の手続きを今すぐ進めろ」


「…………は?」


千冬の眉間がピキリと音を立てて引きつった。


「特別寄付、ですか?」


「そうだ。彼女――槇原紬の通勤経路を昨夜改めて防犯衛星カメラで精査したところ、重大な欠陥が発覚した」


鷹見はタブレットの画面を千冬に向けた。そこには、赤坂見附の駅から紬のマンションへと続く、閑静な裏通りの衛星写真が映し出されていた。


「この区間、街灯の設置間隔が約二十五メートル空いている。路面の照度を計算したところ、深夜時間帯における最低ルクスが基準値をわずかに下回っていた」


「……それが、何か?」


「街灯が暗いと、彼女がつまずいて怪我をする恐れがあるだろうが!!」


鷹見は真顔で、机をバンと叩いて立ち上がった。


「万が一、彼女が暗がりで足をとられ、あの美しい膝を擦りむくようなことがあれば、誰が責任を取るのだ!? 一刻の猶予もない! 区議会議員に数千万円単位の献金を行い、即刻あの区道一帯の街灯を、超高輝度・広角照射の次世代LED照明へと全換装させろ! ついでに道路のアスファルトもすべて衝撃吸収性の高い特殊樹脂舗装に打ち直させろ!」


「…………」


千冬は手帳を抱えたまま、完全に感情をシャットアウトした無の表情で鷹見を見つめた。


胃の奥から、ツンと酸っぱいものが込み上げてくる。


「副社長」


「何だ」


「申し上げにくいのですが、特定個人……それも自社の女性社員の安全確保のために、地方議会議員へ巨額の資金を献金し、公共工事を誘導する行為は、政治資金規正法違反および公職選挙法違反、さらには刑法第百九十七条の贈収賄罪に抵触する可能性が極めて濃厚です」


「法などどうでもいい! 彼女の膝に傷がつくことの重大性に比べれば、法律の条文など紙屑同然だ!」


「紙屑ではありません。法治国家です。マスコミに『鷹見ホールディングス副社長、意中の女子社員のために区道を私物化買収』とすっぱ抜かれた瞬間、グループの株価はストップ安、あなたのお父上である会長から即日解任動議が出されます」


「ぐっ……だが、彼女が暗がりで転倒したら……!」


「転倒いたしません」


千冬は手帳から一枚の企画書をスッと抜き出し、鷹見のデスクの上に叩きつけるように置いた。


「すでに先手を打ってございます」


「……何だ、これは」


「来月実施予定の、社内安全衛生推進キャンペーンの実施要領です」


千冬は淡々と、しかし有無を言わせぬ気迫で説明を始めた。


「全社員を対象とした『夜間歩行時の交通安全および防犯啓発』の名目で、大手光学機器メーカーと共同開発した『超高輝度マイクロLED内蔵・反射材キーホルダー』を、ノベルティとして全社員へ無料配布いたします。デザインは北欧風の洗練されたもので、女性社員がバッグにつけても違和感がございません。足元を十メートル先まで昼間のように照らし出す特注品です」


「……ほう」


「総予算は、わずか四十万円。区議への違法献金の実に百分の一以下のコストです。コンプライアンス上の問題は一切なし、株主への説明も不要。そして何より――総務部から直接、紬さんの手元へ正規の社内配布物として確実に渡ります」


鷹見は企画書を凝視し、やがてゴクリと唾を呑み込んだ。


「……彼女は、バッグにつけてくれるだろうか」


「配布時には『バッグにつけておくと夜道でとても安心ですよ』と、総務部の女子社員から親身に勧めさせます。あの素直な槇原さんであれば、百パーセントの確率で愛用されるはずです」


「…………」


鷹見は深く息を吐き出し、乱れたネクタイを整え直した。


「……採用する。今すぐ手配しろ」


「承知いたしました」


千冬は一礼し、踵を返して副社長室を出た。


ドアが閉まった瞬間、千冬の背中からスーッと張り詰めていた緊張が抜け落ちた。


◇


午後二時、秘書室の自分のデスク。


千冬は椅子に深く腰掛け、引き出しの奥を開いた。


そこには、各種の胃薬が整然と並んでいる。H2ブロッカー、制酸剤、粘膜保護剤、そして保科貴文から「千冬さん、胃壁の維持にお役立てください」と処方された医療用漢方胃腸薬。


千冬は引き出しから、先ほど紬からもらった紙袋を取り出した。


冷暗所で保管していた栄養ドリンクの小瓶は、手のひらに心地よい重みを与えてくれる。


「……ふふ」


千冬はキャップをカチリとひねって開けた。


そして、手元の胃薬を一粒、舌の上に乗せる。


「あの子が無自覚な女神なら……私はその神殿を守る、狂信者の猛獣使いね」


ゴクリ、と喉を鳴らして、紬からもらった栄養ドリンクで胃薬を一気に胃の奥へと流し込んだ。


高麗人参の独特の苦味と、ハチミツの優しい甘みが喉を通り抜け、疲弊した五臓六腑に染み渡っていく。


胃の痛みが、嘘のようにスーッと和らいでいくのを感じた。


「……よし。午後のお仕事も、片付けますか」


千冬は空になった小瓶をデスクの端に大切に飾り、パソコンのキーボードへと指を走らせ始めた。


今日もまた、巨大な神殿の平和と猛獣たちの手綱は、一人の有能すぎる秘書の手によって、完璧に維持されたのだった。

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