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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第11話:雨の日のバス停にて

秋の日の入りは早い。午後六時を少し回ったばかりだというのに、オフィスの大きな窓の向こうは、すでに藍色の闇に包まれつつあった。


「よしっ……! 本日の予定稿、すべて入稿完了!」


ノートパソコンのエンターキーをパチンと軽やかに叩き、槇原紬(まきはら つむぎ)はデスクの前で心地よい疲労感とともに伸びをした。肩の関節がコキリと小さく鳴る。


先週の「カヌレ大恐慌」以降、編集部の空気はこれ以上ないほど良好だった。同僚たちと分け合って食べた表参道の幻のカヌレは絶品だったし、佐伯千冬に手渡した栄養ドリンクも喜んでもらえたようで、社内の人間関係は温かさに満ちている。


「紬ー、お疲れ! 今日も定時上がり? 偉いわねえ」


隣のデスクで、推しの舞台俳優の次回作スケジュールを表計算ソフトに打ち込んでいた関茉莉花が、マグカップを片手に声をかけてきた。


「茉莉花先輩、お疲れさまです! はい、今日は原稿が予定より早く上がったので、真っ直ぐ帰ってゆっくりお風呂に浸かろうと思いまして」


「いいわね。私もこのあと推しのファンクラブ限定生配信があるから、ダッシュで帰還する予定よ。じゃあ、また明日ね!」


「お疲れさまでした!」


笑顔で手を振り、紬はトートバッグを肩にかけてエレベーターホールへと向かった。


今夜の夕食は、昨日スーパーで買っておいた秋鮭ときのこのホイル焼きにしよう。お気に入りの入浴剤を入れて、お風呂上がりに温かいほうじ茶を飲む――そんなささやかで完璧な夜のプランを思い浮かべながら、紬は一階のエントランスへと降り立った。


しかし。


自動ドアを抜けてメインロビーへ足を踏み出した瞬間、紬の耳に飛び込んできたのは、まるで地鳴りのような凄まじい轟音だった。


ザアァァァァァァァァァッッ!!


バチバチバチッ、とガラス窓を激しく打ち据える、暴力的な水滴の群れ。


「……えっ!?」


紬は思わず足を止め、大きく目を見開いた。


ガラス張りの巨大なエントランスホールの外は、白く煙るほどの凄まじい豪雨だった。街灯の光を切り裂くようにして、滝のような雨がアスファルトに叩きつけられている。遠くの空がピカッと青白く光ったかと思うと、数秒後に腹の底に響く重い雷鳴がビル全体を震わせた。


いわゆる、記録的なゲリラ豪雨。


エントランスの出口付近には、退勤時間を迎えた数十人の社員たちが立ち往生し、困惑の声を上げていた。


「嘘だろ、なんだこの雨!?」

「朝の天気予報、降水確率ゼロパーセントって言ってたじゃないか!」

「傘なんて持ってきてないよ……タクシー呼ぼうにも、配車アプリが全然捕まらない!」


紬も慌ててスマートフォンを取り出し、画面を確認した。


確かに、朝チェックした気象アプリは一日を通して「晴れ」の予報だった。折りたたみ傘すらバッグに入っていない。タクシーアプリを起動してみるが、案の定、画面には『現在、周辺に配車可能な車両がございません』という無慈悲なエラーメッセージが点滅している。


「困ったな……駅まで歩いたら、五秒でずぶ濡れになっちゃう……」


紬は出口の自動ドアのそばで、庇の下から雨粒が跳ねる路面を見つめ、途方に暮れて小さくため息をついた。


彼女は知らなかった。


エントランスの天井隅に設置された、三百六十度広角の超高精細監視カメラ。


そのレンズの絞りが、紬が眉をひそめて困り顔を浮かべた瞬間、ミリ秒単位で「カチリ」と焦点を合わせ、彼女の表情を余すところなく捉えていたことなど。


◇


地下三階、機械管理区画の最深部。


成瀬郁のプライベート・ラボラトリーに、不穏な警報音が鳴り響いた。


ピピピッ、ピピピッ!


『画像認識トリガー発動:対象者・槇原紬』

『表情解析:困惑度七十八パーセント、不安指数六十五パーセント』

『環境情報:局地的集中豪雨、降水量毎時八十五ミリ、雷サージ警報発令』


「……紬さんが、雨で立ち往生してる……!」


モニターを凝視していた成瀬の瞳が、サッと色を変えた。


成瀬は間髪を入れず、コンソールのホットラインを開き、男四人の専用チャンネルに緊急アラートを叩き込んだ。


【成瀬:コード・ウェザー発報! 本社エントランスにて紬さんがゲリラ豪雨により足止めされています! 傘の所持なし! 至急の対応を要請します!】


送信から、わずか一秒後。


即座に画面が三分割され、音声通話が強制接続された。


『何だと!?』


怒号のような声を上げたのは、三十階の副社長室にいた鷹見征司だった。


『朝の気象庁のデータを信じたのが間違いだった! 我が社の気象情報配信子会社の予測精度に重大な欠陥がある、後で担当役員を更迭する! ……千冬、今すぐ地下駐車場に待機させてある専属の黒塗りハイヤーをエントランスに回せ! 私が直接、彼女を車に乗せて自宅まで送り届ける!』


『待て待て待てぇぇぇぇぇいっ!!』


成瀬がマイクに向かって絶叫した。


『鷹見さん! 抜け駆けは絶対に許さないって言ったでしょうが! 「車に乗せて自宅まで送る」だなんて、二人きりの密室空間の形成、明白な条約第3条違反です! もし車を出そうとしたら、今すぐハイヤーのECU(電子制御ユニット)をハッキングしてエンジンを強制停止させますよ!!』


『貴様ッ……! この豪雨の中、彼女を濡らせというのか! 風邪を引いたらどうする!』


『お二人とも、醜い口論はおやめなさい』


冷徹で静かな、しかし底知れぬ圧力を孕んだ声が割り込んできた。


南青山のクリニックから通信を繋いできた保科貴文だった。白衣の胸ポケットにペンを刺す音が、スピーカー越しに冷たく響く。


『鷹見さんの車に乗せるのが論外なのは成瀬くんの言う通りです。ですが成瀬くん、君の言う「至急の対応」も具体性を欠いていますね。現在、外気温は急速に低下しています。雨水による飛沫を浴びて体温が一度でも低下すれば、彼女の免疫力は三十パーセント低下し、上気道炎を引き起こすリスクが跳ね上がる。……ちょうど今、僕が往診の手配で使っていた専用車両が本社ビルの近くを走行中です。車内に常備してある医療用滅菌保温ブランケットとともに、僕が直接、彼女に傘を差し伸べるのが最も医学的に合理的です』


『はあぁぁぁ!? 保科先生だって抜け駆けしようとしてんじゃん! 往診車だって車でしょ! ズルイ!!』


『これは医療行為の一環ですよ。主治医としての正当な職務です』


『嘘つけ白衣のヤブ医者が!!』


通信回線が怒号と罵倒でパンクしかけた、その時だった。


――ズズ……ッ。


ノイズ混じりの重い呼気とともに、地底から響くような低音がスピーカーの向こうから割り込んできた。


『……全員、黙れ』


梶原敦志だった。


受話器の向こうから、激しい雨風の音と、舗装道路を疾走する規則正しい軍靴の足音が響いてくる。


『車など、渋滞で使い物にならん。すでに赤坂見附周辺の交差点は、豪雨による視界不良で大渋滞だ。……俺が走る』


『は……? 走るって、梶原さん、あなた今どこに……!?』


『マンションを出た。現在、青山通りを通過中だ。……あと三分で本社ビルへ到達する。手元には、防風性能に優れた特注の傘を二本携行している。彼女に一本渡し、俺は影から警護しつつ徒歩で帰宅させる。密室への連行もなければ、不審な接触もない。……これが最も確実だ』


「な、なんだってえええええっ!?」


成瀬が悲鳴を上げた。


「筋肉ダルマのくせに一番実用的でスマートな作戦立ててんじゃないよ!!」


『待て梶原! お前一人にその栄誉を渡してたまるか!』


鷹見が受話器を叩きつけるように叫んだ。


『条約の暫定合意を適用する! 「車内への同乗は全面禁止、傘を一本手渡すのみとする」! ただし――手渡す権利は、全員に等しく存在するはずだ!!』


『ええ、望むところです!』


保科が冷笑を浮かべて車を降りる音がした。


『僕の医療用傘こそが、彼女の体を最も守るにふさわしい!』


『僕だって負けないからね! 僕が自作した最新ナノテク撥水傘を今すぐ持って上がる!!』


「くそっ、全員来やがる……ッ!!」


回線がブツリと切れ、四人の怪物が、それぞれの「至高の一本」を手に、紬の待つ一階エントランスへ向けて同時に雪崩れを打って発進したのだった。


◇


午後六時十八分、本社ビル・正面エントランス。


「うーん……やっぱり、ちょっと小降りになるまで待つしかないかなあ」


紬は手首の時計を見つめ、小さく息を吐いた。


雨脚は一向に弱まる気配がない。ロビーにはますます人が増え、誰もが所在なげにスマートフォンを眺めている。


その時だった。


キィィィィィィッ!!


激しい雨音を切り裂いて、ビルの正面車寄せに、一台の漆黒のセンチュリーが滑り込んできた。水飛沫を豪快に跳ね上げ、寸分の狂いもなくエントランスの自動ドア正面に停車する。


「えっ……? 誰かのハイヤー……?」


周囲の社員たちがざわめく中、後部座席のドアがバッと勢いよく開いた。


降り立ってきたのは、完璧な仕立てのスリーピーススーツを身に纏い、一分の隙もなく髪をセットした男――鷹見征司副社長だった。


「ひっ、副社長……!?」

「えっ、なんで副社長が自ら車から……!?」


社員たちが一斉に左右へ割れ、モーゼの十戒のように道ができる。


鷹見は周囲の視線など微塵も意に介さず、大理石の床を長い脚で大股に踏みしめ、一直線に紬の元へと歩み寄ってきた。


その手には、見るからに重厚で優美な、漆黒の長傘が握られていた。英国王室御用達として名高い『フォックス・アンブレラズ』の特注品。ハンドル部分には職人の手彫りによるシルバーのアニマルヘッドが輝き、極限まで高密度に織られた最高級シルク生地が雨粒を完璧に弾く、一本十数万円の美術品のような傘だ。


「ま、槇原……!」


鷹見は紬の前に立つと、荒い息を喉の奥で押し殺し、ネクタイを指先で微かに緩めた。その切れ長の瞳は、獲物を前にした獣のように熱く湿っている。


「か、傘を持っていないのだろう。これを使え。英国の熟練工が手作業で組み上げた、いかなる暴風雨にも折れぬ最高峰の逸品だ。君の衣服を、一滴の泥水でも汚させるわけにはいかない」


「えっ……!? た、鷹見副社長!?」


紬が目を白黒させて固まった、まさにその刹那――


「ずるいですよ鷹見さんッ!! そんな重くて長くて邪魔な傘、紬さんの細い腕に持たせる気ですか!?」


地下階段のドアがドォンと乱暴に蹴破られ、ずぶ濡れの自転車用レインコートを着た成瀬郁が飛び込んできた。


「なっ、成瀬……!?」


成瀬はフードを跳ね上げ、息を切らしながら紬の目の前に滑り込んだ。その手には、掌にすっぽりと収まるサイズの、極小の折りたたみ傘が握られていた。


「紬さん! 僕のを使ってください! 航空宇宙規格の超超ジュラルミンと炭素繊維で組んだ、重量わずか七十五グラムの超軽量チタン骨傘です! 生地には米軍のステルス塗料を応用した自己修復ナノ撥水コーティングが施されていて、振るだけで水滴が完全にゼロになります! バッグに入れても全く重くありません!!」


「成瀬くんまで!? なんでレインコート……!?」


「二人とも、医学的見地を無視した愚行はおやめなさい」


今度はエントランスの正面玄関から、白衣の裾を激しく風になびかせた保科貴文が、滑り込むように現れた。


「保科先生!?」


保科は眼鏡に付着した水滴を指先でスマートに拭うと、二人の間に割って入った。その手に持っていたのは、直径百二十センチはあろうかという、巨大な医療用ジャンプ傘だった。


「紬ちゃん、大丈夫かい? 雨の飛沫に含まれる大気中の汚染物質や細菌は、気道粘膜に重大な炎症を引き起こす恐れがある。この傘は特殊な紫外線・抗菌加工が施されたグラスファイバー製で、成人男性が二人入っても完全に雨を遮断できるサイズだ。さあ、これを受け取って、僕の手配した往診……じゃなくて、安全に帰りなさい」


「タ、タカちゃん……!? 往診の帰りなの……!?」


副社長。社内エンジニア。幼馴染の名医。


都内でも指折りのハイスペック男子三人が、紬の目の前に横一列に並び、それぞれが自慢の最高級傘を突き出している。


だが――狂乱の舞台は、まだ完成していなかった。


ドォォォォォン……ッ!!


エントランスの自動ドアが開き、土砂降りの雨のカーテンを突き破って、一人の巨漢が姿を現した。


全身から湯気のような熱気を立ち上らせ、びしょ濡れの黒いタートルネック越しに凄まじい筋肉の輪郭を浮き立たせた男――梶原敦志。


「……ハァッ……ハァッ……」


青山通りから赤坂までの二キロ以上の道のりを、傘を二本抱えて全力疾走してきた元SPの男が、微動だにせず紬の前に立ち塞がった。


「か、梶原さん!? 走ってきたんですか!? ずぶ濡れじゃないですか!!」


驚愕する紬に、梶原は無言のまま、背中に背負っていた二本の傘のうち一本を、ガシャリと音を立てて差し出した。


それは、要人警護の現場で防弾・防刃シールドとしても機能する、特殊ケブラー繊維を編み込んだ超強靭なミリタリー仕様のアンブレラだった。大型トラックに踏まれても骨が折れず、台風の突風をも真っ向から受け流す究極の盾。


「……これを持っていけ」


梶原は低く、掠れたバリトンボイスで言った。


「風速四十メートルまで耐えられる。……お前を守る。他の軟弱な傘など、役に立たない」


「軟弱だと貴様ァッ!?」と鷹見が眉間に青筋を立てる。

「ケブラー繊維なんて重くて可愛くないじゃんバカ!!」と成瀬が噛みつく。

「過剰な防弾性能より衛生管理が先でしょうが!」と保科が冷笑を浮かべる。


「「「「紬(さん/ちゃん)! 俺/僕の傘を……ッ!!」」」」


バチバチバチバチッ!!


四本の高級傘が、紬の鼻先数センチで交差し、火花を散らした。


四人の男たちの瞳から完全に光が消え去り、互いの喉元に刃物を突きつけ合うような、濃厚極まりない殺意がエントランスホールを満たす。周囲の社員たちは完全に恐怖で息を呑み、壁際まで後ずさっていた。


――しかし。


その四重の殺気と狂気の中心に立たされた当の槇原紬は、目を丸くしてパチパチと瞬いた後。


「わあ……っ!」


まるで、クリスマスの朝にプレゼントを見つけた子供のように、パアッと満面の笑顔を咲かせたのだ。


「みなさん、たまたま通りかかったんですか!? すごい偶然! 奇跡みたい!」


「「「「……え?」」」」


四人の動きが、ピタリと止まった。


「鷹見副社長もお仕事帰りで、成瀬くんも退勤で、タカちゃんも通り道で、梶原さんもお買い物帰りだったんですね! こんな土砂降りの中、私なんかのために傘を譲ろうとしてくださるなんて……!」


紬は両手を胸の前で合わせ、感動で瞳を潤ませていた。


「みなさん、本当に、本当に親切道徳の塊みたいな優しい方ばっかりですね! 私の周りって、どうしてこんなにあったかい人たちばかりなんだろう……!」


純度百パーセントの、一点の曇りもない無垢な善意の眼差し。


その光を正面から浴びせられた四人の怪物は、ウッと息を詰まらせ、突き出していた傘の手を一瞬たじろがせた。


「あ、でも……!」


紬は四本の傘を順に見渡し、申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「せっかくのお気持ちはすごく嬉しいんですけど……どの傘も、すごく高価そうで、立派すぎます! 副社長の英国の傘も、成瀬くんの最新テクノロジーの傘も、タカちゃんの特注の傘も、梶原さんの頑丈そうな傘も……こんなすごい傘、もし私が途中の突風で壊しちゃったり、電車の中に置き忘れたりしたら、申し訳なくて一生立ち直れません!」


「紬、そんなことは気にするな、壊れたら会社ごと買い直せば――」

「僕の傘は壊れません! なくしたらGPSで追跡しますから――」

「僕の処方だと思って受け取って――」

「……弁償など不要だ、持っていけ――」


男たちが必死に食い下がろうとした、まさにその時だった。


「おーい、紬ー!」


背後から、呑気な声が響いた。


振り返ると、そこにはバッグから大きめのビニール袋を取り出しながら歩いてくる、先輩デスクの関茉莉花の姿があった。


「茉莉花先輩!」


「ロビーがやたら騒がしいと思ったら、あんた傘なくて困ってたの? ほら、これ使いなさいよ。さっき給湯室のロッカー整理してたら、昔コンビニで買った六百円のビニール傘が二本出てきたのよ。一本あげるわ」


茉莉花が無造作に差し出してきたのは、どこにでもある、骨が少し歪んだ半透明のビニール傘だった。


その瞬間、紬の顔がパッと輝いた。


「わああっ! 先輩、本当ですか!? 助かります!!」


紬は四人の男たちの前をすり抜け、迷わず茉莉花のビニール傘を両手で受け取った。


「こういう気兼ねなく使えるビニール傘が、一番ありがたいです! 明日、ちゃんとお礼に美味しいお菓子買ってきますね!」


「いいってことよ、六百円だし捨ててもいいくらいなんだから。じゃ、私推しの配信に間に合わないから先行くわねー!」


「はい! ありがとうございました!」


紬は手に入れたビニール傘をパッと広げた。バフッ、と頼りない音を立てて開く骨組み。


そして、紬は呆然と立ち尽くしている四人の男たちに向き直り、満開のひまわりのような笑顔で深々と頭を下げた。


「鷹見副社長、成瀬くん、タカちゃん、梶原さん! 本当にありがとうございました! みなさんのおかげで、心がすっごく温まりました! 大切な高級傘、濡らさないように気をつけて帰ってくださいね! それでは、お先に失礼します!!」


タッタッタッ、と軽快な足音を残し、紬はビニール傘をくるくると回しながら、豪雨のカーテンの中へと楽しそうに駆け出していった。


「あ…………」


「紬……さん…………」


雨風が吹き荒れるエントランス。


手元に残された、英国王室御用達の高級傘。


米軍ナノテク仕様のチタン傘。


医療用特殊抗菌ジャンプ傘。


防弾ケブラーミリタリー傘。


四人のハイスペック男子たちは、突き出した腕を引っ込めることもできず、降りしきる雨と冷たい突風の中に、魂を抜かれた抜け殻のように呆然と立ち尽くしていた。


ヒョオオオオオオオオ……と、容赦ない秋のすきま風が、彼らの間を虚しく吹き抜けていく。


「……ふふ」


その背後から、コツコツと静かな足音が近づいてきた。


専属秘書の佐伯千冬が、手帳を抱えたまま、冷ややかな視線を四人の男たちに向けていた。


「皆様。本日の『傘献上作戦』、見事な大惨敗でございましたね」


「千冬……貴様、見ていたのか……」


鷹見が震える声で呻く。


「ええ、一部始終を。いい大人が寄ってたかって、何十万もする凶器のような傘を四本も突きつければ、常識的な彼女が気を遣って辞退するのは火を見るより明らかです。……それにしても」


千冬はジトッとした目で、ずぶ濡れの四人を見渡した。


「ハイヤーを横付けした副社長、レインコートのエンジニア、往診車を乗り捨てた医師、二キロを全力疾走してきた警備会社社長。……全員揃いも揃って、翌日の風邪薬が必要なのはあなた方の方ですね。早く中に入ってタオルで体を拭いてください。見苦しいですよ」


千冬のため息とともに、四人の男たちの長い、あまりにも長い敗北の夜が更けていくのだった。


遠ざかる雨雲の下で、ビニール傘を差した槇原紬は、今日もまた「世界はなんて親切な人ばかりなんだろう」と、心からの幸せを噛み締めていた。

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