第12話:親友・莉緒の違和感
一週間の労働から解放された金曜日の夜は、どんな高級美容液よりも肌にいい。
時計の針が午後八時半を回った頃、槇原紬の住むデザイナーズマンション402号室のリビングには、食欲をそそる芳醇な香りと、華やかな笑い声が満ちていた。
「かんぱーい! 今週も私たち、生き抜いたー!」
カチン、と心地よい音を立ててぶつかり合う、果汁たっぷりのクラフト缶チューハイ。
ローテーブルの上には、駅ビルのデパ地下で買い込んできた色鮮やかなデリが所狭しと並んでいた。スモークサーモンとアボカドのマリネ、ローストビーフのカルパッチョ仕立て、トリュフ香るフライドポテトに、焼きたてのバゲット。
対面に座り、長い黒髪をかき上げながら喉を鳴らしてチューハイを飲み干したのは、紬の大学時代からの大親友――日下部莉緒だった。
流行のシアーブラウスをスタイリッシュに着こなし、華奢な首元には繊細なゴールドネックレスが揺れている。外資系人気コスメブランドの敏腕PRとして働く莉緒は、大学時代から誰もが振り返る華やかな美女であり、百戦錬磨の恋愛強者。そして何より、人の嘘や違和感をコンマ一秒で見抜く「人間レーダー」の異名を持つ女性だった。
「ぷはぁーっ! 沁みる! 金曜の夜のアルコールって、なんでこんなに全身の細胞に染み渡るのかしらね」
「ふふ、莉緒ちゃん、今日もお疲れさま。新商品のリップの発表会、大盛況だったんでしょう?」
「聞いてよ紬ー! インフルエンサーの手配から会場の照明の調整まで、全部一人で走り回ってさ。某有名モデルが『楽屋のケータリングにグルテンフリーのヴィーガンスイーツがないと機嫌直さない』とか言い出すし、本当に胃が千切れそうだったわよ」
「うわあ……大変だったね。はい、これローストビーフ。いっぱい食べて元気出して!」
「持つべきものは優しい親友ね……愛してるわ紬!」
莉緒はフォークで肉を頬張り、幸せそうに目を細めた。
大学を卒業して社会人四年目。お互いに忙しい日々を送っているが、月に一度はこうしてどちらかの部屋に泊まり込み、時間を気にせず愚痴を言い合い、恋バナに花を咲かせるのが二人の恒例行事だった。
「それにしてもさ」
莉緒はチューハイの缶を置き、ぐるりと部屋を見渡した。
「いつ来ても本当にいい部屋よね、ここ。天井は高いし、防音は完璧だし、内装のセンスも抜群。港区のこの立地で、オートロック二重で顔認証付き……。ねえ紬、本当にここ、家賃『三万円』なの? 不動産屋の手違いで、後から数百万円の請求書が届いたりしない?」
「ふふ、大丈夫だよ。もう半年以上住んでるけど、毎月きっかり三万円が口座から引き落とされてるだけだし。オーナーさんが『とにかく綺麗に使ってくれる真面目な人に住んでほしい』って言ってくれてるみたいで。私、本当に住まいの運だけは神がかり的についてるんだよね」
「……運ねえ。運だけで港区の高級デザイナーズに住めるなら、世の中の女子全員が引っ越してくるわよ」
莉緒は肩をすくめ、バッグから最新型のスマートフォンを取り出した。
「あ、そうだ。紬、自宅のWi-Fiのパスワード教えて。今月のギガ、発表会の動画チェックでほぼ使い切っちゃってピンチなのよ」
「あ、うん! ルーターの裏側にシールが貼ってあるよ。ちょっと待ってね、私がスマホの設定画面見せちゃうね」
紬は手元のスマートフォンを操作し、設定画面のネットワーク一覧を開いて莉緒に差し出した。
「この『TMG-SECURITY-01』ってやつだよ。パスワードはね――」
「オッケー、繋ぐわね……って、え?」
画面を覗き込んだ莉緒の指先が、ピタリと静止した。
莉緒の美しい眉が、不自然な角度に跳ね上がる。
「……紬。これ、何?」
「え? 何って、Wi-Fiだけど……?」
「いや、Wi-Fiなのは分かるんだけどさ」
莉緒はスマートフォンを自分の顔の前に引き寄せ、目を凝らして画面の詳細情報を凝視した。
そこには、一般的な家庭用ルーターでは天地がひっくり返ってもお目にかかれない、異様な文字列がびっしりと並んでいた。
【接続プロトコル:WPA3-Enterprise(192-bit Security)】
【暗号化スイート:AES-GCM-256 / CNSA準拠(米国家安全保障局規格)】
【認証方式:外部多重動的トークン認証(ハードウェア暗号化モジュール直結)】
【回線速度:上り980Mbps / 下り990Mbps(専用ダークファイバー直通)】
「…………」
莉緒は外資系企業に勤めているため、社内セキュリティの講習などで最低限のIT知識は持ち合わせていた。だが、目の前に表示されている規格は、大企業の役員用ネットワークはおろか、国家機関の機密防衛ラインで使われるような代物だった。
「ねえ、紬。あんたの部屋、ホワイトハウスと直結でもしてるの?」
「えっ!? ホワイトハウス!? 何それ?」
「何それじゃないわよ! なんで個人宅のちっぽけなルーターに、アメリカの国防総省レベルの暗号化プロトコルが組み込まれてるわけ!? この『CNSA準拠』って、国家機密を保護するための規格よ!?」
「あー……それね!」
紬はポンと手を叩き、何でもないことのようにカラカラと笑った。
「先週ね、急にWi-Fiの調子が悪くなっちゃって動画が止まるようになっちゃったの。それで会社の給湯室でちょっと困ったなーって話してたら、社内システムを担当してる後輩の成瀬くんが『僕が休日に見に行きますよ!』って言ってくれてね。会社の倉庫に余ってた部品で、パパッと最新型のルーターに交換してくれたの!」
「……成瀬くん? 誰よそれ」
「業務委託で入ってる若いエンジニアの子なんだけどね。人懐っこくてすっごく可愛い後輩なの。お礼に手作りのチョコチップクッキーをあげたら、もう涙目になって喜んでくれてね。『世界一美味しいです!』って叫んで帰っていったんだよ。本当に親切で優秀な子で助かっちゃった!」
「…………」
莉緒の瞳から、アルコールの酔いが急速に引いていった。
会社の倉庫に余っていた部品? そんなわけがない。このレベルの専用暗号化ルーターなど、特注で作れば百万円単位の金が動く。それを休日にわざわざ一人暮らしの女性の部屋まで持参し、手作りクッキーをもらって涙目で帰った……?
(……何かが、おかしい)
莉緒の鋭利な直感が、チリチリと微かな警告音を鳴らし始めていた。
「……ねえ紬。ちょっとベランダ出ていい? 風に当たりたいわ」
「うん、いいよ! まだ夜風は気持ちいい季節だしね。あ、寒かったらブランケット持っていく?」
「平気平気、ちょっとだけだから」
莉緒は缶を片手に立ち上がり、リビングの大きなスライドガラス窓の鍵を開けて、幅広のベランダへと出た。
心地よい秋の夜風が、莉緒の黒髪をふわりと揺らす。
見上げれば、港区の摩天楼の灯りが夜空をほの暗く照らし出していた。四階という高さは、街の喧騒から適度に離れ、プライバシーを守るには絶妙なポジションだ。
「……ん?」
手すりに寄りかかり、何気なく隣の部屋――401号室との境目にある蹴破り戸(隔て板)の周辺を見つめた莉緒は、ふと違和感を覚えて視線を凝らした。
外壁の梁の影、外階段からの視線を遮るルーバーの隙間に、何かが設置されていた。
極小の黒いレンズ。
一見すると、マンションの標準的な外壁用センサーや雨量計のようにも見える。だが、その形状をよく見れば、商業ビルなどで使われる一般的な防犯カメラとは明らかに一線を画していた。
無反射コーティングされた軍用規格の対物レンズ。
周囲の微小な熱源を立体的に感知する、最新型の広角ミリ波レーダーおよびパッシブ赤外線動体センサー。
その照射角度は、マンションの外側ではなく――『紬の部屋のベランダと、窓の開閉動線』を寸分の死角もなくカバーするように、ミリ単位の精度で固定されていた。
(……嘘でしょ? これ、民間用の防犯設備じゃないわよ。要人の別荘とか、大使館の防壁に仕込むようなハイエンドの軍用センサーじゃない……)
莉緒の背筋に、ツツツ……と冷たい汗が伝う。
さらに、その瞬間だった。
「莉緒ちゃーん、温かいハーブティーも淹れたよー!」
リビングから、マグカップを持った紬がトコトコとベランダへ出てきた。
「あ、ありがと……」
莉緒が返事をした、まさにその刹那。
カサリ。
隣の401号室のベランダ。
真っ暗で照明ひとつ灯っていないはずのその部屋の、遮光カーテンの端が――紬がベランダに足を踏み入れたコンマ五秒後に、わずか一センチだけ、音もなくスッと横に引かれたのだ。
闇の奥から、こちらを射抜くような、絶対零度の「視線」。
それは、人間の体温や気配を感じさせない、夜の森に潜む大型の猛獣が獲物を捕捉した時のような、肌を刺す殺気だった。
(ひッ……!?)
莉緒は本能的な恐怖で息を呑み、思わず紬の手首を掴んで部屋の内側へと引き戻しそうになった。
しかし、当の紬は夜空を見上げ、無防備な笑顔で深呼吸をしている。
「ふあー、涼しくて気持ちいい! 星はあんまり見えないけど、空気が澄んでて落ち着くなあ」
紬が伸びをした瞬間、隣室のカーテンは再び、何事もなかったかのように音もなく元の位置へと戻った。
暗闇。沈黙。物音ひとつしない。
まるで最初から何も存在しなかったかのような静寂。
「……ね、ねえ、紬」
莉緒は震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて平静を装いながら尋ねた。
「お隣の401号室って……どんな人が住んでるの?」
「お隣さん? 梶原さんっていう、すごく親切な男の人だよ!」
「親切な……男の人?」
「うん! 要人警護の会社をやってる社長さんらしくてね。体格がすっごく良くて、最初はちょっと強面で近寄りがたい感じだったんだけど……実はすっごく家庭的なの! 実家から野菜が届いたからって、この前もプロ顔負けの絶品肉じゃがをお裾分けしてくれたんだよ。塩分控えめで本当にお出汁が効いてて、美味しかったなあ」
「……肉じゃが」
「そう! それでね、お返しにデパ地下の焼き菓子の詰め合わせを渡したら、両手で大切そうに抱えて帰っていってね。ちょっと無口だけど、本当に心優しいお隣さんなんだよ」
紬は屈託のない笑顔でハーブティーを一口すする。
だが、莉緒の頭の中では、警戒のアラームが耳を劈くような大音量で鳴り響いていた。
(元SPの警備会社社長……? そんな屈強な男が、隣に住む若い女に手作りの肉じゃがをわざわざ届ける……? しかも、あんな軍用センサーでベランダを完全監視した上で……!?)
「……部屋に入りましょ、紬。ちょっと冷えてきたわ」
「あ、うん! 風邪引いちゃったら大変だしね!」
二人はリビングに戻り、サッシを閉めて二重ロックをかけた。
暖かい室内に戻ったものの、莉緒の心臓はドラム缶を叩くような激しい拍動を刻み続けていた。
点と点が、恐ろしいスピードで繋がっていく。
家賃三万円の超セキュリティ物件。
国家機密レベルの暗号化が施されたWi-Fi。
ベランダに設置された軍用監視センサーと、息を潜めて紬の一挙一動を見張る隣人の元SP。
それだけではない。
莉緒は、先ほどから紬が楽しそうに語っていた「最近の出来事」を脳内でフラッシュバックさせた。
『会議で怒鳴られた翌朝に、なぜか即日懲戒解雇されて消え去ったパワハラ部長』
『紬が「食べてみたい」と呟いた翌日、オフィスに奇跡のように四箱も集結したという表参道の幻のカヌレ』
『ゲリラ豪雨の退勤時、なぜか社の副社長、エンジニア、幼馴染の医師、そして隣人の元SPが、全員同時に高級傘を持ってエントランスに集結したという異常なコントのような事件』
(おかしい……! おかしい、おかしい、絶対におかしい!!)
紬はそれを「奇跡の幸運」「周囲の人が親切なだけ」と笑い飛ばしていた。
だが、外資系ブランドの最前線で魑魅魍魎の人間模様を見てきた莉緒には、それがどれほど常軌を逸した異常事態であるかが、痛いほど理解できた。
そんな都合の良い奇跡が、一人の人間の周囲で連続して起きるはずがないのだ。
すべては――『作為』だ。
誰かが、意図的に、完璧な計算と圧倒的なリソースを注ぎ込んで、この環境を作り上げている。
莉緒は膝の上に置いた手を強く握り締め、意を決して紬の正面へと向き直った。
「……紬。真面目な顔して、私の目を見て」
「え? 莉緒ちゃん、どうしたの急に?」
ポテトをつまみかけていた紬が、きょとんとして手を止める。
莉緒は真っ直ぐに、親友の澄んだ瞳を見据えた。
「単刀直入に聞くわよ。……あんた、誰かにストーカーされてるとか、変な男にしつこく言い寄られて困ってるとか、そういう心当たり、本当にない?」
「ええっ!? ストーカー!?」
紬は目をパチパチと瞬かせ、それから吹き出すように笑った。
「ないない、全然ないよ! 見ての通り、私は地味で平凡な編集者だし、浮いた噂なんて大学時代からゼロだよ? それに言ったじゃない、私の周りって本当に親切な人ばっかりなんだよ」
紬は指を折りながら、楽しそうに数え始めた。
「会社の鷹見副社長はいつも温かく見守ってくれるし、成瀬くんはパソコンのトラブルを全部解決してくれるし、幼馴染のタカちゃんは体調が悪くなったらすぐ効く漢方を出してくれるし、隣の梶原さんは美味しいお惣菜を分けてくれるし……本当に、街中のみんなが私の味方なんじゃないかってくらい、平和そのものだよ!」
一点の曇りもない、陽だまりのような笑顔。
悪意の存在など微塵も信じていない、純白の無垢。
その笑顔を見つめながら、莉緒の背筋を、かつて経験したことのない巨大な悪寒が駆け抜けた。
(……違う)
莉緒の喉が、ヒュッと小さく鳴った。
(ストーカーなんかじゃない。一人の変質者が付け狙ってるなんていう、そんな生ぬるいレベルじゃない……)
冷徹な財閥系エリート副社長。
国家規格のハッキングスキルを持つ年下エンジニア。
体調とメンタルを完璧に掌握する幼馴染の名医。
そして、影から暴力と物理防衛を司る元SPの隣人。
それぞれの世界で頂点を極めた、本来なら絶対に交わるはずのないハイスペックな男たち。
その全員が、紬というたった一人の女性の生活圏に完璧に配置され、彼女に指一本触れさせず、悪意を先回りして殲滅し、快適な日常を完璧に演出し続けている。
これは、ストーカーではない。
(……これ、もっとヤバい何かに……『完全包囲』されてる……!!)
目に見えない、巨大で完璧な無菌室の鳥かご。
その鳥かごの中で、紬は自らが捕らわれていることすら知らず、「今日も世界は優しい」と無邪気にさえずっているのだ。
「……莉緒ちゃん? 本当にどうしたの? 顔色がすごく青いよ……?」
心配そうに顔を覗き込んでくる紬。
莉緒は震える指先を隠すようにチューハイの缶を握りしめ、必死で営業用の笑顔を唇に貼り付けた。
「……ううん。なんでもないわ。ちょっと、仕事の疲れが出ちゃったみたい」
「もう、無理しちゃダメだよ! 今夜は美味しいもの食べて、あったかいお風呂に入って、早く寝ようね!」
「……ええ。そうね、ありがとう、紬」
莉緒は微笑みながら、心の中で固く、冷たい誓いを立てていた。
(放っておけない。絶対に、このままにはさせないわ……)
この異常な鳥かごの正体は何なのか。
男たちは裏で何を企み、どうして手を組んでいるのか。
紬のあの眩しい笑顔を、狂気じみた男たちの歪んだ檻から守るために――莉緒の瞳の奥に、かつてない覚悟の炎が静かに灯り始めていた。
部屋の外では、秋の冷たい夜風が吹き抜け、街頭の防犯カメラが静かにレンズの向きを変えていた。
無菌室の綻びに、最初の鋭利なメスが突き立てられようとしていたのだった。




