第8話:限定カヌレ争奪戦(前編)
秋も深まり、街路樹のイチョウが鮮やかな黄金色に染まり始めた十月の下旬。
東京都港区にある『Lumiere』編集部のフロアは、締め切り前の張り詰めた緊張感と、キーボードを叩く軽快なリズムに包まれていた。
窓際のデスクで作業に没頭していた槇原紬は、ふうと心地よい息を吐き出しながら、画面の前で軽く首を回した。
「……うん、体の調子、すごくいいな」
先週まで彼女を悩ませていた不眠と疲労感は、今や嘘のように消え去っていた。幼馴染の保科貴文が処方してくれた漢方薬と高濃度ビタミン剤を毎晩ぬるま湯で飲んで眠るようになってから、朝の目覚めが劇的に軽くなったのだ。
さらに不思議なことに、夜中に理不尽な修正要求を送りつけてきていた新興アパレル『アルテナ』の担当者・佐山は、保科の「予言」通り、社内の重大なコンプライアンス違反が発覚して即日解任されたらしい。アルテナの代表取締役からは丁寧極まる詫び状が編集長宛てに届き、タイアップ企画は極めて健全なスケジュールで仕切り直しとなった。
(タカちゃんのお薬もすごいし、会社の運も味方してくれてる。本当に私って、困ったことがあっても必ず誰かに助けてもらえるんだから……)
紬は手元のアイスティーをストローですすり、温かい感謝の念を噛み締めた。
さて、体調が万全になったところで、目下の仕事は来月号の巻頭特集『自分を甘やかす至福の週末スイーツ』のリサーチである。
紬はデュアルモニターの片方にリサーチ用のブラウザを立ち上げ、都内の最新パティスリーやベーカリーの情報をスクロールしていった。読者が週末に足を運びたくなるような、見た目も美しく、ストーリー性のあるスイーツ。
その時、あるグルメ系インフルエンサーの投稿が紬の目に留まった。
「……わあ、これすごい」
画面いっぱいに表示されたのは、漆黒に近い深い焼き色を纏った、芸術品のように端正なフォルムのカヌレだった。
店名は『ラ・メゾン・ド・レーヴ 表参道』。
パリの五ツ星ホテルでシェフパティシエを務めたフランス人が、先月表参道の閑静な裏路地にオープンさせたばかりの完全予約制パティスリーだ。
紹介文には、涎が出そうなほど魅力的な言葉が並んでいた。
『フランス・ボルドー地方の伝統製法にこだわり、マダガスカル産の最高等級ブルボンバニラと、ジャマイカ産のヴィンテージラム酒を惜しげもなく使用。銅型に天然の蜜蝋を極薄で塗り、極限の火加減で焼き上げたカヌレは、外側はガラス細工のようにカリッと香ばしく、内側はまるで最高級のクレーム・ブリュレのようにとろりと滑らか。素材の選定と焼き上がりの完璧さを追求するため、製造数は【一日わずか二十個限定】。朝十時のオンライン予約枠は、毎日開始五秒で完売する幻のスイーツ――』
「一日二十個……! 外はカリカリで中はとろとろ……どんな味なんだろう」
艶やかな蜜蝋の照り、断面から覗くバニラビーンズの黒い粒たち。見ているだけで口の中に甘やかなラムの香りが広がってくるようだ。
紬は思わず、頬に手を当てて、うっとりと小さく呟いた。
「あー……表参道に新しくできた店の限定カヌレ、一日二十個限定なんだよね……食べてみたいなあ」
それは、仕事中のごくごくありふれた、誰に聞かせるつもりもない、ただの独り言だった。
隣の席で赤ペンを走らせていた先輩デスクの関茉莉花が、顔を上げて笑った。
「ん? 紬、レーヴのカヌレ見てるの? あそこ、今めちゃくちゃ話題よね! うちの編集部でも何人か朝の予約戦争に挑んだけど、サーバーが重すぎて誰一人カートにすら入れられなかったって噂よ。まさに現代の幻覚スイーツね」
「やっぱりそうなんですね。一日二十個じゃ、手に入るわけないかあ。ふふ、記事で紹介するだけにして、私はコンビニの美味しいエクレアで我慢します!」
「あはは、それが現実的ね! 取材申請しても『個人の手作業で手一杯だからメディア取材は一切お断り』って突っぱねられたらしいし」
二人は楽しそうに笑い合い、何事もなかったかのように業務へと戻っていった。
紬にとっては、十秒後には意識から消え去るような、他愛のない世間話。
――しかし。
彼女が座るデスクのノートパソコンの、ヒンジの隙間に仕込まれた米粒大の指向性集音マイク。
そのマイクが紬の「食べてみたいなあ」という微小な周波数を拾い上げた瞬間、デジタル空間の深淵で、巨大な地殻変動が勃発していた。
◇
同刻、本社ビルの地下三階・機械管理区画のさらに奥。
関係者立ち入り禁止の重厚な防音扉に閉ざされた、成瀬郁のプライベート・ラボラトリー。
壁一面に敷き詰められた数十台の高解像度モニターが、不吉な真紅の光で一斉に点滅を始めた。
ピロリロリロリロリロリッ――!!
けたたましい電子警報が室内に響き渡り、サーバーラックのファンが迎撃ミサイル発射時のような高周波を上げて唸りを上げる。
「……ッ!?」
スナック菓子をつまみながらリクライニングチェアに寝そべっていた成瀬は、跳ね起きるようにモニターへ飛びついた。
メインモニターの中央、特大のフォントで赤いダイアログが点滅している。
『音声解析トリガー発動:対象者・槇原紬』
『検出フレーズ:“表参道に新しくできた店の限定カヌレ、一日二十個限定なんだよね……食べてみたいなあ”』
『照合結果:欲求強度レベル・特A(自発的嗜好品要求)』
「紬さんが……カヌレを……ッ!?」
成瀬の瞳孔が限界まで開き、指先がカタカタと痙攣した。
すぐさま特注キーボードに指を滑らせ、男四人だけが共有する軍用規格の最高機密ホットラインを開く。成瀬は迷わず、コンソールの中央にある物理的な赤いスイッチを力任せに押し込んだ。
ビィィィィィィィィン!!
【条約第7条発動:コード・レッド(主人公の自発的欲求に対する支援規定)】
不可侵条約における最重要事項の一つ。
彼女が外部の脅威に晒された際の防衛規定が「コード・ペスト(害虫駆除)」であるならば、彼女が自発的に口にした願望や欲求を全力で叶えるための規定が「コード・レッド」である。
ただし――このコード・レッドには、血で書かれた恐ろしい付帯条項が存在した。
『対象の欲求を満たす権利は、全加盟者に均等に分配されるべきであり、何人たりとも単独での抜け駆け、ならびに独占的供給を行ってはならない。違反者は即座に条約破棄とみなし、残存勢力による共同殲滅の対象とする』
「まずい……! 鷹見さんにも、保科先生にも、梶原さんにも、同時にアラートが飛んだ……!!」
成瀬のモニター上で、三つの端末のステータスランプが、緑から臨戦態勢を示す真紅へと切り替わっていく。
世界大戦の火蓋は、今まさに切って落とされたのだ。
◇
午後二時十分、三十階・副社長室。
ガタッと重厚な革張りチェアが音を立てて後退した。
鷹見征司は立ち上がり、デスクの上のスマートフォンに表示されたアラートを凝視していた。その冷徹な切れ長の瞳の奥に、かつてないほどの狂熱の炎が燃え盛っている。
「……紬が、カヌレを欲している」
鷹見は震える手でネクタイを緩め、窓の外の表参道方面を睨みつけた。
「彼女が望むものは、世界の果てからでも取り寄せて捧げるのが私の義務だ。一日二十個だと? そんなふざけた生産数で彼女を待たせるなど、万死に値する愚行だ」
鷹見は内線ボタンを乱暴に叩いた。
「千冬! 今すぐ入れ!」
バタン、と音を立てて扉が開き、専属秘書の佐伯千冬が冷ややかな視線を向けながら入室してきた。その手にはすでにタブレットと胃薬のシートが握られている。
「副社長。先ほどからあなたの携帯端末からけたたましいサイレンが鳴り響いておりましたが、今度はどのような国家存亡の危機でしょうか」
「千冬。表参道にあるパティスリー『ラ・メゾン・ド・レーヴ』の運営会社および資本関係を今すぐ洗え」
「……は?」
千冬が眉をひそめた。
「パティスリー、ですか?」
「そうだ。あの店のオーナー企業、あるいは土地の所有者を特定し、即座に買収交渉を開始しろ。言い値の三倍……いや、十倍の買収額を提示しろ。今日中に株式の過半数を取得し、鷹見グループの完全子会社とする」
鷹見は真顔で、何一つ冗談を言っている気配のない絶対零度の声で命じた。
「買収完了後、当該フランス人パティシエを我が社の役員待遇専属シェフとして雇い入れる。本社の厨房を最高級設備に改装し、彼女のためだけに一日百個のカヌレを焼かせろ。明日の朝、彼女のデスクを焼きたてのカヌレの山で埋め尽くすのだ」
「……副社長」
千冬は深く、深く息を吐き出し、タブレットの画面をペンでコンコンと叩いた。
「正気ですか? たかが社員一人の『カヌレが食べたい』という独り言のために、数十億の資金を動かして飲食企業を買収するなど、株主代表訴訟を起こされたら一発で敗訴します。だいたい、デスクに百個もカヌレを積まれたら、紬さんは喜ぶどころか恐怖で警察に通報しますよ」
「なに……?」
「『誰がこんな気味の悪いことをしたんですか!?』と泣き叫ぶ紬さんのお顔が見たいのですか?」
「ッ……!!」
鷹見は胸を押さえ、苦痛に顔を歪めてソファーに崩れ落ちそうになった。
「そ、それは……耐え難い……。だが、指をくわえて見ているわけにはいかない! 他の三匹のハイエナどもが、必ず抜け駆けを企んでいるはずだ……!」
◇
同じ頃、南青山の『保科メディカル・メンタルクリニック』。
院長室のデスクで、保科貴文は銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、パソコンの画面に表示された『ラ・メゾン・ド・レーヴ』の公式ホームページを凝視していた。
その菩薩のような微笑みは完全に消え失せ、冷酷な研究者のような光が瞳に宿っている。
「……カヌレ、ですか」
保科は白衣の胸ポケットから万年筆を取り出し、机の上のメモ用紙に素早く化学式のような文字を書き殴っていった。
「小麦粉、鶏卵、牛乳、バター、砂糖、ラム酒、バニラビーンズ。……糖質と脂質の塊ですね。紬ちゃんの健康管理を司る身としては、看過できない高カロリー食品です。しかし……彼女がそれを心から欲しているというのなら、精神的充足によるセロトニン分泌の観点から、適量の摂取は推奨されるべきでしょう」
保科は受話器を取り上げ、院長直通の内線を回した。
「あ、事務長ですか。急ぎでフランスの厚生労働省、ならびにボルドーの有機農業連盟に連絡を取ってください」
『は、はい? 院長、フランスですか……?』
「ええ。『ラ・メゾン・ド・レーヴ』で使用されている小麦粉の契約農場、および放牧牛の発酵バターの製造ラインについて、残留農薬と細菌検査の全データを照会します。必要であれば、今夜の便で僕が現地へ視察に飛びます。紬ちゃんの繊細な消化器官に、ほんのわずかでも粗悪な原材料を入れるわけにはいきませんからね。……それと、厚生労働省の食品安全監視課にいる僕の知人に連絡を。あの店に抜き打ちの衛生立ち入り検査を入れさせ、基準を満たしているか徹底的に精査させます」
受話器を置いた保科は、引き出しから取り出した精神安定剤をポリポリと噛み砕いた。
「ふふ……安心してくださいね、紬ちゃん。僕が世界一安全で、完璧に滅菌されたカヌレを、医療用保冷ボックスに入れて届けてあげますからね……」
◇
さらに同じ頃、港区のマンション・401号室。
無機質なトレーニングルームの床で、梶原敦志は百五十キロのバーベルを無言で持ち上げていた。
フシュー、フシュー、と規則正しい呼気。
鍛え抜かれた筋肉が鋼のように軋む中、部屋の片隅に置かれたホットライン端末が、赤い光とともに「コード・レッド」のテキストを吐き出した。
ドスン!
梶原はバーベルを床に叩き落とし、荒い息のまま端末へと歩み寄った。
「……カヌレ」
画面に表示されたパティスリーの住所――表参道。
一日限定二十個。朝十時オープン。
梶原の脳内で、警視庁SP時代に培われた要人警護・物理制圧のアルゴリズムが超高速で展開された。
「オンライン予約は成瀬の土俵だ。資本力は鷹見に及ばない。……ならば、物理制圧(先頭確保)あるのみ」
梶原は即座にクローゼットを開け、特殊任務用の装備を選定し始めた。
赤外線暗視ゴーグル、折りたたみ式超軽量カーボンチェア、高密度防寒インナー、雨天用カモフラージュシート、そして周囲の通行人に不審がられないための「大手広告代理店の徹夜組スタッフ」の偽装身分証。
「明日の朝十時オープンならば、前日の夜二十二時には現地へ潜入し、店舗前の死角を完全確保する。氷点下の夜気だろうが、暴風雨だろうが関係ない。何者であれ、俺より先にあの店の敷居を跨ぐことは許さない」
梶原は愛用のタクティカル・グローブを嵌め、拳を強く握り締めた。
「……あの人が食べたいと言ったのだ。俺が一番乗りで買い、玄関の前に無言で置き配する。それだけでいい」
◇
そして――地下のラボラトリー。
「甘い! みんな甘すぎるよ!!」
成瀬郁は狂ったようにキーボードを連打していた。画面には無数のターミナルウィンドウが立ち上がり、緑色のコードが滝のように流れ落ちている。
「買収? 視察? 徹夜で並ぶ? そんな前時代的な泥臭い方法で紬さんを待たせるなんて、全員頭が悪すぎる! 今の時代はネットワークが全てなんだよ!」
成瀬は『ラ・メゾン・ド・レーヴ』の予約システムのアーキテクチャを瞬時に解析していた。
「クラウドサーバーはアマゾンのAWS、予約フォームのエンジンは汎用のチケット予約システム……脆弱性だらけじゃん。明日の朝九時五十九分五十九秒、表参道エリアの基地局から飛んでくる一般ユーザーのアクセスパケットを、僕のボットネットで丸ごとDDoS攻撃(サービス妨害攻撃)して遮断する。そして、僕の専用スクリプトだけが秒速〇・〇〇一秒で予約枠二十個を全数落札する……!」
成瀬は妖しく目を輝かせ、唇を舐めた。
「ふへへ……二十個全部僕のもの。十九個は僕の冷凍庫に永久保存して、一個だけを紬さんの社内メールに『システムテストのお礼の懸賞当選』って名目で送るんだ……完璧すぎる……!」
その時だった。
ピピピピピピピピピッ!
成瀬の画面に、鷹見、保科、梶原の三つの通信が同時に割り込んできた。
『成瀬。貴様、不穏なパケットを飛ばしているな。今すぐ攻撃スクリプトを停止しろ』
『成瀬くん。予約枠を独占しようなど、明白な条約違反ですよ。君のラボの換気口に催眠ガスを流し込みましょうか?』
『……回線を切れ。さもなくば、貴様のラボの電源トランスを物理的に破壊する』
「うわああああっ! 邪魔しないでよハイエナ共!!」
成瀬が絶叫した瞬間、四人の端末の画面が一斉にブラックアウトし、共通のメッセージが表示された。
『全員、直ちに集合せよ。場所はいつものスイートルームだ。……これ以上の単独行動は、全面戦争を引き起こす』
発信元は、条約の調停人――バーテンダーの九重圭だった。
◇
午後十時、六本木『ザ・クラウンタワー東京』最上階プレジデンシャル・スイート。
バァンッ!!
重厚な扉が蹴破らんばかりの勢いで開かれ、四人の男たちが殺気を剥き出しにして雪崩れ込んできた。
室内の空気は、もはや呼吸するだけで肺が凍りつきそうなほど張り詰めていた。
「鷹見! 貴様、本気であのパティスリーを買収する気か!?」
保科が白衣を翻し、普段の穏やかさを完全にかなぐり捨てて鷹見の胸ぐらに迫る。
「資本の力で紬ちゃんを囲い込もうなど、浅ましいにも程があります! 彼女が求めているのは純粋なスイーツであって、あなたの企業の独占欲ではない!」
「黙れ、ヤブ医者!」
鷹見が保科の手を払いのけ、冷酷に睨み返す。
「視察だの衛生検査だのと称して、役所の権力を笠に着て店を脅迫しようとした貴様が何を言うか! 私の正当な買収提案こそが、彼女に永遠のカヌレ供給を約束する唯一の合理解だ!」
「どっちも間違ってるよ!!」
成瀬がノートPCを振りかざしながら割り込む。
「紬さんが食べたいのは『明日』なんだよ! 買収の手続きなんて何週間もかかるじゃん! 僕が明日の朝の予約枠をハッキングで独占するのが一番早くて確実なんだ!」
「……貴様のサイバー犯罪は、あの人の名誉を汚す」
梶原の地を這うような重低音が響いた。
梶原はすでに全身完全防寒のタクティカルウェアに身を包み、リュックサックを背負っていた。その瞳は、獲物を狙う猛獣そのものだ。
「俺が今から並ぶ。雨が降ろうが槍が降ろうが、朝十時まで店頭を死守する。物理的な行列こそが、最も確実で法に触れない正当な手段だ」
「二十二時から並ぶなんて警察に通報されるに決まってるだろ、脳筋が!!」
「貴様……今なんと言った?」
チィン! と鷹見のペーパーナイフが抜かれ、成瀬がエンターキーの上に指を構え、保科がポケットの注射器に手をかけ、梶原が特殊警棒をカチリと伸ばす。
四つの狂気が完全に衝突し、互いの喉元に凶器が突きつけられた。
「抜け駆けは条約破棄とみなすぞ! 貴様をここで殺してでも止める!」
「やれるものならやってみろ! お前のクリニックの全データを晒し上げてやる!」
「ならどうやって紬ちゃんに届けるんだ!!」
「彼女を悲しませる権利は、誰にもないはずだ……!!」
怒号と殺意が渦巻き、スイートルームが今まさに血の海へと変わろうとした、その刹那――
ガシャアアアアアンッ!!
カウンターの奥で、クリスタルのミキシンググラスが床に叩きつけられ、粉々に砕け散る凄まじい破壊音が響き渡った。
「「「「…………!?」」」」
四人の動きが、ピタリと静止した。
カウンターの向こうで、チーフバーテンダーの九重圭が、両手で激しく胃を押さえ、顔面を土気色に染めながら肩で息をしていた。
その額には脂汗が滝のように流れ、蝶ネクタイは無残に曲がっている。
「……ええ加減に……せえよ、あんたたち……ッ!!」
普段は丁寧極まる標準語を崩さない九重の口から、怒りと激痛に満ちた関西弁の怒声が絞り出された。
「店内で……! 凶器を……出すなと……あれほど言ったでしょうが……ッ! 胃が……私の胃壁が……今まさに穿孔を起こしかけてるんですよ……ッ!!」
九重はカウンターの下から、特大ボトルの胃腸薬と粉末の鎮痛剤を取り出し、水もなしに口の中へ一気に流し込んだ。
ゴクリ、と喉を鳴らして薬を飲み下すと、九重は血走った目で四人の怪物を順に指差した。
「カヌレ! カヌレ一個で何を殺し合ってるんですか、日本を動かすトップエリートたちが! 恥を知りなさい、恥を!!」
「九重……しかし彼女が……」
「うるさい鷹見副社長! 買収なんかしたらあの子が怖がるって秘書の佐伯さんも言ってたでしょうが! 保科先生もフランスに飛んでる場合ですか、明日の予約患者はどうするんです! 成瀬くんもサイバー攻撃で予約枠を潰したらパティスリーが警察に被害届を出して大騒ぎになります! 梶原さん、あなたその格好で表参道に夜中から立ってたら、元同僚の警察官に職質されて一発で連行されますよ!!」
九重の痛烈極まる正論の連射に、四人のハイスペック男子たちが、まるで叱られた大型犬のように一斉に押し黙る。
「ハァ……ハァ……ッ」
九重は荒い呼吸を整え、カウンターに両手をついた。
「いいですか。条約の根本原則は何でしたか? 『彼女に嫌われないこと』『彼女に不気味さを感じさせないこと』でしょう。……誰か一人が抜け駆けしてカヌレを渡せば、必ず不自然な歪みが生まれます」
九重は冷たい視線で四人を見渡した。
「四人が全員、己の能力を限界まで行使し、しかし決して互いの足を引っ張らず、かつ彼女に『奇跡の幸運』と思わせる形で届ける……。そのための完全な作戦を、今夜ここで構築するのです。……朝まで一歩もここから出しませんよ」
九重の凄まじい気迫に圧され、四人はゆっくりと武器を収め、テーブルへと戻った。
翌朝、表参道のパティスリー『ラ・メゾン・ド・レーヴ』の開店時間を巡り、前代未聞の奇跡と混沌の幕が上がろうとしていた。
自らの何気ない一言が、国家を揺るがすレベルの狂気を動かしていることなど、ベッドの中でスヤスヤと眠る槇原紬は、まだ知る由もなかったのである。




