第7話:幼馴染のカルテには書けないこと
港区南青山の一角、洗練された並木道に面した低層ビルの二階。
ガラス張りのエントランスを抜けると、そこには病院特有のツンとした消毒液の匂いなど微塵も感じさせない、まるで高級ホテルのラウンジのような空間が広がっていた。
壁面には柔らかな珪藻土が塗られ、床には足音を吸収する厚手のウールカーペット。待合室のソファーは北欧のデザイナーズ家具で統一され、壁のアロマディフューザーからはベルガモットとラベンダーをブレンドした天然精油の香りが微かに漂っている。
『保科メディカル・メンタルクリニック』。
一般内科、心療内科、そして予防医学を標榜するこのクリニックは、完全予約制で財界人や著名人もお忍びで通う名院として知られている。そして、その院長を務めている男こそが――槇原紬の二歳年上の幼馴染、保科貴文だった。
「――槇原紬さま、一番診察室へどうぞ」
柔らかなトーンのアナウンスに呼ばれ、紬は膝の上に置いていたバッグを抱えて立ち上がった。
「はーい」
今日は年に一度の定期健康診断の日だった。会社指定の提携医療機関としてこのクリニックが登録されていたため、紬にとっては勝手知ったる幼馴染の職場への里帰りのようなものだった。
一番診察室の木製の引き戸を引くと、大きな窓から午後の柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。
デスクの前に座っていたのは、仕立ての良い純白のドクターコートを身に纏い、銀縁の眼鏡をかけた優美な青年だった。雑誌の「美しすぎる名医特集」の表紙をそのまま飾れそうな端正な顔立ちに、仏のように穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
「いらっしゃい、紬ちゃん。外は寒くなかったかい?」
「タカちゃん、こんにちは! 全然寒くなかったよ。相変わらずこのクリニック、落ち着くいい匂いがするね」
紬が対面の丸椅子にちょこんと腰掛けると、保科はカルテを開きながら目を細めた。
「気に入ってくれて嬉しいよ。患者さんがリラックスできるよう、内装も香りも僕が厳選したからね。……さて、今日は定期健診だね。基本的な測定や血液検査は後で看護師にやってもらうとして、まずは僕の問診と聴診から始めようか」
「うん、よろしくお願いします!」
紬が無防備に笑う。
小学校に上がる前からの付き合いである保科は、紬にとって「何でも相談できる頼もしいお兄ちゃん」そのものだった。頭が良くて、優しくて、いつも自分の味方でいてくれる絶対的な味方。
だが、紬は知らなかった。
保科がカルテをめくるその細く綺麗な指先が、彼女と対面した瞬間からミリ単位の緊張で微かに強張っていることを。
「体調で何か気になるところはあるかい? 食欲や、お通じとか」
「あー……食欲はモリモリあるんだけどね。実は最近、ちょっと仕事が立て込んでて、寝不足気味かも」
「寝不足?」
保科の眼鏡の奥の瞳が、ピクリと揺れた。
「……具体的に、どんなふうに眠れないのかな?」
「うーん、ベッドに入っても頭が冴えちゃって、夜中の二時とか三時まで目が冴えちゃうんだよね。朝起きると体がちょっと重くて。でも、仕事が忙しい時期だから仕方ないかなって思ってるんだけど」
「なるほどね。……少し、胸の音を聴かせてくれるかい」
保科は首にかけていた聴診器を手にした。そして、冷たい金属部分が紬の肌に直接触れて驚かせないよう、自分の手のひらで包み込み、人肌の温もりになるまで丁寧に温める。
「ちょっと服の上から当てるよ。息を吸って……吐いて」
「すぅー……はぁー……」
紬が素直に深呼吸を繰り返す。
至近距離。薄いブラウス越しに、保科の指先が紬の胸元へと近づく。
(…………っ)
プロの医師として、保科の表情は完璧に穏やかなマスクを維持していた。
しかし――聴診器のイヤーピースから伝わってくる紬の心音、トクン、トクンという規則正しい鼓動の音を聞いた瞬間、保科自身の心臓が激しく暴れ馬のように跳ね上がっていた。
触れている。
世界で一番愛しい、十年間片思いし続けている少女の、胸の温もりに。
シャンプーの甘い香りが、保科の理性を内側から激しく揺さぶる。今すぐ聴診器を放り出し、この華奢な体を強く抱きしめて、「僕の元へおいで、もう働かなくていい、僕の作った鳥かごの中で一生安らかに眠ればいい」と囁いてしまいたい。
――だが、できない。
保科の脳裏に、冷徹な現実がブレーキをかける。
もし今、ここで一線を越えればどうなるか。
紬は目を白黒させ、恐怖し、自分を「気持ちの悪い男」として拒絶するだろう。十年間かけて築き上げてきた「安全な幼馴染」という絶対の聖域から叩き落とされ、二度と笑顔を向けてもらえなくなる。
それだけは――死んでも耐えられない。
彼女に嫌われることへの底知れぬ恐怖。それこそが、保科貴文という怪物の首に巻かれた、もっとも頑丈な鎖だった。
「……うん、心音に雑音はないね。呼吸音も綺麗だ。ただ……少し脈が速いかな」
保科は聴診器を外し、平静を装って息を吐いた。
嘘だった。脈が速くなっていたのは、他でもない保科自身の方だった。
「タカちゃん、やっぱりお医者さんなんだね。聴診器当てられると、なんだかちょっと緊張しちゃう」
「ふふ、幼馴染だからって緊張しなくていいのに。……ところで、紬ちゃん」
保科は机の上に両肘をつき、指を組んだ。その口元には優しい笑みが浮かんでいるが、眼鏡の奥の光は、獲物を解剖するメスのように冷徹に研ぎ澄まされていた。
「その『仕事の忙しさ』について、もう少し詳しく聞かせてもらってもいいかな? どんな案件で、どんなスケジュールで動いているのか。……医学的なストレス要因の特定のためにね」
「え? あ、うん。実はね――」
紬は疑いもせず、最近始まったタイアップ企画についてポロポロと話し始めた。
「新進気鋭のレディースアパレルブランドの『アルテナ』っていう会社と、コラボ連載をやることになったの。すごくオシャレで注目されてる企業だから、頑張りたいんだけど……担当の男性の方が、ちょっと連絡が不規則で」
「連絡が不規則?」
「うん。夜中の一時とか二時に、チャットツールで『明日の朝九時までにバナーのデザインを五パターン差し替えて』って急な指示が飛んできたりして。見落としたら大変だから、通知が気になってベッドの中でもスマホを手放せなくなっちゃって……」
「…………」
「でも! 先方もブランドの立ち上げで必死なんだと思うの! 私も期待に応えたいし、もう少し頑張れば慣れると思うんだよね!」
紬は前向きに笑った。
その瞬間。
保科の網膜の奥で、すべての感情の光が完全に消失した。
◇
――睡眠不足の真犯人は、新興アパレル『アルテナ』の担当者。
深夜一時の理不尽な業務連絡。それによる睡眠導入障害、ならびに持続的な中途覚醒。
保科のデスクに置かれた、外部からは見えない超薄型モニター。
そこには、紬のスマートウォッチから二十四時間体制で転送されてきている、緻密極まりない生体データがリアルタイムで描画されていた。
【紬の過去一週間の体温変動グラフ】
【歩数データおよび移動速度】
【睡眠ステージ解析:レム睡眠三十四パーセント減、深睡眠(ノンレムステージ3・4)四十八パーセント減】
【自律神経バランス:交感神経の持続的優位状態】
保科は最初から、すべてを把握していたのだ。
紬がここ数日、深夜に何度も目を覚まし、心拍数を跳ね上がらせていたことを。その理由が、外部の不届き者による精神的加害であったという事実を、今まさに本人の口から裏付けたに過ぎなかった。
(……許しがたい)
保科の胸の奥で、どす黒いマグマが静かに沸騰した。
(僕の紬ちゃんの睡眠時間を……あの無垢で愛らしい寝顔を、夜中の二時に叩き起こしただと? ただでさえ繊細な彼女の自律神経系を、己の杜撰なスケジュール管理で傷つけた……?)
万死に値する。
今すぐその担当者の頸動脈に筋弛緩剤を撃ち込み、二度と目を覚まさない永遠の睡眠を処方してやりたい衝動が全身を駆け巡る。
だが――保科はプロの医師であり、不可侵条約の調停者の一人だった。直接的な物理暴力は梶原の領分であり、自分の領分は「合法的な社会的・精神的解体」である。
「紬ちゃん。詳しいお話を聞かせてくれてありがとう」
保科は満面の笑みを浮かべ、カルテにすらすらと文字を走らせた。
「状況はよく分かったよ。……ちょっと看護師を呼んで、採血と心電図の準備をしてもらおうか。少しだけ待合室の奥の処置室で横になっていてくれるかい?」
「はーい! 採血、ちょっと苦手だから優しくやってね」
「ふふ、分かっているよ。一番腕利きのベテラン看護師に担当させるからね」
紬が処置室へと案内され、診察室の扉がパタンと閉まった。
カチャリ。
扉の鍵が自動で施錠された瞬間、保科の顔から慈愛の笑みが綺麗さっぱり剥がれ落ちた。
保科は白衣のポケットから、男四人専用の暗号化スマートフォンを取り出し、グループチャットを開いた。
【保科:緊急インシデント報告。対象(紬ちゃん)の睡眠障害および自律神経失調の主因を特定。加害者は新興アパレル企業『アルテナ』の企画担当者・佐山(三十一歳・男性)。深夜時間帯における継続的な業務外強要行為により、紬ちゃんの深睡眠を計四百八十分奪取。……条約第6条・健康被害防止規定に基づき、要・徹底的制裁】
送信ボタンを押してから、わずか三秒後。
画面に、二つの既読が同時についた。
【鷹見:報告を確認した。……佐山だな。直ちにアルテナの財務諸表および大株主構成を洗う。あの会社は、我が鷹見キャピタルが間接出資しているベンチャーファンドの投資先企業だ】
冷酷無比な副社長の文字が並ぶ。
【鷹見:アルテナのメインバンクである東都中央銀行の融資統括部長は、私の大学の先輩だ。先ほどメッセージを送り、アルテナに対する当座貸越枠の即時凍結と、直近の設備資金の返済期限繰り上げを通告させた。資金ショートまで猶予は四十八時間だ】
即座に、三つ目の既読が点灯し、成瀬からのメッセージが濁流のように流れ込んでくる。
【成瀬:うわー、出たよ害虫! 紬さんの睡眠時間を削るやつは僕が許さない! 佐山の個人スマホ、SNSの裏アカウント、ついでにマッチングアプリの登録データまで全部抜いたよ〜】
成瀬から添付ファイルが送られてくる。
【成瀬:佐山、鍵付きの裏アカウントで『クライアントの女編集者、チョロすぎて夜中に無茶振りしてもペコペコしてて草』って呟いてました。完全にアウトですね。この発言の魚拓と、彼が会社の機密デザイン画を勝手に裏垢にアップロードしてた証拠をパッキングして、アルテナの代表取締役と全役員のメールアドレスに一斉送信しておきました。あと一時間で社内査問会が始まります】
【保科:お見事です、二人とも。……梶原さんは?】
【梶原:……佐山の自宅マンション、ならびにオフィスの監視カメラ網を掌握した。精神的に追い詰められた対象が逆上し、紬の動線上に逃げ込む可能性を想定。退勤ルートを先回りして物理的に遮断する】
【保科:結構です。僕の方からも、アルテナの親会社に対して『取引先従業員に対する重篤な精神的損壊行為に関する医療意見書』を正式に提出しておきます。これで、佐山という男の業界内での居場所は完全に消滅しますね】
保科はキーを叩きながら、冷ややかな、美しい三日月のような笑みを浮かべた。
【保科:佐山さんには、今後数ヶ月にわたって重度の胃潰瘍と不眠症に悩まされる日々をプレゼントしてあげましょう。……人の睡眠を奪うことがどれほどの罪か、己の胃液の酸度で学ぶといい】
処刑宣告のチャットが完了すると、保科は何事もなかったかのようにスマートフォンを白衣の奥へ仕舞い込んだ。
◇
二十分後。
処置室での採血と検査を終え、絆創膏を腕に貼った紬が、再び診察室へと戻ってきた。
「タカちゃん、終わったよー! 看護師さん、全然痛くなくて上手だった!」
「それはよかった。採血の数値も、速報値を見る限り貧血や炎症反応はないよ。君の体は至って健康だ」
保科は先ほどまで裏で一人の人間の社会的生命を抹殺していた男とは到底思えない、菩薩のような優しい笑みで紬を迎えた。
デスクの上には、可愛らしい小袋に入った二種類の薬が置かれていた。
「はい、紬ちゃん。これは僕からの処方箋だよ」
「お薬? ビタミン剤かな?」
「うん。水溶性の高濃度ビタミンB群と、自律神経を整えて睡眠の質を高める『酸棗仁湯』という漢方薬をブレンドしておいたよ。寝る前の三十分前に、ぬるま湯で飲んでごらん。頭の緊張がスーッと解けて、ぐっすり眠れるはずだから」
「わあ……! 漢方まで出してくれるなんて、やっぱりタカちゃんのクリニックは至れり尽くせりだね!」
紬は両手で大切そうに薬の袋を受け取り、嬉しそうに胸に抱きしめた。
その無邪気な姿を見つめながら、保科はふと思い出したように、ごく自然な口調で言葉を添えた。
「――そうそう、紬ちゃん。さっき話していた『アルテナ』のアパレルの案件だけどね」
「え? アルテナがどうしたの?」
「うん。……多分、その案件はもうすぐ向こうの社内体制の都合で、企画ごと白紙撤回になるか、担当者が代わって仕切り直しになると思うよ」
「ええっ!?」
紬は目を丸くして驚いた。
「な、なんでわかるの!? まだ企画が始まったばかりだし、社内でもそんな話は全然出てないのに……!」
「ふふ、医者の勘、かな」
保科は人差し指を唇に当て、悪戯っぽくウインクしてみせた。
「あの規模の新興ベンチャーはね、急激に拡大すると財務やガバナンスの歪みが出やすいんだ。近いうちに上層部で大きな人事刷新が起きるという業界の噂を、たまたま僕の患者さん筋から耳にしてね。だから、無理に夜中の連絡に付き合って心をすり減らす必要はないよ。君はただ、定時で自分のベストを尽くしていればいい」
「そ、そうなんだ……! タカちゃんって、お医者さんなのに経済の裏情報まで知ってるなんて、なんだか予言者みたい!」
「予言者だなんて、そんな大層なものじゃないよ。僕はただ……君が夜、あたたかいお布団の中で、誰にも邪魔されずに幸せな夢を見ていてほしいだけさ」
「タカちゃん……本当にありがとう! なんだか話を聞いてもらっただけで、肩の荷が下りちゃった!」
紬は満面の笑みを咲かせ、深々と頭を下げた。
「今夜から、このお薬飲んでぐっすり寝るね! じゃあ私、そろそろ会社に戻るね!」
「うん、気をつけて帰るんだよ。外は少し風が出てきたから、首元を冷やさないようにね」
「はーい!」
パタパタと軽快な足音を立てて、紬は診察室を出て行った。
一人残された診察室で、保科は静かに立ち上がり、窓の外を見下ろした。
秋風に揺れる街路樹の下を、紬が軽やかな足取りで歩いていく。その数百メートル後方には、キャップを目深に被った梶原の車が、音もなく一定の車間距離を保って追走していた。
そして――
保科の手元の端末に、鷹見からの完了通知が届いた。
『アルテナ代表取締役より連絡あり。社内コンプライアンス違反により、担当者・佐山の即時解任および懲戒解雇が決定。雑誌連載の無茶な要望について、正式な謝罪文が編集長宛に送達される』
「……よし」
保科は冷たく呟き、自らの処方箋の控えをゴミ箱へと放り込んだ。
「今日も、紬ちゃんの眠りは守られた。……おやすみ、紬ちゃん。今夜は、誰の悪意も届かない世界で、いい夢をごらん」
白衣の怪物は、眼鏡の位置を静かに直すと、次の患者を呼ぶためのブザーを押した。
無菌室の空気を濁す害虫は、また一匹、彼女の知らないところで人知れず灰燼に帰したのだった。




