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私の日常が平和すぎるのは、周囲の男たち(全員ヤンデレ)が水面下で不可侵条約を結んでいるかららしい  作者: ヒデコ


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第6話:肉じゃがと耐火金庫

日曜日の夕暮れ時、港区の空は茜色から群青色へと、美しいグラデーションを描きながら静かに暮れなずんでいた。


槇原紬(まきはら つむぎ)は、清潔感のあるオープンキッチンの前に立ち、冷蔵庫の野菜室を覗き込みながら、小さく「うーん」と唸り声を上げた。


「卵が二個に、使いかけのキャベツが少々、それに賞味期限が今日までの納豆……。これで一食分のおかずを作るとなると、かなり寂しいメニューになっちゃうな」


昨日の土曜日は、自宅のWi-Fiの不調を直しに来てくれた社内エンジニアの後輩・成瀬郁のためにクッキーを焼いたり、原稿の直しをしたりしていたため、買い出しに行くのをすっかり忘れていたのだ。今からスーパーへ行くのも億劫だし、かといってデリバリーを頼むと一人前には量が多すぎる。


「納豆オムレツと、キャベツのお味噌汁で済ませちゃおうかな。一人暮らしのズボラ飯ってことで……」


紬が自虐気味に笑い、冷蔵庫から卵のパックを取り出そうとした、まさにその瞬間だった。


ピンポーン、と耳に心地よい澄んだインターホンの電子音が、静かな室内に響いた。


「あれ? 宅急便かな……? 何も頼んだ覚えはないんだけど」


紬は小走りで玄関脇のモニターへ向かい、通話ボタンを押した。


液晶画面に映し出されていたのは、宅配業者ではなく、隣の401号室に住む長身の男――梶原敦志(かじわら あつし)だった。


鍛え上げられた頑強な肉体に、シンプルな黒の長袖カットソー。無駄な脂肪の一切ない彫りの深い顔立ちと、鋭く引き結ばれた薄い唇は、相変わらず映画に出てくる特殊部隊員のような近寄りがたい威圧感を放っている。だが、その引き締まった両手には、場違いなほど家庭的な、淡いブルーの耐熱ガラス製タッパーが大切そうに抱えられていた。


「あ、梶原さん! 今開けますね!」


紬が鍵を開けて玄関のドアを引くと、廊下の冷たい空気とともに、食欲を激しく刺激する芳醇な和風出汁の香りがふわりと漂ってきた。


「こんばんは、梶原さん。どうされたんですか?」


紬が見上げると、梶原はピシリと背筋を伸ばし、わずかに顎を引いて会釈した。


「……夜分にすまない、槇原さん。突然押しかけて迷惑だっただろうか」


低く、深く響くバリトンボイス。言葉遣いは極めて礼儀正しいが、その表情は能面のように硬い。一見すると怒っているようにも見えるが、半年間隣人として接してきた紬には分かっていた。この人はただ、極度の口下手で不器用なだけなのだと。


「迷惑だなんてとんでもないです! ちょうど夕ご飯をどうしようか考えていたところだったんですよ」


「……そうか。それなら、ちょうどよかった」


梶原は持っていたガラスのタッパーを、恭しく両手で紬の前へと差し出した。


「実家から、無農薬の根菜類と上質な黒毛和牛が大量に送られてきてな。一人では到底消費しきれず、肉じゃがを作ったのだが……作りすぎてしまった。もし口に合うなら、消費を手伝ってもらえないだろうか」


「ええっ、肉じゃがですか!?」


タッパーの透明なフタ越しに覗くその料理は、紬の想像する「男の一人暮らしの作りすぎた料理」のクオリティを遥かに超越していた。


一口大に美しく面取りされ、煮崩れひとつなく飴色に煮透き通った大ぶりのジャガイモ。鮮やかな朱色を残した人参、透明感を帯びた玉ねぎ、そして惜しげもなく投入されたサシの入った牛肉。仕上げに散らされた絹さやの鮮やかな緑が、全体を料亭の逸品のように引き締めている。


「す、すごい……! めちゃくちゃ美味しそうです! お出汁のすごくいい香りがします!」


「……味付けは薄めにしてある。口に合えばいいのだが」


「合わないわけないですよ! 梶原さん、いつも本当にお料理がお上手ですね。前回の豚汁も、お店で食べるより美味しくて感動しちゃいました」


「……過分な言葉だ。では、温めて食べてくれ」


梶原はタッパーを紬に手渡すと、まるで任務を完了した兵士のように踵を返そうとした。


「あ、待ってください梶原さん!」


紬は慌てて梶原を引き止めた。


「いつもいつも、美味しいものをいただいてばかりで申し訳ないです! ちょっとだけ待っててくださいね!」


紬はタッパーを玄関のシューズボックスの上に置くと、パタパタと小走りでリビングへと戻った。そして、サイドボードの上に置いてあった、ある紙袋を手にして玄関へと戻ってきた。


それは、昨日の仕事帰り、銀座での取材帰りにデパ地下で購入したばかりの、パリに本店を置く最高級パティスリーの焼き菓子アソートメントだった。


「これ、昨日取材の帰りに買ってきた焼き菓子なんです! 限定のマドレーヌやフィナンシェが入っていて、賞味期限もまだたっぷりありますから。いつも美味しいご飯をいただいているお礼です。よかったら召し上がってください!」


白地に繊細な金箔のカリグラフィーが施された化粧箱には、淡いシャンパンゴールドのサテンリボンが綺麗に結ばれていた。


差し出されたその箱を見た瞬間。


梶原敦志の全身の筋肉が、まるで雷撃を浴びたかのように硬直した。


「…………っ」


梶原の瞳が大きく見開かれ、喉仏がごくりと重く上下する。


その反応を見て、紬は「あれっ」と少し不安そうに眉尻を下げた。


「あの……もしかして、甘いものはお嫌いでしたか……?」


「――いや」


梶原は絞り出すような、掠れた声で即座に否定した。


「嫌いではない。……むしろ、至高の贈り物だ」


「よ、よかった! 口に合うといいんですけど……」


「……ありがたく、いただく。大切に……命に代えても大切に扱わせてもらう」


「ふふ、お菓子ですから命まではかけなくて大丈夫ですよ! 美味しく食べていただければ一番嬉しいです!」


紬が屈託なく笑うと、梶原は手袋をつけた手……ではなく、震える素手で、その箱の両端をミリ単位の狂いもなく受け取った。まるで、世界で唯一現存する古代のガラス細工を受け取るかのような、極限の慎重さだった。


「では、失礼する。……タッパーは、洗って返してくれればいつでも構わない」


「はい! ごちそうさまでした、いただきますね!」


紬は満面の笑みで手を振り、玄関のドアを閉めた。


早速キッチンへ戻り、タッパーの肉じゃがを深皿に移して電子レンジで温める。


チン、という音とともに立ち上る、鰹と昆布の奥深い出汁の香り。一口箸を伸ばし、ホクホクのジャガイモを口に運んだ瞬間、紬は両手を頬に当てて蕩けるような声を上げた。


「んん〜〜っ! 美味しい……っ! お出汁が中までしっかり染み込んでるのに、全然煮崩れてない! お肉もすっごく柔らかいし、塩分が控えめだから素材の甘みがダイレクトに伝わってくる……!」


茶碗によそった白米が、驚くほどのスピードで消えていく。


「梶原さんって、見た目はすごく強面で寡黙だけど……本当に家庭的で、繊細で、優しい人だなあ。隣の部屋にこんな素敵な人が住んでてくれるなんて、私ってやっぱり世界一ついてるかも」


紬は幸せな溜息をつきながら、最後の一滴の煮汁まで大切に味わった。


――しかし。


壁一枚を隔てた隣の401号室の内部で、いま現実に繰り広げられている儀式を彼女が目撃していたなら、その「家庭的で優しいお隣さん」という認識は、恐怖の絶叫とともに宇宙の彼方へ吹き飛んでいただろう。


◇


午後六時十五分、401号室。


カチャリ、と重厚な玄関ドアのオートロックが四重に施錠された瞬間、梶原敦志の口から、張り詰めていた呼気が激しく吐き出された。


「ハァッ……! くッ……!」


梶原は壁に片手をつき、荒い呼吸を繰り返した。その両手には、紬から手渡された焼き菓子の箱が、水平器を当てたかのように完全に水平な状態で保持されている。


室内の照明は落とされ、防犯モニターの青白い光だけが、一切の生活感を排除した無機質な部屋を照らしていた。


テレビもソファーもない。壁一面には紬の行動動線を映し出す外部監視モニターが並び、ラックには暗視スコープ、防弾チョッキ、催涙ガス弾、そして各種スタンガンが軍隊のように整然と配備されている。ここは住居ではない。槇原紬の絶対防衛を遂行するための「前線指揮所」だった。


「……取り乱すな。手順を踏め」


梶原は自らに低く言い聞かせると、脱衣所へと直行した。


薬用石鹸で両手を五分間かけて徹底的に洗浄・消毒し、アルコールスプレーを全身に噴霧。さらに、埃一つ落とさない静電防止加工の特殊作業着に身を包み、滅菌されたラテックス手袋と医療用マスク、拡大鏡付きのヘッドルーペを装着する。


準備が整うと、梶原はリビングの中央に置かれた、防塵クリーンベンチの前に正座した。


無菌気流が循環するガラスケースの中に、紬からもらった焼き菓子の箱を静かに安置する。


「……美しい」


梶原の瞳に、底知れぬ崇拝と狂気の光が宿る。


ヘッドルーペ越しに観察すれば、サテンリボンの結び目、化粧箱の角、金箔の刻印――その至る所に、紬の華奢な指先が触れた微小な痕跡が残されていた。


梶原は懐から医療用の極細ピンセットを取り出した。


カチリ、と微かな金属音。


まずはリボンの結び目を、繊維の一本たりとも解れさせないよう、ミリ単位の慎重さで解いていく。解かれたシャンパンゴールドのリボンは、専用の真空パック用フィルムの上にシワひとつなく伸ばされ、即座に不活性窒素を充填した状態でヒートシーラーにより永久封印された。


ラベルプリンターが静かに印字を吐き出す。


『登録番号:TMG-0482 品名:サテンリボン(シャンパンゴールド) 接触者:槇原紬 受領日時:2026年10月4日 18時07分 保管状態:窒素置換・完全密閉』


「次だ」


続いて、箱を包む上質な包装紙の解体作業に移る。


セロハンテープの粘着面に付着した紬の指紋を破壊しないよう、特殊な剥離剤をマイクロピペットで一滴ずつ垂らし、テープを完全に浮かせて剥がしていく。広げられた包装紙は、低温スチームアイロンで裏面からミリ単位のシワを伸ばされ、紫外線遮断アクリルフレームの中へと収められた。


最後に残された、焼き菓子の本体。


中には個包装されたマドレーヌとフィナンシェが六個。


「……食べるわけがないだろう」


梶原は喉を鳴らし、低く呟いた。


彼女が選んでくれた、彼女の意志が宿った神聖なる供物。このような奇跡の結晶を、自らの口腔内で咀嚼し、胃酸で溶かして排泄するなどという冒涜が、一介の番犬に許されるはずがない。


梶原は焼き菓子を一個ずつ、マイナス三十度の急速冷凍保存用特殊セルへと収納した。半永久的に分子構造を劣化させず、未来永劫保存するための超低温保存プロトコル。


作業が完了すると、梶原は部屋の最奥――寝室のクローゼットの偽装パネルを押し開いた。


ギィィ……と重苦しいモーター音が響き、現れたのは――


総重量八百キログラム。スイスの銀行や軍事研究機関でしか採用されていない、最高機密規格の超巨大耐火・耐震・生体認証防湿金庫だった。


静脈認証、網膜スキャン、そして六十四桁の暗号コードを入力すると、プシューッという減圧音とともに、厚さ三十センチの特殊複合装甲扉がゆっくりと開放された。


金庫の内部は、まるで美術館の収蔵庫、あるいは中世の聖遺物廟だった。


温度十六度、湿度四十パーセントに常時自動制御された棚には、年代順に番号が振られた無数のアクリルケースが整然と並んでいる。


『TMG-0001:引っ越しの挨拶時に手渡されたファミレスの紙ナプキン(未開封)』


『TMG-0114:ゴミ集積所に落ちていた、紬が髪を束ねるのに使用したと思われる天然ゴム製輪ゴム』


『TMG-0235:回覧板に貼られていた「いつもありがとうございます!」の手書き付箋』


『TMG-0391:成瀬から奪還した手作りチョコチップクッキー(二枚・真空凍結保存)』


そして今夜、その神聖なるコレクションの最新列に、本日のリボン、包装紙、そして焼き菓子の保存セルが厳かに鎮座した。


梶原は手袋を外し、金庫の前で直立不動の姿勢をとると、深く、深く頭を垂れた。


「……紬。今夜も、お前の存在がこの命を繋ぎ止めている」


熱病に冒されたような祈りの言葉が、密室の闇に溶けていく。


その時だった。


ピリリリリ、ピリリリリ。


クリーンベンチの上に置かれていた、男四人の専用ホットライン端末が、唐突にけたたましい着信音を鳴り響かせた。


梶原は素早く表情を殺し、通話ボタンを押した。


「……俺だ」


『こんばんは、梶原さん。夜の巡回ご苦労さまです』


スピーカーから流れてきたのは、穏やかで柔和な、しかしどこまでも冷え切った保科貴文(ほしな たかふみ)の声だった。


『今、僕のクリニックのサーバーに、紬ちゃんのスマートウォッチから最新のバイタルログが届きましてね。心拍数は極めて安定、副交感神経が優位になり、非常にリラックスした状態で夕食を終えたようです』


「そうか。……問題ない」


『ええ、問題は大いにありますよ』


保科の声のトーンが、スッと一段下がった。


『先ほど彼女の血圧と水分貯留の予測値をシミュレーションしたのですが……梶原さん。あなた、先ほど紬ちゃんに肉じゃがを渡しましたね?』


「……ああ」


『その肉じゃがの塩分濃度、当然ながら【不可侵条約第6条・健康維持管理プロトコル】の規定通り、厳密に計算されたものなんでしょうね?』


受話器の向こうから、保科がカルテの紙をペラリとめくる冷たい音が響く。


『紬ちゃんは明日、大事なタイアップ企画の撮影立ち会いがあるんです。もしあなたの作った肉じゃがの塩分が過剰で、明日の朝彼女の愛らしい顔がわずかでも浮腫むようなことがあれば……分かっていますね? 即座に条約違反とみなし、成瀬くんにあなたの部屋の配電盤を爆破させますよ』


凄まじい同族の牽制。だが、梶原は眉ひとつ動かさず、平然と言い放った。


「愚問だ。出汁は北海道産の真昆布と、一本釣り本枯節の血合い抜きを通常の三倍量使用し、アミノ酸の相乗効果で旨味を極限まで引き上げた。醤油は減塩本醸造、みりんは有機三河みりんを厳密に計量。総重量四百五十グラムに対し、食塩相当量は二・四グラム――塩分濃度は正確に〇・七八パーセント以下に調合してある」


『…………』


「彼女の明朝の血圧変動はプラスマイナスゼロ、浮腫の発生確率は〇・〇二パーセント以下だ。貴様のカルテに書かれた推奨値を一ミリたりとも逸脱していない。……貴様こそ、明日の彼女の出勤時のサプリメントの調合にミスはないのだろうな」


数秒の沈黙の後、受話器の向こうで保科が「フッ」と満足そうに笑った。


『……完璧ですね。さすが元SP、任務の遂行能力だけは認めてあげますよ。彼女の健康を損なう調味料の過剰摂取は、愛ではなくただの毒ですからね。安心しました』


「用件が済んだなら切るぞ」


『ええ、おやすみなさい梶原さん。……あ、そうそう』


通話が切れる直前、保科が楽しそうに付け足した。


『成瀬くんからのタレコミで知りましたが、紬ちゃんから高級焼き菓子の詰め合わせをもらったそうですね。……明日の定例監視会議で、きっちり四等分にして持参するように。独占しようとしたら、あなたの部屋の鍵の暗証番号をすべて初期化して締め出しますから』


「貴様ら……ッ!」


ツーツー、と無慈悲に切れる通話音。


梶原は受話器を強く握り締め、金庫の奥に眠る焼き菓子のセルを見つめて唸り声を上げた。


「……渡すものか。貴様らのようなハイエナ共に、あの人の温もりを分け与えてたまるか……!」


◇


「ごちそうさまでした!」


同じ頃、402号室のダイニング。


綺麗に空になったお皿を流し台に運び、紬は満足そうにお腹をさすっていた。


「本当に美味しかったなあ。梶原さん、焼き菓子喜んでくれたかな? 明日、もし廊下で会ったら感想聞いてみよう」


紬は鼻歌を歌いながらお皿を洗い、温かいお風呂を沸かすために給湯器のボタンを押した。


外の夜風は静かに街を包み込み、街頭の防犯カメラは成瀬によって完璧に制御され、梶原の要塞からは一切の物音が漏れてこない。


今日もまた、世界で一番安全で、世界で一番狂気に満ちた無菌室の中で、槇原紬の平和な夜が穏やかに更けていくのだった。

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