第5話:Wi-Fiの不調は愛の囁き
穏やかな秋の陽光が、リビングの大きなガラス窓から差し込んでいた。
土曜日の午前十時。いつもなら出勤のための準備に追われている時間帯だが、今日は待ちに待った休日だ。槇原紬は、ゆったりとしたオフホワイトのロング丈ニットに薄手のレギンスという、くつろぎ度満点の部屋着姿で、ダイニングテーブルのノートパソコンと向き合っていた。
休日に淹れる特別なドリップコーヒーをマグカップに注ぎ、紬はマウスをクリックする。
「……あれ? また止まっちゃった」
画面の中央で、白い円がくるくると虚しく旋回を続けていた。
読みたいライフスタイル系の海外記事も、来週の連載企画で使う高解像度の画像データも、一向に読み込まれる気配がない。それどころか、スマートフォンの画面右上を見れば、扇形のWi-Fiピクトが三本から一本へ、果ては忽然と消え去ってモバイル通信へと切り替わってしまう始末だった。
「うーん……ルーターの電源を入れ直してみたんだけど、やっぱり途切れちゃうなあ」
紬は困ったように首をかしげた。
このマンションに入居して半年、設備のトラブルなど一度も起きたことがなかった。それだけに、ここ数日のネット回線の不調は少しだけ不便だった。動画を見ようとしても途中で止まり、夜に親友の莉緒と通話しようとしても音声がロボットのように歪んでしまう。
昨日の金曜日、オフィスの給湯室でたまたま居合わせた社内エンジニアの成瀬郁に「最近うちのWi-Fiの機嫌が悪くて」と何気なく零したところ、彼は目を丸くして身を乗り出してきたのだ。
『えっ!? 紬さんの自宅のネット環境に不具合ですか!? それ、僕がすぐ直しますよ! 明日、ちょうど紬さんのマンションの近くに用事があるんで、午前中にルーター見に行きます!』
『ええっ、でも成瀬くん、せっかくの休日なのに申し訳ないよ……!』
『全然! むしろ僕の趣味みたいなものですから! ネットワークの不調を放置するなんて技術者として許せません! 明日の十時半にお伺いしますね!』
子犬のように人懐っこい笑顔でそう言ってくれた成瀬の言葉が、紬には本当にありがたかった。社内システムのトラブルもいつもサラリと解決してくれる優秀な後輩男子が、休日の貴重な時間を使ってわざわざ見に来てくれるのだ。
「成瀬くん、もうすぐ来るかな。ちゃんとおもてなしの準備をしておかないと」
紬はキッチンへ向かい、冷蔵庫で冷やしておいた特製の麦茶をピッチャーに用意した。さらに、昨日「お礼に何か手作りのものを」と思い立って焼いておいた、一口サイズのチョコチップクッキーを可愛らしいガラスの小皿に盛り付ける。甘いバターとカカオの香ばしい匂いが、ふわりとリビングに広がった。
ピンポーン、と澄んだインターホンの電子音が鳴り響いたのは、約束の時間のちょうど三分前だった。
モニターを確認すると、黒いパーカーにリュックサックを背負った成瀬が、どこか緊張した面持ちで立っていた。
「はーい、今開けますね!」
紬がオートロックの解錠ボタンを押し、玄関の扉を開けると、そこには少し息を弾ませた成瀬の姿があった。
「おはようございます、紬さん! お休みの日にすみません、お邪魔します!」
「成瀬くん、おはよう! わざわざ来てくれて本当にありがとう。さあ、上がって上がって!」
紬がスリッパを差し出すと、成瀬の動きが一瞬ピシリと凍りついた。
その視線が、玄関のたたきに並べられた紬のオフホワイトのニットワンピ、無防備に覗く白い足首、そしてふわりと揺れる柔らかな髪へと吸い寄せられていく。
「……っ」
「成瀬くん? どうしたの?」
「あ、い、いえ! なんでもないです! お邪魔します!」
成瀬は首根っこまで真っ赤に染め上げながら、逃げるように玄関を上がり、リビングへと足を踏み入れた。
――しかし。
紬が笑顔で麦茶を注いでいる背後で、成瀬郁という青年の脳内は、常人の許容量を遥かに超えた大爆発を起こしていた。
◇
(か、可愛い……ッ! 死ぬ……ッ! 可愛すぎて心臓が破裂する……ッ!!)
成瀬はリビングの壁際に置かれた通信機器用のラックの前に正座し、背後を振り返らないよう必死に己を律していた。
部屋着。すっぴんに近い薄化粧。いつもオフィスで着ているカチッとしたシャツやタイトスカートとは違う、触れたら溶けてしまいそうなほど柔らかそうなニットの質感。
そして何より――この空間全体に満ちている、甘く優しい『槇原紬の匂い』。
シャンプーの微かなフローラルと、焼き菓子のバターの甘い香りが、換気口から送り込まれる清潔な空気と混ざり合い、成瀬の嗅覚を狂乱させていた。鼻血が噴き出すのを防ぐため、成瀬はリュックから取り出した特注のノートパソコンの画面を凝視し、必死で奥歯を噛み締める。
(落ち着け、成瀬郁……! 取り乱すな、理性を保て! ここで不審な挙動を見せたら、紬さんに『気持ち悪い』と思われる……! 嫌われたら死ぬ……確実に死ぬ……ッ!)
「成瀬くん、冷たい麦茶どうぞ。あとこれ、昨日クッキー焼いてみたんだけど、甘いもの大丈夫だった?」
コトリ、と机に置かれたガラス皿。そこには、こんがりとキツネ色に焼き上がった、不揃いだが温かみのあるチョコチップクッキーが積まれていた。
「ク、クッキー……!? 紬さんの……手作り……!?」
「うん。たいしたものじゃないけど、休日に来てもらったお礼にと思って。口に合えばいいんだけど」
「い、いただきます……! 家宝にします……じゃなくて、美味しくいただきます!」
成瀬は震える両手でクッキーを一枚つまみ、祈るように口の中へ放り込んだ。
サクッとした歯触りの後、芳醇なバターの風味とビターなチョコの甘みが口いっぱいに広がる。
(神の食べ物だ……! なんだこれ、ミシュラン三ツ星のパティシエが束になってかかっても勝てない……! この皿ごと真空パックにして、窒素充填して永久保存用ストレージに保管したい……いや待て、紬さんが目の前で見てるんだから食べなきゃ失礼だ……飲み込むのがもったいない……一生この味を舌の味蕾に焼き付けておきたい……!)
「どうかな……? 甘すぎなかった?」
不安そうに小首をかしげる紬に、成瀬は涙目でブンブンと首を縦に振った。
「最高です! 世界一美味しいです! 五千枚くらい食べられます!」
「ふふ、大げさだなあ。喜んでもらえてよかった!」
紬が嬉しそうに笑うのを見て、成瀬の胸がキューッと締め付けられる。
だが――成瀬は胸の奥で、強烈な罪悪感と冷や汗に苛まれてもいた。
なぜなら、この部屋のWi-Fiが不調に陥った原因は、他でもない【成瀬郁自身の仕業】だったからだ。
(……ごめんなさい紬さん。本当にごめんなさい……!)
成瀬は心の中で土下座を繰り返しながら、ルーターの裏側にLANケーブルを差し込んだ。
事の発端は先週のことだった。
鷹見が紬のスマホの通話履歴を法務部ルートで取得しようとした痕跡を察知した成瀬は、紬のプライバシーを完全に不可侵の要塞にするため、彼女の自宅ルーターに「軍事用レベルの超高強度暗号化プログラム」を遠隔で強制インストールしたのだ。
その暗号化の強度は、某国国防総省の機密通信に匹敵する化け物クラス。紬のスマホから送受信される全パケットを二十重の多重トンネルで暗号化し、街中の通信傍受や外部からのハッキングを百パーセント遮断する鉄壁の防壁。
……しかし、哀しいかな、市販の家庭用ルーターのちっぽけなCPUにそんな軍事衛星クラスの処理を行わせた結果、ルーターのメモリが常時オーバーヒートを起こし、回線がプツプツと遮断されるという致命的なバグを引き起こしてしまったのである。
(バカだ、僕のバカ! 紬さんを守りたい一心で、家庭用ルーターのスペックを考慮せずに軍事用スクリプトを突っ込むなんて、プロのエンジニアとして初歩的すぎるミスだ……! 紬さんに不便な思いをさせて……僕は万死に値する……!)
成瀬は自責の念に駆られながら、持参した特注の超小型産業用ルーターを取り出した。冷却性能に優れた航空宇宙規格のチタン合金ケースで覆われ、成瀬が自作した専用OSが組み込まれた、世界に一台だけのモンスターマシンだ。
「えっと、紬さん! 原因がわかりました! 以前のルーター、基板の経年劣化で熱暴走を起こしてたみたいです。ちょうど僕の手元に、検証用で余ってた最新型の高性能ルーターがあるので、これに交換しちゃいますね!」
「えっ、交換!? それ、高いものなんじゃないの……?」
「全然です! 会社の倉庫に転がってた余剰パーツを組み立てただけなんで、原価タダみたいなものですよ!」
(※嘘である。筐体だけで八十万円、内部の暗号化プロセッサを含めれば高級外車が一台買える代物だ)
「よかったあ……成瀬くんがいてくれて本当に助かっちゃった!」
成瀬はキーボードを叩き、瞬く間にプロバイダの認証と暗号化設定を完了させた。チタン製のケースが静かに青いLEDを点灯させ、部屋の中に超高速・超安定・そして誰にも盗聴できない絶対安全なギガビット回線が満ちていく。
「はい、これで完了です! スマホの速度テスト、してみてください!」
「わ、本当だ! アンテナが全部立ってる! 動画も一瞬で読み込めた……すごい、成瀬くん!」
紬は両手を叩いて歓喜した。
そして、そのあまりの嬉しさに、彼女は何の気負いもなく、成瀬の元へと駆け寄り――
「本当にありがとう! いつも頼りにしてるよ。成瀬くんは優秀だね」
――ぽん、ぽん。
無防備な笑顔のまま、成瀬の少し癖のある柔らかな黒髪を、優しく手のひらで撫でた。
「…………っっっっっっっっっ!?!?!?!?!?」
成瀬の全身に、数十万ボルトの電流が駆け抜けた。
頭皮に伝わる、紬の手のひらの温もり。
ふわりと鼻腔をくすぐる、至近距離のシャンプーの香り。
自分を見上げる、濡れたような大きな瞳。
ピピピピピピピピピピッ! ビビビビビッ!
成瀬の左手首に巻かれた医療用スマートウォッチが、鼓膜を劈くような電子音を立てて狂ったように振動し始めた。液晶画面には、真っ赤な警告ランプとともに、見たこともない数値が表示されていた。
【心拍数:158 bpm 異常頻脈を検知。直ちに安静にしてください】
(あ、あ、頭を……撫でられた……!? 紬さんに……褒められた……!? いつも頼りにしてるって……優秀だねって……撫で……撫で……ッ!!)
成瀬の視界が真っ白に明滅した。全身の血液が頭頂部へ逆流し、脳のヒューズが音を立てて焼き切れる。息が吸えない。胸が痛い。嬉しさと興奮とパニックで、今すぐこの場で絶叫して床を転がり回りたい衝動が全身を支配する。
――だが、その至福の極限状態を、無慈悲な現実が切り裂いた。
ブルッ、ブルッ、ブルッ!
ポケットの中のスマートフォンが、スマートウォッチとは別の、禍々しい特殊なリズムで振動したのだ。
成瀬が半狂乱のまま画面を盗み見ると、そこには黒地に赤い文字で、冷酷極まりない暗号コードが表示されていた。
『成瀬郁。滞在時間、規定の二十分を経過した』
発信元は、マンションの集中配管室。
『速やかに退出しろ。猶予は三十秒。……従わぬ場合、貴様の直上の主幹配電盤を物理的に切断し、マンション全館を強制停電させる。梶原』
「ヒッ……!?」
成瀬の背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。
梶原敦志。あの元SPの筋肉ダルマだ。
不可侵条約の付帯事項――【私的訪問における滞在時間は最大二十分以内とし、目的達成後は速やかに撤収すること】。もしこれを破れば、他の三名による無慈悲な共同制裁が発動する。
さらに、成瀬のスマホの画面には、次々と他二名からの凶悪なメッセージがポップアップしていた。
『成瀬くん。君の心拍数データが僕のクリニックのサーバーに転送されてきましたよ。随分と楽しそうなバイタルですね? 今すぐ出てこないと、君の肺に直接鎮静ガスを送り込みますよ。保科』
『貴様、社内規定違反および住居侵入の境界線上にいることを忘れるな。三十秒以内に退出しなければ、貴様の契約を即座に解除し、明日から無職にしてやる。鷹見』
(ひぃぃぃぃぃぃっ! あいつら、全員見てる……! 殺される、本当に殺される……ッ!!)
「成瀬くん? 顔が真っ赤だけど、熱でもあるの……?」
心配そうに顔を覗き込んでくる紬。その天使のような優しさが、今の成瀬にとっては致死量の劇薬だった。これ以上ここにいたら、心臓麻痺で死ぬか、外に潜む三匹の怪物に八つ裂きにされるかの二者択一だ。
「な、なんでもありませんっ! ル、ルーター完全に直りましたので帰りますっっ!!」
成瀬は跳ね起きるように立ち上がり、リュックをひっつかんだ。
「えっ!? もう帰っちゃうの!? 麦茶もまだ残ってるし、クッキー持って帰って――」
「クッキーはいただきます! お皿ごと……じゃなくて、ジップロックに詰めて持って帰ります! 失礼しましたあああっ!!」
成瀬は紬が用意してくれたクッキーの袋を胸に抱きしめ、靴を左右逆に履きそうになりながら、脱兎のごとく玄関を飛び出していった。
バタン! と勢いよく閉まるドアの音。
静まり返ったリビングに、紬はポツンと一人取り残された。
「……行っちゃった。成瀬くん、やっぱり休日なのに呼び出しちゃったから、次の予定があって忙しかったのかな」
紬は手元に残された空の麦茶グラスを見つめ、クスリと微笑んだ。
「でも、あんなに一生懸命直してくれて、クッキーも喜んでくれてよかったな。……本当に、私の周りの人たちって、みんな親切で一生懸命で、優しい人ばっかりだ」
紬はサクサクと快適に動くノートパソコンを開き、幸せな気持ちで企画書の執筆を再開した。
◇
それから三十分後。
港区の某所にある、鷹見グループの地下データセンター。
巨大な冷却ファンが轟音を立てて回転し、室温が常に五度以下に保たれた極寒のサーバールームの床の上に、一人の青年が正座していた。
「ハァ……ッ! ハァ……ッ! 冷たい……冷気が、気持ちいい……ッ!」
成瀬郁は、ラックから吹き出す氷のような冷風を全身に浴びながら、真っ赤に上気した顔を手で覆っていた。
その胸元には、紬からもらったクッキーの袋が、まるで世界で一番貴重な宝石のように抱きしめられている。
「撫でられた……紬さんに、頭を撫でられた……僕の人生、今日が命日かもしれない……」
成瀬はふらふらと立ち上がり、冷媒用の液体窒素ボンベの前に立つと、冷気で曇った金属の表面に額をペタリと押し当てた。ジュウウ、と熱が吸い取られていく感覚に、ようやく焼き切れそうだった理性の温度が平熱へと戻っていく。
「ふへ……へへへ……。クッキー、一枚ずつ真空パックにして、冷凍保存しなきゃ……。残りの三枚は、毎日一ミリずつかじって食べよう……」
成瀬が至福の妄想に浸りながら薄気味悪く微笑んでいると、サーバールームの重厚な防音扉が、ガバッと乱暴に開け放たれた。
「――成瀬」
冷気の霧の中から現れたのは、黒いコートを羽織った梶原敦志だった。
その背後には、冷たい笑みを浮かべた保科貴文と、眉間に深い皺を刻んだ鷹見征司の姿もあった。
「ひっ……!?」
成瀬が小さく悲鳴を上げて後退る。
梶原は無言で成瀬の前に歩み寄ると、成瀬が抱きしめているクッキーの袋を、鋭利な鷹のような目で見下ろした。
「……貴様。頭を撫でられたそうだな」
「それは紬さんが勝手にやったことで僕に非はありません条約違反じゃないです不可抗力です!!」
成瀬が機関銃のように叫ぶと、保科が穏やかに、しかし絶対的な威圧感をもって眼鏡を押し上げた。
「ええ、ログ映像を見る限り、君からの能動的な接触ではありませんでしたね。ですから今回は、物理的制裁は見送ってあげます。……ただし」
鷹見が一歩前に踏み出し、冷徹な声で宣告した。
「そのクッキーを、四等分しろ」
「はァァァァァァァッ!?」
成瀬が絶叫した。
「嫌ですよ! これ紬さんが僕のために焼いてくれたんです! 僕が汗水垂らしてルーター直した労働の対価ですよ!? なんであんたたちに分けなきゃいけないんですか!?」
「貴様が持ち帰ったクッキーは計八枚」
梶原が懐から滅菌ピンセットを取り出し、カチリと鳴らした。
「一人二枚だ。……拒否するなら、貴様が紬の部屋のルーターに仕込んだ特注スクリプトの存在を、今すぐ彼女に匿名メールで通報する」
「うぐっ……!? ひ、卑怯者……ッ!」
「何とでも言え。彼女の手料理を独占しようなど、万死に値する抜け駆けだ」
鷹見が手を差し出し、保科が滅菌シャーレを構え、梶原が袋を奪い取ろうとする。
極寒のサーバールームの中で、男たちの醜くも熾烈な「手作りクッキー分配戦争」が幕を開けた。
外の秋空はどこまでも青く澄み渡り、紬の暮らす無菌室は、今日もまた誰にも知られることのない平和に包まれていたのだった。




