第4話:デスクの先輩と美味しいランチ
営業統括本部の角田元部長が「一身上の都合(実態は一晩での電撃的懲戒解雇)」により忽然と姿を消してから、数日が経過していた。
嵐の去った『Lumiere』編集部は、これまでにないほど穏やかで風通しの良い空気に包まれている。角田の後任として暫定的に営業を統括することになった女性部長は極めて論理的かつ温厚な人物で、紬が練り直した『暮らしを整えるエシカル特集』の修正企画書を見るなり、「素晴らしいわ。送客の導線も完璧だし、ぜひこのまま進めましょう」と満面の笑みで判子を押してくれた。
「ふう……っ! 午前中のノルマ、全部終わった!」
午前十一時五十八分。オフィスのデスクで思い切り両腕を天に突き上げ、槇原紬は心地よい疲労感とともに伸びをした。
パソコンの画面には、来月号の特集スケジュールが綺麗に色分けされて並んでいる。理不尽な怒号に怯えることもなく、自分の書いた文章や集めたデータが正当に評価される。働く人間にとって、これほど幸福な環境があるだろうか。
正午を告げるチャイムが社内に鳴り響いた、まさにその瞬間だった。
「紬ー! ご飯行こ、ご飯! 今日はもう朝から口が完全に『アレ』の口になってるのよ!」
パーテーションの向こうから、キャスター付きのオフィスチェアを器用に滑らせて現れたのは、先輩デスクの関茉莉花だった。
肩上で切りそろえたボブヘアを揺らし、首から提げた社員証ストラップには、某人気若手舞台俳優のアクリルスタンドが堂々とぶら下がっている。サバサバとした性格で仕事は超一流、だがプライベートのエネルギーの九割を「推し活」に注ぎ込んでいる、紬の頼れる相棒だ。
「茉莉花先輩、お疲れさまです! 『アレ』ってことは……もしかしてあのお店ですか?」
「当然! 裏路地の『四川酒家 翠嵐』! あそこの激辛黒胡麻担々麺をキメて、今週の原稿地獄で溜まった毒素を一気に汗と一緒にデトックスするわよ!」
「賛成です! 私も昨日から無性に辛いものが食べたかったんです!」
紬が笑顔で立ち上がると、二人は連れ立ってエレベーターホールへと向かった。
赤坂のオフィス街は、ちょうどランチタイムのピークを迎えようとしていた。ビルのエントランスを抜けると、秋晴れの青空の下、大勢のビジネスパーソンたちが飲食店を求めて列をなし始めている。
茉莉花が目指す『翠嵐』は、古い雑居ビルの地下にある隠れ家的な名店だ。テレビの激辛特集でも度々取り上げられる人気店で、普段のランチ時なら階段の上まで十人以上の行列ができているのが当たり前の店だった。
「うーん、出遅れたかなあ。いつもならこの時間は絶望的な並びなんだけど……」
茉莉花が眉をひそめながら細い路地を曲がり、店の看板を覗き込んだ。
すると、どうだろうか。
階段の前に並んでいたはずの数組のサラリーマンが、なぜか一斉に腕時計を見ながら「あ、やべっ、別件の電話入った」「俺ら時間ないからコンビニにしようぜ」と口々に言い合い、蜘蛛の子を散らすように去っていくではないか。
さらに、二人が地下の扉を開けた瞬間、奥の最も広々とした四人掛けのボックス席から、ちょうど先客が会計を終えて立ち上がったところだった。
「いらっしゃいませー! お二人様? ちょうど奥のテーブルが空きましたのでどうぞ!」
「……えっ、嘘でしょ!? 待ち時間ゼロ!?」
茉莉花が目を丸くして紬の肩を揺さぶった。
「信じられない! ここのボックス席なんて、予約客かオープン直後に行かないと絶対に座れない特等席よ!? 紬、あんたやっぱり何か持ってるわ……!」
「えへへ、タイミングが良かっただけですよ。先輩、日頃の行いがいいんじゃないですか?」
「私の日頃の行いなんて、推しの配信に課金して夜更かししてるだけよ! 絶対あんたの運のおかげ!」
ボックス席に腰を下ろし、紬は名物の『特製黒胡麻担々麺・中辛』を、茉莉花は『黒胡麻担々麺・極辛』に小籠包のセットを注文した。
運ばれてきた担々麺は、湯気とともに立ち上る花椒の痺れるような香りと、自家製芝麻醤の濃厚な黒胡麻のコクが渾然一体となった、まさに芸術的な一杯だった。深紅のラー油が漆黒のスープに浮かび、たっぷりと盛られた肉味噌と青梗菜が食欲をそそる。
「いただきまーす!」
紬は割り箸を割り、スープを一口レンゲですすった。
「んん〜〜っ! 美味しい……! 胡麻の香ばしさがすごくて、その後にピリッと心地いい辛さが追いかけてきます!」
「でしょう!? ここの辛さはただ痛いだけじゃなくて、旨味の暴力なのよ! あー、生き返るわ……」
茉莉花は額にほんのりと汗を滲ませながら、極辛の麺を豪快にすすり、幸せそうに息を吐いた。
小籠包の熱々のスープをレンゲの上で割り、針生姜を乗せて口に運ぶ。女子トークに花が咲くのは、ごく自然な流れだった。
「それにしてもさあ」
茉莉花が紙エプロンで胸元を押さえながら、ふと箸を止めて紬を見つめた。
「角田部長の件、本当に驚いたわよね。あんな絵に描いたようなパワハラ狸オヤジが、紬に怒鳴り散らした翌朝に即日クビよ? 普通、大企業のコンプライアンス調査なんて、委員会立ち上げてヒアリングして、処分が下るまでに数ヶ月はかかるものじゃない」
「そうですね……人事部や法務部の方々が、よっぽど迅速に動いてくださったんだと思います。本当にありがたいです」
「ありがたい、ねえ……」
茉莉花は目を細め、怪しむように顎に指を当てた。
「あのね、紬。あんた、入社してから今までのこと、よーく思い出してみてよ」
「え? 今までのことですか?」
「そうよ。去年の夏、他社の悪質クレーマーに目をつけられて、毎日嫌がらせの電話をかけてこられたことがあったでしょ? あの時も、あんたが『ちょっと困っちゃって……』って編集部で零した三十分後に、相手の会社の社長直筆の謝罪文が内容証明で届いて、クレーマーは解雇されたじゃない」
「あ、ありましたね! あのクレーマーさんの会社の上層部が、すごくコンプライアンス意識の高い立派な方々だったんですよね」
「違うでしょ。普通、零細メディアの一編集者のクレームに、相手企業の社長が土下座レベルの謝罪文送ってくるわけないじゃないの!」
茉莉花のツッコミに、紬は「あはは、確かにそう言われると運が良すぎましたね」と無邪気に笑う。
「それだけじゃないわよ!」
茉莉花は身を乗り出し、声を一段低くした。
「去年の冬の忘年会帰り、駅前でタチの悪いナンパ男にしつこく腕を掴まれそうになった時もそう! あんたが『やめてください』って言った瞬間、どこからともなく『パトカー三台』がサイレン鳴らして急行してきて、ナンパ男は公然わいせつと暴行未遂の現行犯で即連行よ? 通報してからパトカーが到着するまでの所要時間、わずか四十秒だったのよ!?」
「日本の警察の治安維持能力、本当に世界最高峰ですよね! 私、感動して交番にお礼の手紙書こうかと思ったくらいです!」
「……あんたねえ」
茉莉花は深く溜息をつき、額を押さえた。
「痴漢も、変質者も、クレーマーも、果てはセクハラ上司まで……あんたに悪意を向けた人間が、例外なく二十四時間以内に全員『神隠し』に遭ってるのよ。もはやこれ、港区全体にあんたを守るための『結界』でも張られてるとしか思えないんだけど。……なんなの? 結界都市・港区なの? あんた、実はどこかの由緒正しい陰陽師の末裔か何かなわけ?」
「もう、茉莉花先輩ったらマンガの読みすぎですよ〜!」
紬は楽しそうに吹き出し、レンゲでスープをすくった。
「結界なんてあるわけないじゃないですか。私、ただの地方出身の平凡な一般人ですよ? きっと、日頃の行いがいいから、神様がちょっとだけおまけしてくれてるんだと思います。ほら、先輩も早く食べないと麺が伸びちゃいますよ!」
「はいはい、そうね……。神様ねえ……」
茉莉花はまだ何か言いたげな表情を浮かべながらも、再び箸を動かし始めた。
その様子を、紬はただの「先輩のお茶目な冗談」として受け流していた。
――しかし。
その時、店の外に広がる現実の光景を紬が見ていたなら、彼女の「平凡な日常」への認識は、音を立てて崩壊していただろう。
◇
中華料理店『翠嵐』が入る雑居ビルの真向かい。
パーキングメーターが設置された路上に、フルスモークガラスで車内の様子が一切見えない、漆黒の高級ハイヤーが一台、静かにアイドリングを続けていた。
車内は、冷房がキンキンに効かされ、青白いディスプレイの光だけが怪しく明滅していた。
後部座席に深く身を沈めているのは、オーバーサイズの黒いパーカーのフードを目深に被った青年――社内エンジニアの成瀬郁だった。
成瀬の耳には、軍事用の超高精度ノイズキャンセリングヘッドフォンが装着されている。そのヘッドフォンが拾っているのは、地下の中華料理店の奥のボックス席――紬の胸元に揺れる社員証ストラップの金属クリップに仕込まれた、米粒ほどの極小集音マイクからのクリアな音声だった。
『――もはやこれ、港区全体にあんたを守るための『結界』でも張られてるとしか思えないんだけど。……なんなの? 結界都市・港区なの?』
「……ッ!!」
ヘッドフォンから流れてきた茉莉花の声を聞いた瞬間、成瀬の全身の毛穴がキュッと収縮した。
心拍数モニターのグラフが、ピクンと鋭い波形を描く。
「関先輩……っ! 勘が良すぎるんだよ、あの人……!」
成瀬は奥歯をギリリと噛み締め、膝の上に置いた特注ノートパソコンのキーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
「まずい、まずいまずいまずい! 紬さんが『自分の周囲の異常さ』に自覚を持ったら一巻の終わりだ! もし紬さんが僕たちの存在に気づいて、怖がって逃げ出したりしたら……僕、生きていけない……ッ!」
成瀬の瞳から光が消え、病的なまでの焦燥感がその白い肌を青ざめさせる。
不可侵条約の最重要鉄則――【紬に自らの不自然な環境を悟らせてはならない】。
もし彼女が「誰かが裏で人間を排除している」と知れば、生真面目で心優しい彼女は恐怖し、人間不信に陥り、笑顔を失ってしまう。それは四人のヤンデレたちにとって、もっとも避けなければならない破滅のシナリオだった。
「関先輩の思考を逸らす……! 今すぐ、一秒以内に、紬さんの結界から意識を完全に別の銀河へ吹き飛ばす特大の情報をぶち込まないと……!」
成瀬の指先が、もはや肉眼では捉えられない速度でキートップを連打する。
カタカタカタカタッ、ターン!
「関茉莉花の個人スマートフォンのローカルキャッシュ、SNSの鍵アカウント、ブラウザの検索履歴を並列解析……! 直近一週間で彼女が最も執着している対象は――」
モニターに、ある若手舞台俳優のファンクラブページと、チケット売買サイトのログが瞬時に展開された。
【如月蒼太 凱旋単独ファンミーティング&トークライブ 東京最終公演】
「これだ……!」
成瀬は即座にチケット販売大手の基幹データベースへ、バックドアから音もなく侵入した。
「倍率三百倍のプラチナチケット……ファンクラブ一次先行、二次先行ともに落選。現在、一般販売のキャンセル待ち状態……。よし」
成瀬は悪魔のような笑みを口元に浮かべながら、データベースの当選者レコードの一行を書き換えた。
「関係者・スポンサー招待枠の最前列中央――通称『神席』の座席番号A列十二番。キャンセル発生による繰り上げ当選のフラグを立てて、関茉莉花のアカウントを強制紐付け……! ついでに公式ショップのサーバーにも割り込んで、会場限定・五百セット限定の『直筆サイン入り生写真コンプリートBOX』の優先購入シリアルコードを彼女のメールアドレス宛にプッシュ通知……!」
成瀬の指が、決定打となるエンターキーを力強く叩き落とした。
「行けッ……! 推しの力で、関先輩の脳内メモリを強制フォーマットしろ……!!」
◇
「――だからね、紬。あんたはもう少し危機感を持つべきなのよ。世の中にはね、一見親切そうに見えて裏で何を考えてるか分からない男が山ほど……」
担々麺を食べ終え、ジャスミン茶を飲みながら説教を続けようとしていた茉莉花だったが。
ピロリン♪
テーブルの上に置かれていた茉莉花のスマートフォンが、甲高い通知音を鳴らした。
「ん? もう、お昼休みに誰よ……公式からのメルマガかな……」
茉莉花は何気なく画面を覗き込み――そして、そのまま石のように硬直した。
「……え?」
「先輩? どうしたんですか?」
紬が小首をかしげる。
茉莉花の瞳が、信じられないものを見るように見開かれていた。呼吸が止まり、顔色が赤から青、青から白へと目まぐるしく変化していく。
スマートフォンの画面には、特大のフォントでこう表示されていた。
『【重要】如月蒼太 凱旋単独ファンミーティング チケット繰り上げ当選のお知らせ(座席:A列12番)』
『【特典】公式限定直筆サイン入り生写真BOX 優先購入権が付与されました』
「…………」
「せ、先輩……? 大丈夫ですか……?」
次の瞬間。
「ぎゃあああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっ!!!!」
地下の店内に、鼓膜を突き破らんばかりの絶叫が木霊した。
他のお客や店員が一斉にビクッと飛び上がり、厨房の料理人が中華鍋を落としそうになる。
「せ、先輩!? どうしたんですか急に!?」
「あ、当たった……当たった当たった当たったああああっ!! 蒼太くんの凱旋ツアー! 全落ちしてメルカリで十万積んでも手に入らなかった幻の神席が! 最前列のドセンが当たったああああっ!!」
茉莉花は立ち上がり、紬の両肩をガシガシと掴んで激しく前後に揺さぶった。その目からは大粒の涙が滝のようにボロボロと溢れ出ている。
「見て紬! A列よ!? A列の十二番! 蒼太くんの毛穴まで肉眼で見える距離よ!? しかも直筆サイン入りの生写真BOXの購入権までついてるの! なんで!? なんで当たったの!? 私、前世で国でも救ったの!?」
「わ、わかりませんけど……! とにかくすごいです先輩! おめでとうございます!!」
紬もつられて目を輝かせ、パチパチと拍手を送った。
「ほら、やっぱり言った通りじゃないですか! 茉莉花先輩の日頃の行いがいいからですよ! 角田部長の理不尽な怒号にも負けずに、いつも後輩の私を守ってくれて……神様がちゃんと見ててくれたんですよ!」
「紬ぅぅぅ……! あんたって子は本当に……! ううっ、午後からの仕事、私死ぬ気で頑張る! 生きる希望が湧いてきたわ……!」
茉莉花はスマホを胸に抱きしめ、天を仰いで咽び泣いた。
先ほどまで熱心に語っていた「港区の結界」や「神隠し」の疑惑など、彼女の脳内からは完全に消滅し、ただ「最前列で推しを拝むための参戦服を何にするか」という至福の妄想だけで埋め尽くされていた。
「ふふ、よかったですね、先輩」
紬は満足そうに微笑み、最後のお茶を飲み干した。
「やっぱり、今日も世界はとびきり優しいな」
◇
一方、店外の黒塗りハイヤーの中。
ヘッドフォン越しに、茉莉花の歓喜の絶叫と、紬の屈託のない笑顔の音声を聞き届けた成瀬は、ぐったりとシートの背もたれに倒れ込んでいた。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ……っ……!!」
成瀬はパーカーの袖で、額にびっしりと浮いた冷や汗を乱暴に拭った。心拍数モニターは、ようやく百二十から通常の七十へと落ち着きを取り戻しつつあった。
「あ、危なかった……! 心臓止まるかと思った……! ハッカーとしての僕の神聖なスキルを、まさか若手舞台俳優のチケット発券システムを改ざんするために使うことになるなんて……!」
成瀬は助手席の保冷ボックスからアイスラテを取り出し、ストローで一気に半分ほど飲み干した。冷たい液体が喉を通り抜け、ようやく焼き切れそうだった脳の熱が下がっていく。
「……でも、まあいいや」
成瀬はモニターに映る、中華料理店の出口から笑顔で出てくる紬の姿を、愛おしそうに見つめた。
「紬さんの笑顔が守れたなら、チケットの一枚や二枚、安いものだしね。……関先輩、当分は推し活で忙しくて、紬さんの周りを嗅ぎ回る暇なんてないでしょ」
成瀬は満足げに小さく笑うと、ノートパソコンのホットラインを開き、鷹見、保科、梶原の三人が待機するグループチャットへメッセージを打ち込んだ。
【成瀬:インシデントコード・イエロー(情報漏洩未遂事案)、無事にクリア。関茉莉花の関心誘導工作、完了しました。紬さんの平穏は完全に維持されています】
即座に、三つの既読がつき、返信が返ってくる。
【鷹見:了解した。チケットの差額およびシステムへの工作費用は、広報費のダミー勘定から補填しておく。……ご苦労だった】
【保科:ふふ、お見事です成瀬くん。関さんの精神状態もこれで極めて多幸感に満たされるでしょうから、紬ちゃんへの好影響も期待できますね】
【梶原:……退店動線の確保、完了。店外の不審者ゼロ。二人は無事にオフィスへ戻る】
画面を閉じ、成瀬は深くシートに身を沈めて小さく息を吐いた。
「ふふ……紬さん。午後のお仕事も、僕が全部見守っててあげるからね……」
秋の柔らかな日差しの中、ハイヤーは音もなく発進し、港区の雑踏の中へと溶け込んでいった。
無菌室の壁は、今日もまた、誰にも知られることのない完璧な連携によって、より強固に補強されたのだった。




